響き渡るのは甲高い金属音。
些細な音なら呑み込んでしまう音量で、けれど穏やかに降り続ける雨の中、次いで聞こえたのは水気を含んだ音と乾いた音。


水気を含む音は、体勢を崩し、この静かな雨の中でも一際緩んだ地面に尻餅をついた時の音。
乾いた音は、己の手から離れた刀が、比較的雨に浸食されていない地面に突き立った時の音。


双方の音の発生源を隔てるように、間には槍を持った青年が一人。
左右の手に一振りずつ槍を握り、その内の一方の切っ先は此方を向いている。
少しでも不審な行動を取ろうものなら一瞬で貫かれるだろう切っ先との距離。
刃もさることながら、彼から放たれる烈気が、丸腰となったを圧倒する。


その大きな力に呑み込まれぬよう、不様な体勢でありながらもは相手を鋭く見据えた。


一時の事とはいえ、戦である事を忘れて刃を交える程の相手への、それが礼儀だと思ったから。


腕に覚えのある者なら、一度は仕合いたいと望む勇将。
「紅蓮の鬼」の通り名を持つ、武田軍の若き武将。


雨の中、彼が身に付ける紅の鮮やかさが映える。





「そちらの負けだ………某に降れ」





真田源二郎幸村。
彼の見下ろす目を、逸らすことなく見返し。




















そうしては、討ち取られる覚悟を決めた。




















筈なのに。





「何で私、こんな所にいるんだろ………」





呆然として呟く、の手の中には湯呑み。
縁側に腰掛けた脇には茶菓子を載せた皿。


にとって、敵地であるというのに。
うっかり穏やかな空気に身を委ねてしまいそうになる、此処は武田の屋敷。


戸惑いも露わなの目に映るのは、拳で語り合う敵総大将……信玄と、戦場で刃を交えた幸村の両名。


先程から、一度聞けば耳について離れない叫びあいを始めてどれくらいになろうか。
最初にこれを聞いた時は衝撃で言葉を失ってしまったものの、時が経てば慣れが来る。
慣れてしまえば、後は同じような事の繰り返しである為、早々と飽きが来てしまった。





「何でって言われてもねぇ。君にそうしてもらってる事が旦那の意向だし、大将もそれに乗っかっちゃったし」





独り言だった呟きに、苦笑を交えつつ答えたのは真田忍隊の長、佐助。
柱に背中を預けて視線を送る先は、と同じ方向。





「ま、捕虜なんだから文句は言えないんじゃない?生かすも殺すも勝ち組の意向、ってね」

「それはそうでしょ。私が言ってるのはそうじゃなくて、捕虜なら捕虜に対する処遇ってものがあるでしょ?」

「のんびり茶ぁすすってるのは嫌いかい」

「捕虜に茶菓子付きで茶を出す国なんて聞いた事がないって話。」





未だ手をつけてもいない茶菓子を一瞥して、視線を動かした流れでそのまま佐助を見上げると、面白そうに笑みを浮かべる彼と目が合う。
敵である敵とも思っていない武田軍二将と同様。
彼の眼差しにはを敵として見る色が含まれていない。


主君の身の回りに最も注意を払っていなければならない忍なのに。


気にする程でもない相手だと言われているようで、少しむっとする。





「私は見下されているのか」

「いや、そういう事じゃ……おっ」





不満も露わに佐助を睨み付ければ、本気なのか否か分からない笑みを浮かべて曖昧な言葉を返してくる。
その言葉が、中途半端に途切れた。
何かに気付いたように、目がおもむろに庭の方に向く。


ほぼ同時に聞こえてきたのは、激しくも鈍い音。





「ぐほぁっ!!」

「………え?」





叫びというか呻き声。
佐助の視線と音と声につられて正面、庭先に顔を戻したの目。


にわかに赤い物が急速接近してくるのを確認。


何、と正体を確かめる前に、避ける間もなく、『それ』はに接触し。





「「がはっっ!!?」」

「あーらら……やっちゃった」

「む、これはいかん!」





勢いはあったが、足が縁側のへりに引っかかった為、もろとも吹き飛ばされるなどという事態にはならなかった。
が、幸か不幸かそのせいで、赤い物にそのまま押し潰される羽目になってしまう。


倒れた拍子にぶつけた後頭部がじわじわ痛い。
圧されて身動きが取れない中で、は何とか現状を確認すべく動いた。


飛んできた物が一体何か、自分の上に乗っている赤い物の下から何とか手を引き抜いて、触れる。
表面を滑らせてみれば、手のひらに肌の感触。





………肌?





