杜若










 その日、佐助は武田の屋敷にて、見たことのない娘が彷徨っているのを見つけた。

新しく雇われた侍女、という訳ではなさそうだ。
侍女と判断するには少々身なりが立派すぎる。
同じ理由から、他国から送り込まれた間者とも考えにくい。
既に侍女姿やそれなりの衣だったならまだしも、あそこまで上等の着物を纏っていては悪目立ちする。


「大将の家臣の娘さん……とか?」


屋根の上から眼下の娘を目で追いつつ、その身許に佐助なりの当たりをつける。
不安げな足取りも、きょろきょろと忙しなく動かしている頭も。
挙動不審なのは、武田の屋敷に来慣れていないからだろう。
何の為に連れてこられたか、またはやって来たのかは知らないが、緊張しきっているその様子は少々不憫に思えてならない。

本来ならここは姿を見せず、彼女の潔白が確認できるまで観察を続ける所だが。
女人は嫌いではない佐助に気まぐれ程度の親切心が宿る。

軽い動きで足下の瓦を蹴り、音も立てず地上に到着した。
正面などろくに見ていない娘の眼前に。


「や、姫さん。何かお困り?」


警戒心すら抱かせる間もなく僅かな距離を詰め、間近でにっと笑う。
声をかけられて初めて娘の目が佐助を捉え、丸くなった。
涼やかな顔の、芯の強さが表に滲み出てくるような面立ちが、それだけの動きで随分と幼く見える。


      悪くない


薄く化粧を施し、華やかで淑やかな立ち姿の娘。
好みに収まる娘と行き会わせた自分の運に、自然と笑みが深くなる。




と、佐助の出現に戸惑ったのか硬直していた娘がさっと血相を変え、それに伴って薄く色づいた口が勢いよく開かれた。
しかし直後に娘自身の手によって、開いた口が強制的に塞がれてしまう。
それはもう素早い動きで、そのまま窒息してしまうのではないかと思うぐらい力強く。
自身の安全すら危うくなるような慌てぶりに、今度は佐助の方が瞠目し、


「どうした?気分でも悪い?」


気遣って手を伸ばすと、逃げるように身を退かれた。
明らかに避ける姿勢である事に呆気に取られている内に、娘が一礼して佐助の脇を抜ける。
その間一度も顔を上げず声も出さず、振り返ることもしない。
ただぱたぱたという駆けていく足音だけが彼女の発する音だ。
佐助は裾を翻して駆ける娘の背中に視線を送って。


気づいた。


娘が何故あのような態度を取ったのか、その理由を。


一連の出来事が理解しきれずきょとんとしていた佐助の表情が、その時にわかにいたずらげなものに変わった。















 走っていた勢いのまま自らの部屋に飛び込み、障子を閉める。
小気味よい音と共に、張られた和紙に光が遮られて部屋が僅かに薄暗くなったところで、は初めて安堵の溜息を吐いた。
身を反転させ、後ろ手にしていた障子に額を預けて、呟く。


「危なかった………」




佐助が現れた時、存在を頭が認識した瞬間その名を叫びそうになってひやりとした。
普段なら叫ぼうと何しようと気兼ねない所だが、今日ばかりはいけない。

出来れば、今日だけは会いたくなかった。
出来れば、誰の目に触れることも無く事を済ませて、全てを無かったことにしたかった。

そう考えてしまうのも、全ては今日の自分がしている格好の為だ。


杜若色の地に白の小花が裾を彩る服。
帯は赤く、存在を主張しながらも着物を引き立て、結びも華やか。
今の髪型なぞまず一人では絶対に結えない。
白粉をはたかれた肌はいつもよりなお白く、紅を引かれた唇も鮮やかで。
姿見に映った己の姿に思わず誰何の声を上げそうになった。

それらの要素を集めて一言で言うなら、強く断言する形で『これは自分ではない』だ。


「佐助がいるとなると……千代さん探しも難しくなるな……」


事の首謀者は千代であった。
いつぞやに佐助から貰った簪が彼女の目に触れる機会があった。
それ以来ずっと時機を狙っていたのだという。

に相応の格好をさせてみたいと。

本人の知らぬ所で着々と準備は進められ、話を持ちかけられた信玄もこれを快諾。
千代は信玄から資金を得て、女物の着物一式を入手。
そしてそのままに突撃をかました。


『優しくして差し上げますわ、様…』


あの時ほど活き活きとして逆らうことが許されない爽やかな笑顔を見たことがあっただろうか。
いや無い。生まれてこの方一度もない。


信玄の協力と期待もちらつかされ、結局は逆らえなかった。
否、逆らわなかったというべきか。

普段ではまず出来ない姿をさせられることに、好奇の目を向けられるのが嫌ではあったが。
意識できる心のどこかで、僅かなりとそれを望んでいる自分も確かにあった。
こうして無理矢理にでもないと、自分は『娘』になることなどないだろうから。

以前はそんな思いを起こす事など考えられなかった。
『娘』になることを望んだのは、そこに『彼』の存在があったからだ。


心の中に彼の姿を留め置いて、促されるままに着物に袖を通し。
すっかり身嗜みも整えられた所では満足した。
何処かで望んでいると言っても、やはり慣れていない姿を人に見られるというのは恥ずかしい物。
誰にも見せる事なく、すぐに着替えてしまおうと思ったのだが。

あろう事か千代は、が勝手に着替えぬようにと元の着物一式と共に、何処かへ雲隠れしてしまったのである。




佐助にすら見られるのを躊躇う姿のまま敢えて外を出歩いたのは、その千代を捜す為。
何人かに見つかってしまうことがあっても、ずっとこの姿でいて彼に見つかってしまうよりはずっとましだと、そう思って。
顔から火が出そうになるのを押して、決死の覚悟で表に出たのに。

