笹の露










 気怠げな溜息を一つ吐く。
靄、というよりも、湯気で煙ったような感覚がある頭を軽く振り、現状打破を試みる。
だが、望んだような効果は得られず、は再びの溜息と共に、眉間に皺を寄せた。

目立たない小さな動きではあったが、すぐ傍にいた信玄がそれを見留めた。
口元に運びかけていた盃を下ろし、をじっと観察する。


「酔うたか、
「……はい。あまり飲み慣れておりませんので……」


の手に、空になった盃が一つ。
少し前までそこをなみなみと満たしていたのは、酒だ。

昼間、良い酒が手に入ったと上機嫌だった信玄に誘われ、夜になってから酌の相手を務めていた。

同じ場に幸村もいる。
同様、信玄に誘われて来たものらしかった。


『注ぐばかりではもつまらなかろう。どうじゃ、一献?」』
『美味しゅうござるぞ、殿』


酒が進む内に、飲んでいるのが自分達ばかりなのをつまらなく思ったものか。
顔を合わせていて珍しい事に、ごく「普通」に盃を空け続けていた二人が、へ酒を勧めてきた。
これを受け、あまり口にする機会がない酒に少なからぬ好奇心が沸き、この盃を受け取ったのだが。

幾ら飲んでも平然としている信玄らの姿に騙されたが、その酒はやや辛口のものだったようで。
さほど杯を傾けない間に、酔いが回ってしまったのである。

はこの時初めて、信玄達が酒豪である事を知った。


「二人とも、酒に強すぎではないですか……?」
「そんな事は無いと思うが……殿が弱いのではないか?」


不思議そうな面持ちでこちらを見てくる幸村が何だか小憎らしい。

頭を小突くか反論かしてやりたい衝動に駆られたが、酔いの前にはその気力も失せてしまう。

息苦しくて、口から息を吐き出す。
唇に感じた呼気が、異様に熱く感じる。


「む…顔が真っ赤だな。それに熱い」


尋常でない様子のを流石に心配に思ったか、幸村が膝を進めてきて頬に触れてくる。


「……ぁ」


自然と漏れた声は、喉が酒で焼けたか、少し掠れている。
離れかけていた手に自分の手を重ね、そっと握って頬へ押しつけた。

体の内に篭もる、酒により生じた熱の捌け口をそこに見出したからだ。

手の甲、撫でるような感触。
自分の今の体温に比べて、幸村の手は冷たくて心地が良かった。


「……っ殿……っっ!!」
「……え?」


心地よさに目を閉じていた所へ、幸村の慌てた声が聞こえた。
驚いて目を開けると、視界を閉ざしていた僅かの間に、その顔が赤くなっていた。
に触れていない方の手は盃を取り落とし、所在なげに中を彷徨っており、慌てているのが見て取れる。

その様子が何だか面白くて見つめていると、幸村は困ったような顔をして、視線を顔ごと逸らしてしまった。
赤い頬がこちらに向けられる。

小首を傾げる。


「幸村殿も酔われたか?」
「そ、そういう訳ではないが……っ。と、とにかく、手を放しては下さらぬか?」
「………はい」


心地よいものを手放すのは惜しいが、嫌がるものを無理強いする気は無い。
酔ったのかという問いに曖昧な答えしか返ってこなかったのに釈然としないものを感じつつ、渋々手を解放する。

途端、幸村が勢いよく後退り、から大きく距離を取った。

その距離、一間程。
何故室内においてそこまで離れるのかと、少し傷ついた。


「大事ない、とは言い難いようじゃのう。気分はどうじゃ?」


幸村との距離が離れると、今度は様子を見守っていた信玄が声を掛けてくる。
幸村よりも元々距離が近かった為、その場で腕を伸ばすとすぐにの額へ信玄の手が触れた。
前髪を掻き分けるようにして触れてくる信玄の手は大きく、幸村の手とはまた違った意味を持つ心地良さがあった。