びくりと物体が動いたかと思うと、次の瞬間に『それ』はの上から飛び退いていた。





「うわあぁぁぁっ!!も、申し訳ござらぬ殿っ!!」

「は……え?」





はじけるように離れていった赤い物が、大音声で謝ってきた。


急に開けた視界が眩しい。
目をぱちぱちと瞬かせていると、床に接していた背に腕が回される。
何を、と思っている間に身を起こされ、気付けば幸村の顔が目の前、至近距離にあった。


瞠目する。


彼の顔はひどく必死で、その慌てた様子は自身が被った事態を忘れて何事かと思ってしまう程。





「お怪我はござらぬか!?ああっ召し物に茶が!!」

「とかいいながら旦那、心配してるのは分かるけど、ぺたぺた触りすぎ」

「うぉぉ!幸村っ、このたわけめが!!おなごを下敷きにするなど言語道断じゃ!!」

「相分かっておりますっ、全て、全て某の不徳の致す所ぉぉぉおっ!!」

「旦那吹っ飛ばしたの、大将じゃなかったっけ?」





抱えられたまま、は呆然として事の成り行きを見守る。
幸村が何か一言喋る度、自らの所業に対し猛省の念を強くする度に体を支えている手に力が込められ、少し痛い。


佐助の冷静な指摘も何のその、聞く耳持たずに主従二人の熱は暑苦しくも再び上がっていく。


懐刀でも持っていれば一突き出来そうな近さに敵国の捕虜が何の拘束もなくいるというのに、それすら眼中にない様子で。


危機感がないのか、敵とすら思われてないのか。


ともかく。


の目の前で繰り広げられているのは、戦とはおよそ無縁な彼らにとっては『日常』。
少々暑苦しいが、そこに殺伐とした空気はない。
相対した時、震えが来る程の烈気を身に纏わせていた幸村も今や子供のよう。





      はて





拍子抜けする処遇、毒気を抜かれてしまう気配に感化されたか。


口元に手を当てるのは、緩んでくる頬を戒める為。
しかし抑えようという思いとは裏腹に、口角が持ち上がってしまうのは何故か。





   ははっ、おかしな所だ、武田ここは」

「……殿?」





浮かんだ、笑顔。
先程まであれだけ不満そうだった面に俄に浮かんだ笑顔の屈託のなさに。
幸村含むそれを見ていた皆が目を奪われる。








一時は討ち取られる覚悟さえした相手の領内。
ここを訪れてからの対応に戸惑いは覚えたが、それでもいつもどこかで気を張っていた。


だが。


味方同士で殴り合い、それに巻き込んでしまった捕虜の身を、可笑しい程慌てながら心配されれば。
緊張の糸も自然と切れてしまう訳で。








にとってはこの上なく不利な、この場所。


どうしてか、今は不思議と心地が良い。








幸村の手を離れ、口元を隠しながらも隠しきれぬ様子で肩を震わせて笑う。
その間もひたすらに感じる、三つの視線。
それすらも可笑しく思えてしまって、笑いの衝動を止めようにもなかなか止められない。


が、そこでふと気付く。
幸村が呆けたような顔のまま、先程からずっと自分を凝視していることに。





「……どうなされた?」





止められないでいる笑いの、それでも合間を縫い、何とか問いかける。


さすがにここまで大笑いしていては気分を害したかと、彼が妙な目で自分を見続ける理由を己の態度に求めたが。


ついつい弧を描いてしまう目をしっかりと開いてようようその表情を窺い見てみれば、出くわしたのは思わぬ表情。
『鳩が豆鉄砲を食ったような』。
その比喩は今まさにこの時の為にある物なのだと強く納得してしまう、驚いた顔。


