あまつかぞえうた ひとつ




はじまりはうねる赤。
頬をねぶる熱と、浮かされたように揺らぎ歪む景色。





 風に乗って届く剣戟の音と喊声を辿り、国境に接する砦の通路を足早にゆく。
すれ違う者は皆一様に険しい顔をして、各々に振られた役割のために動いていたが、
こちらの姿を目にするややはり皆一様に驚いた顔をしてから、姿勢を正し頭を下げた。

ひらりと手を振って応えれば、彼らの眼差しに力が宿るのを知っている。
この身はそれだけの意味を持ってこの場に在るのだ。

様だ」
どこからか聞こえるささめきを背に――の足はやがて階段を進み、ある櫓の上へ出た。
遠かった音がにわかに厚みを増し、埃っぽい風が吹き付けるのを目を閉じてやり過ごしてから、正面に広がる景色を見る。

頭上の蒼天は国境の辺りを境として緩やかに夜の色をまとい、遠目に見える山の上空などはすっかりと暗く塗り潰されていた。

この景色は終世変わることはない。
昼の空と夜の空、そこで国は分かたれる。

今、砦を取り巻く喧騒の主達は、夜の空の下からやって来ていた。

日の射さぬ国、夜に沈む国。光に集まる羽虫のように、日の本にある我らが土地へ幾度となく侵略を繰り返す敵国。
彼らの国は、名を『暗夜王国』といった。

暗夜の兵より襲撃を受けていると急使が来たのは数刻前のことだった。
今の所被害は軽微ながら攻勢激しく、援軍をたまわりたい旨の報せを受け、総大将はただちにこれを承諾。援軍本隊の準備が整うのに先んじて総大将よりの指示を受け、一足先に砦へ赴き敵勢力の様子を窺っている。

「……煩わしいこと」

平野に蠢く暗夜兵を眼下に捉え、そっと不快を口にする。
追い払っても追い払っても、あれらは何度でも国境を侵した。
昔はそうでもなかったらしいが、ここ数年はとみに攻勢が増していて近隣諸国でも砦が幾つか落とされたと聞く。

こちらには領土を侵す意思などなくとも、兵を差し向けられればこちらも兵を当たらせる。それが無傷でなどすむはずもなく、剣戟を交えて散る命と損害は着実に積み重ねられていった。

失われるものを無駄だとは思わない。ただ、暗夜が攻め寄せなければ失われずにすんだものかも知れないという思いは静かに胸の内に淀み、時折ちくりと痛むのだ。
その痛みの原因が眼前にあって、どうして心穏やかにいられようか。

喉の奥からふつりと湧き上がるように、凶暴な色を秘めた感情が顔を出す。
暗夜兵に向けられるそれは今この場で解き放つものではない。そう考え目を閉じて、心を波立たせるものの姿を視界から強制的に追いやり、努めて己を鎮めていると、背後からかけられる声があった。

様、こちらにおいででしたか」

振り返れば、今来たばかりの階段を、鎧を着込んだ壮年の男が早足で階段を上がってくる所だった。
がちゃがちゃと鎧を鳴らしながら来るこの男、あまり覚えのない顔だが、この砦の侍大将だっただろうか。
気が逸れて冷静さを取り戻していく己を感じながら、は男へと向き直る。

「お見かけしたと部下から聞き探しておりました」
「あら、それは手間をかけましたね」
「いえ……こちらへはおひとりで?」
「ええ、急使を受けてまずは私が。じきに援軍本隊も到着しましょう」

そうですか、と首肯する男の顔に僅かな安堵の色が浮かぶ。

「その報せを聞けば皆の士気も上がりましょう。様は中でお待ちください。ここは前線から離れているとはいえ、流れ矢もあり危のうございます」

道すがら行き会った兵らと同様、やや疲れていた表情に覇気を取り戻して、男は砦の中へをいざなう。

一歩引いた男の背後から現れた、先程上がってきたばかりの階段。

「いいえ」

はそれをちらりと見やって、首を横へ振った。

この身は存在ひとつでもって、防衛戦に倦む砦の兵への希望となる。そういう役目を、総大将より与えられてここへ遣わされた。
侍大将もそれを理解して扱おうとしてくれているのだろう。「援軍は来る」という「象徴」として、本隊到着までの間は砦の奥の安全な場所に控えさせようとしているのだ。

その理解と対応はおおむね正しい。
けれど、少しだけ間違っている。

案内あないするなら砦の正面へ。暗夜兵の前へ出るならどこでも構いません」

援軍が向かっていることを知らせたあとは安全な場所で控えているだけなら、他の者でも先遣を務められただろう。
総大将が私を遣わせたのは、それ以上のことを期待してのことだ。