「…頭はくらくらとしますけど、気分が悪いというのは無いです。後は……」


少しの間目を閉じて、額を撫でる手の感触に浸る。
そうした後で、信玄の手を、己の両手で包み込み、額から外した。

ごつごつとしていて、信玄らしい武人の手で好きだ。

両手で包んでなお余るその手を、はおもむろに、自分の胸へと押し当てた。


「む。」
「物凄く速く、胸が鳴っています………分かりますか?」


米神にまで響いてくるこの鼓動の速さは、胸に手を当てて、信玄に伝わるだろうか。
覗き込むように、信玄の顔色を窺う。

ぴくりと眉を跳ね上げたまま、無表情で固まってしまっていた。


殿ぉぉおおあっ!!?」


幸村は何故叫んでいるのだろうか。
その声を聞いている間にも、の胸は忙しなく鳴り続ける。


「…………悪酔いじゃな。」


ぽつりと、信玄が呟いた。
何の事かと、きょとんとした顔で見上げてくるを余所に、信玄はすぐに天井を仰ぎ、


「見ておるのじゃろう、佐助。これ以上酔いに任せてしまう前に、止めてやれ」


言うや、の手が何者かに拘束された。
信玄の手を包んでいた両手を強制的に外され、両手を顔の横で固定される。

目を丸くした。

後ろに人の熱を感じ、振り向こうとしたが、姿を認めるまでには及ばない。
だが、次に背後から聞こえた声で、を拘束したのが誰であるのかはすぐに知る事が出来た。


「ったく……ちょーっと、はしゃぎ過ぎよ?お嬢さん」


信玄の呼びかけに応じ、天井裏に潜んでいたらしい所を降りてきた、佐助である。


「佐助、今日はもう良い。後の事は他の者に任せ、お主はを部屋に送り届けてやれ」
「了ー解。さ、良い子はもう寝る時間ですよー」
「う」


警護の任を切り上げる許可が降った佐助の、その後の行動は早い。
掴んだままだったの手をそのまま上へ引っ張り立ち上がらせ、即座に脇へ手を入れるや、軽々と抱き上げてしまった。
そうされる間のには喋る暇すらない。
ただ一言、「う」と小さく呻けただけだ。

夜風を取り入れる為、少しだけ開けておいてあった障子。
そこを、人を抱えた状態で通れるだけ大きく開いた佐助は、


「じゃあ俺はこの辺でお暇しますけど、旦那!お酒は程々に!」
「お、応!」


幸村へ厳しく言いつけると、を連れて廊下へと出て行った。















「……殿は…酒に弱い御仁だったのでございますな……」


 佐助の背を見送った幸村の口からまろび出た、独り言のような呟き。
向けられているのは信玄にであって、内容はについての事。

顔が赤くなって、少しぼんやりとした印象を感じた程度で、それ以上何が変わった様子も見られなかったが。
普段通りに見える態度の中で、は確実に酔っていた。
それも、幸村が予想もしていなかった酔い方だった。

酒の入っていないだったら、幸村の手に触れられて、あんな吐息めいた声音を漏らす筈がない。
お館様の手を自ら胸元へ運ぶ筈がない。
何より、それらの行動が総じて似合うような艶やかさがにあった事が、幸村には信じられなかった。

自分には経験がないもので分からなかったが、酒とは摂取する人によっては、人格が大分変わってしまうもののようだ。

今後一切、に酒を勧めるような事はしまい、と幸村は心密かに誓った。

そうして決意を固める一方で、の酔った姿がにわかに思い出される。
その全貌が明らかになる前に、脳裏に浮かんだ像を気合いで振り払う。


「……お館様、どうなされましたか?」


この場に二人しかいないというのに、相槌も何もない信玄を訝しく思って振り仰ぐと。


幸村を顧みる事無く、握ったり開いたりしてみせる自分の手を真顔で見つめている信玄が、そこにいた。




















「体つきは少年のようじゃと思っておったが……いやはや、人は見た目では分からんものじゃのう」
てお館様が遠い目をして言ってました。
「わしの知らぬ間に子は育つ…か、フフ……」とかも切ない表情で言ってました。

佐助夢ヒロインはお酒を飲むと間違った方向にスキンシップ過多になるという話。
当時お酒はまだまだ貴重品だったようで、多量にガバガバ飲むとかそういう事はしてなかったようです未確認(確認しなさい
ヒロインも身分が高い訳じゃないのでお酒を口にする機会も無く、お館様が勧めてくれたので
じゃあちょっとだけワクワク、と好奇心から口にしてみて、こんな次第なのでした。
お館様はお酒にお強いと信じて疑わない。(幸村酒強い説は真田太平記を参考に)

で、まあ佐助のお持ち帰りで完結した訳なんですけども。
この続きがうっかり裏になっちゃったりしちゃっております。
うわぁ!初裏だよどきどき!

笹の露…酒の異称。


2007.2.4
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