佐和山の狐
果たして本殿は、轟々と音を立てて燃えていた。
火が出てからあまり時は経っていない筈だが、木材がよく乾いてでもいたのか、その勢いは凄まじい。
本殿からはまだ距離のある階にいてさえ怯む程の熱波に襲われ、堪らず腕を顔の前で翳し盾にした。
は。
腕の隙間から視線を走らせ、その姿を探す。
外に見当たらないようなら、火中に飛び込む事も考えていた。
本殿の出入り口の前に、人影らしきものがある。
炎の光量のせいで逆光になり見えにくいが、それは確かにそこにいる。
本殿に背を向け、階の方へ歩いてくるの姿だった。
熱さを感じていないかのように、その足取りはひどく緩やか。
俯きがちだった顔をふと上げて、三成と目が合うと微笑する余裕すら見せた。
そのまま歩を進めて対面して立ち止まられるまで、三成はその場で動けずにいた。
「…母に別れを告げておりました」
別れる前の物狂いの様子とは違い、存外に落ち着いた声音であった。
傍まで来られて、向けられていた微笑が無理をして作ったものだと分かる。
白狐の血に濡れた着物、乱れた髪は顔にかかり、一見して修羅場を思わせたが、目立った外傷はないようだ。
白かった頬が、免れ得なかった熱波にあてられ赤く火照っている。
全身を隈無く見てひとまずは無事であるのを確認し、三成は息を吐く。
訊きたい事もあったが、話しをするにはここは少し熱すぎる。
だらりと下げられたの腕をやや強引に取るや、今来たばかりの階を少しばかり戻った。
ある程度下りて立ち止まり、振り返って確認する。
未だ燃える本殿は見えるが、熱は届かない。
この位置ならば大丈夫だろう。
引いていた手を離し、と対峙する。
「何故建物を燃やした」
「…祀るもののなくなった場は、そのままにしておくと悪いものが溜まります。だから燃やしました」
「あの獣が『祀られるもの』だったというのか」
三成の問いにこくりと頷く。
そのの背後で、唐突にがらがらと崩れ落ちる音がして、二人揃って目を向けた。
本殿の木組みが、丁度焼け落ちた所だった。
「ああ…母が還っていく…」
天高く舞い上がる火の粉を見て、が独りごちる。
どこへ、とは訊かなかった。
稲荷社の体であるこの場に「祀られて」いたというのだから、白狐は見たそのまま、天へと還ったのだ。
どことも知れぬ道行きに、は手を合わせ祈りを向けている。
その様を眺めていると、祈り目を閉じたままのが口を開いた。
「…母はあの体が保たないと分かっていたようです。最期に母と話して分かりました。…母は『あれ』を望んでいたのです。
だから佐和山様の言う『救い』の形は正しかった。…そして、もう一つの『願い』を、佐和山様に託していた」
「…願い?」
「母亡き後の、私の身の振り方を」
手を下ろしたが目を開き、問いを挟んだ三成を振り返る。
そして三成の前で膝をつくと、その場で
「佐和山様…いいえ、石田様。どうか貴方様の元へ私を置いていただけないでしょうか。
人里で暮らしていたのはもう随分と昔の事ですが、母が一通りの事は身に付けさせてくれました。
きっとお役に立ちますから…どうか、石田様の元で働かせていただけませんか」
見下ろすその姿。
言葉や態度から、その申し出が建前などではなく本心だという事が伝わってくる。
事切れた骸との最期の対話というのがどうにも信用しきれなかったが、少なくともの中ではそれが真実であるようだ。
元々白狐の手を離れ、人里へ戻れるように躾けられてきた。
白狐は己がいなくなった後のの世話を、三成にさせる心積もりだったという。
こんな山深くまで連れて来られたのも、全てはこの縁を結ぶ為。
狐に全て仕組まれていたというのが何となく面白くなかったが、ふん、と鼻を鳴らしたこの時の三成は、既にその全てを了解していた。
「立て」
短く言い切る。
不安げに顔を上げるへ、再度立てと促す。
「乞われずとも、獣との取引は既に成立してしまっている。貴様が泣いて拒もうと、城へは連れ帰るぞ」
「…取引…?」
「気付かなかったか。貴様が持参した
母を救って貰う為の依頼報酬だと、は思っていた。
だが実際はそうではなく、狐白裘を持参した自身を三成に託す為の品だったのだ。
既に死期を悟っていたという白狐。
己が世を去った後に、母と慕う「娘」が路頭に迷わぬように。
先に報酬を受け取らせた上で己を斬らせ、責も押し付ける。
何という采配か。
その全容を理解した時、してやられたと三成は思った。
思ったけれど、それは決して不快なものではなかった。
獣でありながら死後の始末をつける有様と、その手際に、少なからぬ敬意を覚えていた。
初めはの存在すら疑わしく思っていたのに。
三成はいつの間にか、「異質」として捉えていたものを「正しきもの」として受け入れていたのだ。
「品を受け取ってしまった以上、責は果たす。城に勤め人に馴れ、改めて身の振り方を考えろ。出来る限りの手回しはしてやる」
母、白狐の思いに気付かされたに言葉はない。
口元を押さえ、見開かれた目は動揺に惑い、徐々に水の膜に覆われる。
膜が雫となってこぼれ落ちるのを見る前に、三成は視線を逸らした。
階をゆっくりと下りながら、ふと空を見上げる。
「…日が暮れるな」
少し前まで青かった空が、今は茜色に染まっていた。
それは場の時を狂わせていた何物かが失われ、正常が取り戻されつつある事の現れのように思われた。
荷から刑部の数珠を取り出す。
帰り道もを伴う事にはなるが、恐らく使い物にはならないだろう。
仄かに発光する数珠は、夜道を照らす光明ともなる。
役立つ物を貸してくれた刑部に、帰ったら礼を言わねばと思いつつ、ちらと背後を振り返る。
「行くぞ。はぐれるな」
声を押し殺し、ぽろぽろと涙をこぼすへ短く声をかける。
顔の前で組んだ手は、白狐への祈りだろうか。
ありがとうございました、母上、と。
小さな声が耳を打った後、
「…はい」
涙に濡れた声が、それでも力強く、返事をした。
ここまでお付き合い頂きありがとうございました!
「佐和山の狐」って呼び名で、本物の狐と勘違いしたら面白いな、って所から着想を得た話でした。
城勤めを始めてからのネタも幾つか考えているので、いつか形に出来たらいいなと思います。
戯
2013.12.19
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