即ち、

「言ったでしょう、まずは私が来たと。本隊到着まで、攻勢は私が押し止めます」

目を丸くする侍大将へ毅然として言い切る。


この身は、迫る暗夜の「壁」となる為に、この場へ遣わされたのだ。



* * *



 侍大将に案内された暗夜兵襲撃の最前線は思ったよりも静かだった。
態勢を整えるため一時的に戦線を退いているのだと教えてくれたのは、たまたま近くに控えていた兵だ。

国境に面した防壁の一角に立ち、は砦内の状況を把握する。

番えた矢を狭間から覗かせたまま構えを続ける背。矢の補充や武器の点検、糧食の提供で駆け回る顔。敷地内の一隅に設けられた休息所で、束の間体を休める姿。
士気の衰えはさほど感じられないものの、暗夜兵と対峙する砦兵には確実に疲労と精神の摩耗が見られた。

負傷者は少なからずいるだろう。の目に留まらないところで戻らぬ命となった者もあるだろう。
それでも今この時まで、暗夜兵を1人として突破させず砦を守り通した兵達へ最大の賛辞と労いを込めて、援軍の代表として恥じぬよう胸を張り、朗々たる声音で告げる。

「よくぞ守り抜いてくれました。皆の働きがあったからこそ、我ら援軍も間に合います。
これより先は私も陣頭に立ちます。どうか今少しの辛抱と奮戦を」

応、と方々から声があがる中をは歩き出す。
自分の言葉を兵達がどう受け取ったか、取り立てて反応を窺うようなことはしない。人心とは得てして言葉通りに捉えてはくれないもので、それらを逐一確かめてなどいられないからだ。

故に行動する。自らの態度でもって、言葉をまこととするために。

そばにいた兵の手を借り、立てかけられた梯子を上る。
危のうございます、お気をつけて、と侍大将が気を揉む声を背中に受けながら防壁の上に立ち、眼前に広がる光景を捉える。


足下、防壁の外側には、敵の侵入を阻む深い空堀がある。その底の方に折り重なる暗夜兵の骸の数が、これまでの交戦の様子を物語るようだった。

少し視線をあげれば、互いの矢がぎりぎり届かない程度の距離でたむろする、砦の規模に対し十分な兵数を有する黒い鎧の一団が確認できた。
遠目では分かりにくいが、こちらを警戒する兵の壁の後ろで、進軍とは異なる動きで集団の中を行き来する兜も窺える。

程なく砦への攻撃は再開される、その前線に立つ恐怖はなかった。
ただ暗夜兵を前にした高揚感が静かに胸を満たしていくのを感じながら、腰にいた愛刀、、へ手を伸ばす。

様、お下がりください!」

塀の上に現れたこちらの姿に刺激されてか、数人の暗夜兵が飛び出してきた。
色めき立った砦兵がを下がらせようとする声を黙殺し、防壁の上に立ったまま抜いた刀を掲げる。

反りの強い細身の刀身が、光を滑らかに反射させる。
装飾のようにまじないが彫り込まれたそれの切っ先を、視界の先で矢を番える暗夜兵へと差し向けて、握り込んだ柄を通じ魔力を走らせる。


「『ホアカリ』」


呼応するように刃紋が赤く光を帯びた。
その向こうで弓の弦が弾け、矢が風を切り飛来するのを、は避けるでもなくひたと見据える。

機を読み一息に斬り払うと、刃の軌道に沿って炎が上がった。目前まで迫った矢は炎に呑み込まれ、黒く燃え尽き風に散る。
赤く眩く照らされた視界が一瞬の内に元に戻り、後には陽炎を立ち上るらせる刀が残るだけ。

その刀の名を『ホアカリ』という。
の家に受け継がれる、魔力を通すことで炎を生み出す宝刀だった。

動揺の走る暗夜兵の様子に小さく笑みをこぼし、今度は前方、空堀の対岸目がけ刀を振るう。
刀身を滑り切っ先から飛んだ火の粉は、文字通り「着地」するや意思を持ったように左右へ広がり、が刀を振り上げると音を立てて火柱を上げた。