そんな顔が、見る間に紅潮していく。


何故。
顔を赤くする理由が分からなくて、小首を傾げ、どうなされたのかと再び問おうと口を開く。
途端。





「は……破廉恥でござるっ!!」

「あ、ちょっと!?」





の言葉が音になるよりも先に叫んだかと思いきや、制止の声も聞かず脱兎……などという可愛らしい表現などとても似つかわしくない勢いで走り去ってしまった。
引き留めようと差し出すも不発に終わった手が、空しく宙を掻く。


砂煙だけ巻き上げて、幸村の姿はどこにも見当たらない。


もうもうと辺りを煙らせる砂を見つめ、それを巻き上げた人物の事を思う、





「……本当に、おかしな方だ」





少々暑苦しいと感じる程熱い性格で、声が大きい。
感情も良く表に出、よく出過ぎてむしろ意味の分からない場合が多々ある。
付き合い方を模索するには少々手間取る種類の人間ではあるが。





      面白い方だ





戦場で見えた時の姿が幻であったかと疑っても仕方ない、平時の幸村。
最初こそ戸惑いはあれど、暫くして冷静になってみればそれはそれで面白いと思えてくる。


感情が表に出るのは己の思いに対し素直だからだ。
きっと嘘は吐けない質だ。
あれだけ声も大きく直情型のようだし、からかえば相当に面白い反応を返してくれるのではないだろうか。


此処にいる限り飽きる事は無さそうだ、と捕虜の身である事もすっかり忘れ、思う。


その時のの面に浮かぶのは、はっきりとした微笑み。


この命彼に託した事、あながち間違いではなかったか。


つい先程まで己の身の在り方に不満を訴えていたのは何処へやら、心も軽く、は幸村の消えていった先を見つめる。









今後に僅かなりとも心躍る期待をしていた彼女は、幸か不幸か、背後で生じた呆れの気配には気付いていない。




















『某、彼の方を配下に加えとうございます!!殿のあの目に惚れ申した!!』





「……って、彼女の処遇決める時のあの勢いは何処へ行ったのやら……」





捕縛したの処遇を決める際、幸村は真摯な顔でそう信玄に直談判していた。


『惚れた』という表現は、その時は恋愛感情など関係なく口にしたと思われるが。
逃げ去った幸村の様子からするに、少なくとも今となってはその四字が……無自覚だったとしても芽生えていると見ても良さそうだ。


だからこそ佐助は、落胆したように息を吐いた。





「この調子じゃ配下の話も自覚するのもいつになるか分かったもんじゃない。大将手伝ってやったらどうです?」





音もなく信玄の方に移動して、に聞こえぬよう密やかに提案する。





「いや、年寄りが手を出すのはもう少し後で良かろう。幸村がどうするか、見ものじゃな」

「はぁ……」

「うむ……若い者は良いのう」





信玄は既に傍観者になる事を決めていた。
面白がる色を顔に滲ませて、微笑を浮かべているを穏やかな眼差しで見つめている。


その横で、これは何を言っても聞かない、と悟った佐助は溜息を吐き。
そうした佐助も、やはりあの旦那がどうするのかと興味があり、面白そうだからと暫く様子を見る事にするのだった。































腰を上げるのも遅く、書き上げるのも遅く、気付いてみれば梅雨も綺麗さっぱり過ぎ去った8月の下旬。
遅い。遅すぎる。お前の時間感覚はどうなっとんのじゃ。
そんな声と共に火矢の雨が降り注いできそうですが、『水』に関する五のお題「雨不破塊」掲載です。

幸村で書こう!とまでは決まってたんですが、シリアスで行くかぼけぼけでいくかとか
初心に返って固ーい文章で行くか会話を重視した感じで行くかとか
色々悩みつつ書いてたら、あらこんな中途半端な出来に。
楽しみましたけどね。平和な武田軍。

幸村でシリアス書きたいなーとか思ったけど、戯の抱く幸村のイメージじゃちょい無理だなってのと
近頃の戯の頭のお天気っぷりじゃシリアス無理なので(根本的だな)
こんなんなりました。これはこれで満足してます。

んじゃ次行ってみよう!『雲心月性』。
どうなるかなー。

雨不破塊(あめ つちくれをやぶらず)……雨が静かに降って土くれさえも壊さない。世の中が平和である事のたとえ。



2006.8.21
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