縁の露
白木の杖を携えて、こつこつ、こつこつ、こつこつと。
慣れた道程を淀みない足取りで進んでいく。
片手には水桶に柄杓、そこに道すがら手折った梅の枝を差して持ち歩く。
吹き抜ける風の音に耳を澄ませる。
どこか遠くで、名前も知らない鳥が鳴いていた。
左右の程近くから聞こえていた、葉の落ちた枝を吹く風音が、僅かに変わった事を確かめる。
足の裏に感じる地面の質が変わった辺りから、数え始めて七歩程。
歩いた所で立ち止まり、水桶を地面に下ろしてかがみ込んだ。
す、と伸ばした手の先に、過たず触れる石の肌。
「こんにちは、氏政さま。今日もが参りましたよ」
墓標の下に眠る人へ挨拶をし、自分なりの笑顔を向ける。
石から手を離し、手探りで水桶を引き寄せ、柄杓に水を掬った。
「今綺麗にしますからね。昨夜は大風が吹いて大変だったでしょう。大分汚れてしまってますよ」
語りかけながら、慣れた手つきで水をかける。
それから桶の底に沈めてあった麻縄の束を引き上げて、石の表面を磨いた。
ある程度済んだら水を流して、手で触れてみて汚れの落ち具合を確かめる。
それを何度か繰り返す。
さして大きくもない石なので、掃除が終わるまでにそれ程時は掛からなかった。
「見て下さい、氏政さま。今日は梅が咲いていたんです。
とても良い匂いでしたから、氏政さまも喜ぶんじゃないかと思って、一枝手折って来ちゃいました」
麻縄を傍らに置いて、墓標の手前辺りを探る。
すぐに触れたのは筒状のもので、これは竹を細工して花生けに見立てたものだ。
そこへ桶に残る水を柄杓で注ぎ入れ、梅の枝を差す。
「良い匂いでしょう?寒い季節も、もうすぐ終わりますよ」
ふわりと香る梅の枝。
季節柄、ここしばらく生けるものがなく物寂しかったので、これは良い手土産となった。
匂いで聡く発見した自分に納得の頷きをしてから、は居住まいを正した。
掃除用具一式をまとめて端に置き、静かに手を合わせる。
浄土での安息を祈る間、耳には自分の息遣いと吹き抜ける風の音が聞こえている。
掠める風は頬から熱を奪い、はふるりと身を震わせた。
合わせた手を下ろした頃、一陣の風が髪を巻き上げていった。
その内、髪の一房が唇に引っ掛かったので、それを除けると共に、くるりと身を転ずる。
「お久し振りですね」
この辺りだろうと目星をつけて顔を向け、声をかける。
「今日もまたお変わりないようで、安心しました」
立ち上がりその場で手を差しのべる。
かける声に応える者はない。
けれどは確信を持って、しばしの間そのまま待った。
やがて伸ばした手に触れてきたものがあった。
僅かな安堵と共に少しだけ笑んでみせ、すっかり冷えてしまった両の手で、その触れてきたものを包み込む。
そこにあるのは、よりも一回りは大きく、厚い皮に覆われた、ほんのりと温みを宿す、人の手。
「私の方も変わりはありませんよ。そうですね…朝の冷え込みで手が悴んで、洗い物が億劫な事ぐらいでしょうか。
この時期になると、氏政さまが囲炉裏の傍で丸くなっていたのを思い出します」
手を握ったまま一人語りする、その声に懐古の色が宿る。
丸めた背中に葛湯の椀を差し出せば、ふうふうと冷ましながらちびりちびりと啜る音。
そしてその内、小田原の冬はもう少し過ごしやすかったと始まり、御家自慢が続くのだ。
何度聞かされたか分からないその話も、語り口の楽しげな色を感じ取るだけで、も楽しく慣れた。
その町に行ってみたい。
戦の世が終わったら、いつか私を連れて行って下さいねと、話を締めた日も何度あった事か。
思いに耽っていると、手の中に小さく抵抗を感じた。
はっとして我に返り、無意識に掌中の手を撫でていた事に気付く。
何となくばつの悪い思いを感じながら、は見えない目を上げた。
「ごめんなさい、つい考え事を。もう行かれますか?」
謝ってから手の力を緩めると、するりと逃げていく感覚に、少しだけ寂しさを覚える。
存在感の希薄なこの人を強く感じていられるのは、こうして手に触れている間だけなのだ。