砦の正面に突如出現する「炎の壁」。自分がこの場所へ遣わされた最たる理由が、この「炎の壁」で暗夜の進軍を阻み、援軍到着までの時間を稼ぐことにあった。

迫る暗夜の「壁」となること。
陣頭指揮や采配は他の者でも務まれど、この炎は自分にしか生み出せない。

熱と明るさに怯む暗夜兵を遠くに見て、は息を吸う。

「炎を越えてくる者あらば確実に仕留めよ!皆奮起せよ!砦を守れ!我らが背にいる者達の為に、我らが国――『白夜王国』の為に!」

『白夜王国』。
太陽にいだかれた国、不夜の国。肥沃な大地の広がる豊穣の国。
ゆえにこそ、日が差さず実りの乏しい暗夜王国の侵略を受ける、の住まう平和の国。

我らは白夜の民であり、また民を守る者である。
声高に知らしめると、燃え盛る炎の音にも負けない気勢の上がった声が応じた。

果たしてそれが引き金となったか、対岸の暗夜も進軍を再開する。

捨て身で炎を抜けてきた暗夜兵が、いともたやすく砦兵の矢に射抜かれ空堀へ落ちていった。
断末魔の叫びが、炎に怯んだ他の暗夜兵の足を更に鈍らせる。

「いいぞ、そのまま抑え込め!」

敵前に立つ姿を見せることで砦兵を鼓舞するのと、炎の維持と物見のため、は防壁の上に立ち続ける。
そうして幾度か戦線へ走らせた目が、ふと奇妙な動きを捉えた。

炎の前で滞る暗夜軍が、の正面で二つに割れる。
二手に別れ回り込むつもりかとも思ったが、それにしては動きが不自然だ。

互いに一定の距離を開けたところで移動を止め、ある方向を注視している。
防壁の一点――否、炎の壁を、だろうか。
炎は敵の進軍を阻んでくれるが、転じてこちらの視界から相手の姿を遮ってしまう。

「なに……?」

あの向こうで何が起きているのか。
見えるものではないと分かっていても、つい眉を顰め、暗夜兵の視線が向かう辺りを窺う。

刹那、うねる炎が不自然に途切れた。
赤く燃える壁の半ば辺りが糸を引いたように水平に裂け、寄る辺を失った穂先が霧散する。

何が起きたのか、と思う暇もなく、突風が防壁の上のを襲った。

落下するような醜態を晒すことは辛うじてなかったが、体勢を崩し後退る程の質量さえ伴う風圧だった。
耐え切れず、風を避けて逸らした視界に足下の砦兵が映る。

壁の後ろにいて風は届かなくとも吹き付ける音は聞こえていたようで、確認できる範囲にいる顔には動揺と混乱が浮かんでいる。
見えないがゆえの不安もあっただろう。ほんの少し前の、の言葉に勇ましく返していた気勢が殺がれている。

こと戦闘の只中における士気の低下が、戦況だけでなく兵の生死にも影響を与える危うさを知る侍大将が、どこかで声を張り上げ兵を鼓舞するのが聞こえる。
陣頭に立つ者として、もこれに倣い行動するのが現時点での最善策、なのだろうが。

戦線に戻した目が、うねりを上げ視界を妨げていた炎が一部消失しているのを捉えた時、背にした兵のことなどすっかりと頭から抜け落ちてしまった。


幅にしておよそ人ひとりの間合い程度。炎が不自然に避けたあの場所から、火の色が失せ見通しがよくなっている。
基本的に『ホアカリ』の炎は使用者の意に沿い、望む限りは半永久的に存在し続ける。
敵の進軍を阻むのが主目的である以上、の意思でそれを消すことはない。
故に意に反し消失することがあるならそれは、自分ではない何者かの手が加わる時だ。


焼かれ焦げた地面が剥き出しとなったその場所に、ひとつの騎影が在った。


受ける光を水面の如く照り返す、艶やかな黒い毛並みの馬。
手綱を操る騎士の鎧もまた黒く、金の縁取りが施された装備の上に、国境の空が混じり合う色の布帛を纏っていた。
周囲の一兵卒とは異なる出で立ちであることから恐らくは大将格だろう。
その存在感は炎にも負けない。夜を凝り固めたような男だった。

防壁の上で立ち尽くすへ、男は手にした剣の切っ先を差し向けた。
厚く幅広の両刃の剣身越しに、空堀の距離を隔ててなお険しく苛烈な眼差しに、は、何故だか強烈に惹きつけられる。