ああ、まさか千代を見つける前に自分が佐助に見つかってしまうとは。

化粧を施された顔は自分でも驚く位別人であったし、先ほどの遭遇では気づかれていないとは思う。
が、彼が屋敷にいると知れたら、今後は迂闊に動けない。
次に佐助に見つかるような事があったら、果たしてどうなることか。

ばれるばれないの問題ではない。
見つかって、その目で見据えられた時、自分の精神が耐えられるか否かだ。
これが戦場であったなら耐えることも出来よう。

だが今の状況で耐えきれる自信は、全く無い。


「……着替えたい……」


再びの溜息と共に吐き出された、切実な願い。




「んじゃ、手伝おうか姫さん?」




独り言であったはずの呟きに、聞き覚えのある声が答えた。
伏せていたの目が反射的に見開かれ、びしりと固まったその隙。
顔の両脇から腕が伸びてきた腕が目の前で交差し、包み込んで引き寄せる。

まさか、とは思った。
だが、ああ。

自分を引き寄せるこの腕は、確かに。


「……さっきので気づいたのか……?」
「ん?まぁ、がいなくなった後だけどね」


「まさか」が外れていたら外れていたで、ならこの腕の持ち主は誰だと問題なのだが。
今回ばかりは外れていて欲しかった。
ぎこちなく振り返り、その姿を確認する。

ああ、そこには。

嫌な予感をひしひしと感じさせる程に良い笑顔をした佐助の姿が。


いかにして佐助と鉢合わせずに千代を捜すかという所に傾けていた全神経が、ぷつりと途切れ。


「あああああどうしてこう上手くいかないの……!!」
「へっ、この俺様の目を甘く見ちゃいけねえな」


両手で顔を覆い慨嘆するように頽れるを、笑いながら佐助の腕が支えた。
座り込もうとする体を抱えている為、自然と安定を求めて腕の力が強くなる。

自分の今の姿のせいか、佐助の腕に収まっているという状況のせいか。
手で覆いきれなかった部分や耳までがすっかり赤い。
すっかり『娘』になったのそんな様子に、笑みが深くなる。

抵抗しなくなった淑やかな姿のを、腕に収め直す。


「芍薬にも牡丹にも負けてないけど……百合の花にはなりきれなかったってトコかな」


不覚ながら、忍として養った目をもってしても、あの時見た娘がだとは気づかなかった。
あれだけ間近に顔を寄せて目にしていたのに、だ。
それならばどこで彼女だと気づいたのかと言えば、分かれた直後、駆けていく後ろ姿。

妙齢の娘の走り方にしてはどうにも……妙だったのだ。
どこか無理をしているようで、しかし裾が捲れてしまうことも厭わず疾走するさま。
ではその『無理』をさせられている要素を除いた走り方はどのようなものかと想像してみたら、それはまるで、

武士のようだった。

そんな走り方をする娘など、佐助は一人しか知らない。
知った途端にもうおかしくて、すぐにその背に追いついて抱き締めたいとも思ったが、そこは我慢。
が完全に佐助をまいたと思い、気が緩んだ一瞬を狙って、背後に立った。

彼女の反応を期待して。


「……あんまりじろじろ見ないでくれ……恥ずかしい」


頑なに向かい合うことを拒んでいても、注視してくる目は分かるらしい。
顔を伏せたまま言うに、佐助は小さく笑う。
顔を上げられない程に恥ずかしいのだろう。
けれど捕らえている腕から逃げ出そうとしないということは。

滑らかな首筋に唇を近づける。
吐息がかかったのか、体が小さく跳ねる。


「恥ずかしくても、嫌ではないんじゃない?」
「……今日は会いたくなかった」
「でも実は見て貰いたかったりしたでしょ、俺に」
「……………………………………別に」


長い沈黙とつれない返事は、彼女の肯定の証。
それが得られた事に佐助は満足げな笑みを浮かべ、腕の中の小さな体をきつくかき抱いた。

凛とした雰囲気の器量に、そこから大きく外れる事のない言動。
しかし剣に滅法強く色恋沙汰にとことん弱い彼女の、弱い方面に攻めた時の反応といったら。


「着替えちゃう前に……少しは、楽しんどかないとねぇ?」
「何を………」
「こういう事。」


からかい半分、本気半分で、髪を纏め上げて露わになった耳の後ろに唇を一つ落とす。
艶を含ませた声音で囁き、首筋の曲線を辿るように指を這わせれば。


の声にならぬ悲鳴が、期待通りに上がるのだった。















 それから四半刻も立たずして、は台所に潜んでいた千代と荷物を見つけた。

折角結い上げた髪が、全力疾走してきたせいなのか崩れてしまっていて、顔は赤く涙目。

その姿に面食らった千代に縋り付き、着物を返してくれるよう懇願する様は。

慣れない格好に恥ずかしがるだけではない鬼気迫る物があったと、その場を目撃した者は語る。




















「鴻飛天翔」の続編というか、おまけ話というか、一周年企画への布石というか。
佐助と無事相思相愛になったヒロインの心境の変化みたいな物を書きたかったのでした。
結局耐えられなかったようだがね!!

ちなみに四半刻は15分。
佐助の悪戯からどれだけ必死に逃げて千代を捜したかその苦労が窺えますね!(笑

杜若……赤みの強い紫。「かきつはた」は美人の形容に用いられる。


2007.2.4
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