恐らくはまだそこにいるだろうに、手放しただけでずっと遠くに感じてしまう。
空いた手を胸の前で握り合わせると、相手の体温を貰ったのか、ほんの少し温かかった。
「次にいらっしゃるまで、立派に墓守を務めてみせます。それまで…お元気で」
手に残る熱で寂しさを埋め、胸に抱えたまま頭を下げる。
その言葉を待っていたように、強く風が巻いた。
嬲られる髪に頬を打たれる間もじっと姿勢を保ち、風が止むのを待ってから頭を上げる。
もう希薄な気配は欠片も残ってはいない。
名残惜しさを微塵も見せずに、あの人は行ってしまった。
埋めようとしても次々に生じる思いを振り払い、溜息と共に外へと流し出す。
一度胸に抱えた手を再び伸ばすと、手の平に軽いものが触れた。
図ったかのように落ちてきたそれを掴み、指先でそっと輪郭をなぞる。
さらさらとした手触りが心地の良い、それは鳥の羽だった。
去り際にあの人がいつも残していく、唯一のもの。
はこれを、都度手に入れるようにしていた。
いない間の繋がりであるように、そう思う事で、氏政もいない独りの寂しさを埋めていた。
そっと、そこにあるだろう空を見上げる。
久しく見ていない空の色は、今も変わらず青いのだろうか。
かつて戦禍により光を失い、何処とも分からぬ場所を彷徨い歩いていた。
井戸も、畑も、夜露を凌げる場所も分からず、憔悴していた所に、あの人が現れたのが関わりの最初だ。
気配もなく、姿も見えない相手に運ばれ、抵抗する気力もないまま辿り着いたのが小さな庵。
世話係として連れて来たのではないかと教えてくれたのが、そこに住まう氏政と名乗る老爺だった。
野垂れ死ぬよりは、とその役目を引き受けたが、何も見えない状態で動くのは勝手が分からない。
初めは粗相ばかりだったのを、氏政は文句を言いながらも辛抱強く見守り、時には手を貸してくれた。
慣れてくると散歩の共に連れて出てくれ、雨の日には炉端で湯呑みを傾け、慣れない畑仕事をすれば二人で大騒ぎ。
そんな日々が、楽しかった。
光を失った絶望を、手放せる程に。
「…あなたがいなければ、氏政さまとの日々はなく…今の私もなかった。私が今在るのは、あなたのお陰なんですよ、風魔さん」
傍に巻く風がその人であるかのように、生前氏政が何度も呼んでいた名を囁く。
姿も声も知らない、手の温みのみ知っている人。
その人に拾われなければ今頃は、武士を恨み戦を恨み、餓鬼道へ堕ちていた事だろう。
「あなたが来てくれるから、私はまだここに留まれる。墓守もしていられる」
氏政が亡くなってより、心に決めている事があった。
自分がこうして生きているのは、風魔が拾い、氏政が傍へ置いてくれたからだ。
その内氏政がいなくなり、は生きる意義の半分を失った。
残ったもう半分が望んでいるので未だこの場にいるが、それすらも失われた時こそ、真実この世に留まり続ける理由もなくなる。
目安として、最後に姿を見せてから季節が一巡りするまでの間。
それまでに一度も風魔の訪いがなかった、その時は。
「あなたが氏政さまの側へ侍るなら、私も追いかけますから」
存在が希薄な人、その繋がりさえも朧。
けれどその人相手に、拾われた恩義以上に強い思いがにはある。
手の温みしか知らない相手へ覚えるのは思慕。
「季節一巡りの間、どうか…お元気で」
光と多くを失った自分が得たそれに、縋る思いを託して。
は掌中の羽根をそっと握りしめた。
BASARA4風魔ストーリーで、松永さんが「氏政をどこかに匿った」みたいな事言ってたじゃないですか。(うろ覚え)
もうこの世にはいないかも知れない的な事を言ってたじゃないですか。(うろ覚え)
それで何だかハッとして、こんなお話に仕上がりました。
所で松永さんラストなんて言ったんですかね今調べたい衝動を必死に抑えています(まだ松永さんやってないから)
縁の露…縁のわずかなことのたとえ
戯
2014.2.2
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