その瞬間は何かを思うこともなく、いざなわれるがままに足を踏み出していた。
砦兵が止める間もなく、空堀の向こうの男目がけ、は防壁を蹴り身を躍らせる。

風の音も炎の音も兵の声も耳に入らない。彼我以外の全てを遮断して、赤い視界の中に佇む男へ向かい、刀を構え真っ直ぐに落ちていく、、、、、

一瞬ごとに距離の縮まる中、男の剣に昏い光が宿るのを見る。
あの剣にもホアカリと似たような力があるようだと悟り、は笑みをこぼした。

稀有な力宿す双方の得物が交わった時、果たして打ち破るのはいずれの刃か。
昂る精神に呼応して、ホアカリが轟然と音を立てて炎を発する。

頬をねぶる熱と、浮かされたように揺らぎ歪む景色。
刀を振り抜けば互いの間に火花が散る、その刹那を目指し息を詰め。


「バカですかーッ!?」


破裂するように意識へ切り込んで来る大音声があった。
ただひとりに向けていた全神経が、その声を皮切りとして急速に「外界」を認識し出す。

戦場の音、焦げた匂い、地へ引き落とされる不快感。
怒濤のように流れ込んでくるのそれらに対処しきれず、僅かの間、刀を振り下ろす手が遅れ、

――がら空きとなった胴、より詳しくは鳩尾の辺りへ衝撃を受けた。

斬られた痛みではない、強い圧迫感に小さく呻く。
体がぐんと引き上げられる感覚があり、視界に映る男の姿がぶれると、振り抜かれた剣がの足下の虚空を薙いだ。
男の姿と地面とが見る間に遠く離れていき、やがて今しがた飛び出してきたばかりの防壁が爪先の下に見えてくる。

「天馬もいないのに一騎打ち、しかも空中戦を挑むなんて無謀にも程がありますよー!ああ本当に間に合ってよかったー……!」

風を切る羽ばたきの音がした。その合間を縫うように、すぐ頭上から少し焦りを含んだ声が降る。首を傾けてみるも、動かせる範囲では姿を確認することが出来ない。
だが、その柔らかな口調、声には聞き覚えがあった。

「ツバキ?」

呼びかけると、「はいー」と語尾の伸びた声が応じる。

「俺ですよー。緊急事態だったので、先程の暴言と御身に触れている不敬についてはどうかご容赦をー」

そこで初めて、自分の鳩尾の辺りに差し込まれ体を支えているものが人の腕だと気付く。

両軍相対する地上は遥か下方。
暗夜の男に向かって落下していたこの体は、声の主――ツバキの手によって空中へと引き戻されたのだ。


翼持つ馬――天馬の乗り手にして白夜王家第二王女の臣下。それがツバキという青年だった。
肩書に恥じぬ実力者で、アラタを片腕で抱え上げたまま天馬を操る技術からもその程が窺える。

背後にいるため見ることは叶わない、赤髪を高く結い上げた見目涼やかな姿の青年を脳裏に描く。

「……うん。許す」

は答えながら、視界を占める空を茫洋と眺める。高く引き上げられたことで山の稜線が下がり、より遠くまで見渡せるようになっていた。

遠のく程に濃さを増す空の色。
白夜からの光が届かない一番遠い所に、暗夜の国があるのだろう。

は視線を地上へ落とす。
あの山の向こうの色をまとった暗夜軍は、まるでこれから荒天へ向かう日の雲のように輪郭もおぼろげだ。

その中で唯一、はっきりとの目に映るものがある。


軍のまとまりからひとつだけ逸脱した黒い影。
炎を掻き消したその場所に立つひとりの騎士。
刃を交える寸でのところで目標を失った男は、判然としないながらもまた険しい顔をしてこちらを見上げているのだろう。

記憶を探れば思い出される、眼差しの奥に見えた赤みがかる瞳。
苛烈な印象のそれとは対照的に、遠目に見える男の緩く波打つ、柔らかな陽の色をした髪が風に揺れている。


ああ、その姿のなんと――美しいことか。


様、砦へ戻りますよー。援軍もじきに到着しますから、あとは任せて控えていて くださいねー」

ツバキの天馬が戦線を離脱するべく後退し始めた。
戦線から遠のくごとに、高さのある防壁がの視界から暗夜兵の姿を隠していく。

はツバキの腕の中から身を乗り出すようにして手を伸ばす。
遠のきながらも未だ交わる互いの視線。
この繋がりが断たれる前に、鮮烈な記憶を刻み込むように。

暗夜の、黒い騎影の男へ向かって指を差してみせる。
男がそれに応えることはなかったが、視線が外されることもなかった。

危ないですよー、とたしなめるツバキの声と共に、視線が防壁に阻まれる。
風に乗って、援軍の到着を告げる報せがかすかに聞こえた。










一つ 火の様に(日の世に) 身を焦がし

2018.10.14