あまつかぞえうた よっつ




 柔らかな日差しと、暖かな空気。とどまることのない川の流れは陽の光を反射し、視界の端で眩く輝いている。

いだ心でこの場にあったなら、いくらでも時を過ごせるだろうに。
今ばかりはそれができないわずかな無念は、目の前で起きていることへの興味関心には及ばず、胸の底で眠っている。

川辺に座るに向かい合って、ひとりの男が膝をついている。
黒の鎧、黄昏色の布帛。陽の色の髪が柔らかく揺れる――暗夜王子マークスが、跪いての手を取っていた。

適度な力加減での指先の辺りを支えるように持ち、着物の袖をまくる。露わになった手首に符呪の形に沿った火傷を確認し、マークスは元々あった眉間の皺を更に深くする。

「痛むか」

問いともつかぬ口ぶりは返答を求めたものではないようで、が反応するよりも早く、マークスは視線を移している。

腰を下ろしたかたわらの川面へ手を差し入れ、ゆすぐように何度か動かし、やがて引き上げた手には、手拭いというにはやや小さな一枚の布が握られていた。
川の清水を含んでくったりと重たげなそれを片手で器用に丸めて軽く絞り、それを取り上げたままのの手、火傷を負った手首へと宛がう。

ひやりとした感覚で反射的に跳ねたの指を、手袋越しの親指がそっと撫でる。
「心配ない」とでもいうかのような、労りさえ感じられるその触れ方に、は安堵よりも強い困惑を覚えた。

「どうした?」
視線にも感情が乗ってしまったものか、顔を上げたマークスが訝しげな顔をする。

陽の色の髪の向こうからこちらを窺う赤の目は戦線で対峙した時の険しさそのまま。一方で、手元の仕草は労りに満ちている。
視覚と手元で与えられる印象にあまりに齟齬がありすぎて、「どうした」と訊ねたいのはこちらの方だ。

「……いいんですか、こんなことをしていて」
「こんなこと?」
「従者もいない、ひとけのない場所で、こんなに私に近付いて」

従者――マークスがラズワルドと呼んだ灰色の髪の男は、今はこの場にいない。人攫いの男が立ち去ったのを見届けてすぐ、の火傷の具合を殊更に心配するや、ひとり馬で駆けていってしまったのだ。
直前にマークスと何やら言葉を交わしており、その時断片的に聞こえてきた話から察するに、の手当てのため、陣営に置いて来てしまった軟膏を取りに戻った、ということらしかった。

手負い、丸腰ではあるものの、つい数刻前には戦線で対峙し、一度は斬り結ぼうとした相手である。
守るべき主をそんな相手とふたりきりにする従者も、それを許したマークスも、から見れば共に「甘い」という感想ただ一言に尽きた。

「不用心に過ぎるのでは?」

本来、それはただ彼らの隙であるだけで、が指摘する義理も謂れもない。だが手当ての際の奇妙な優しさが言いようのない居心地の悪さを与えてくるものだから、つい振り払うように口をついて出てしまう。
思いのほか強く響いた声音に、マークスは虚を突かれたように瞠目していたが、

「それだけ言える元気があるなら心配は要らないようだな」

一呼吸のうちに驚きの表情をおさめ、細めるようにした目でこちらを見るので、今度はが目を丸くする番となった。

戦線に立った時と今、顔を合わせた時間はごくわずか。その短時間で得た彼への印象で、先に立つのは険しさばかり。
そんな中でのほんの小さな表情の変化は、にことのほか鮮烈な印象を与えていった。

ぬるんだ手拭いを再び川へ浸すべく、マークスの視線が逸らされたので、は気付かれぬようにそっと息をつく。
彼の表情の変化が、束の間呼吸を忘れる程の動揺をもたらした現実を隠してしまいたかったからだ。

「お前が妙な気を起こしたところで、手負いの女ひとりに私が後れを取るようなことはない」
「……私を見くびっている?」

内心の動揺を悟られぬよう呆れを装うの手首へ、マークスは濡れた手拭いをひたりと当て直す。

「そう聞こえたならそう受け取って構わん」
「大層な自信ですこと」
「だが事実だ」

暗夜王族としての自負か、生来の気質か。言い切る声音はあくまで淡々として、驕りも侮りも感じられない。
一軍を率いる者としての確かな強さが滲む、先の戦場で見て感じたままの姿がそこにあった。
手首へ視線を落とす顔も既に険しさを取り戻している。

あの表情がなりを潜めてしまったことに、わずかな未練を感じなくもないが。
見知った顔であることに、どこか安堵する自分がいた。

「その言葉がまことかどうか、刀があれば確かめることもできたのに」

落ち着きを取り戻すかわりに口からまろび出たのは、一度は鎮めたはずの高揚。

幾度となく攻め寄せては白夜の地を蹂躙する暗夜の、の宝刀による炎を断ち切ってみせた者。
手負いでなければ、手元に『ホアカリ』があれば。すんでのところで逃してしまった、この手にと願った彼の首を獲れるのは、もしかしたら今この時だったのではないか。

輪郭を隠す、ゆるく癖のついた陽の色の髪を掻き分け、頬に手を添える。引き寄せ、胸に掻き抱く。
そんな想像すると、胸がそわそわとして落ち着かなくなり、支えられた指先につい力が入ってしまったが、手袋をしているせいかマークスは気付いていない様子で、視線を宙へ彷徨わせている。

「あの炎を生む剣のことか」

の言葉を頼りに、一瞬の邂逅の記憶を堀り起こしていたようだ。
そうだな、とマークスは思案げに呟くと、

「剣を持っていないからこそ助かったと、ここは考えるべきだ」
「持っていないからこそ?」

続けられた言葉の意味をはかりかね、は首を傾げる。

「剣を持っていれば、お前が砦で相見えた者だと思い出すこともできただろうが、今ここにいるのは何も持たない女ひとり。連れ帰ったところで、お前が人質に足る身分であるのか証明する術がない」

『ホアカリ』を手元から離した瞬間を狙われ砦から連れ去られた今、手持ちといえば紅葉の刺繍の袿ぐらいのもの。白夜との結びつきを示すのが服装しかない以上、多少質の良い生地で仕立てられていても身分の証明にはならない。ゆえに自軍への連行はせず見逃す、という論調のようだが。

「……それが連れ帰らない理由だと?」

身分を示すものがなくとも正体は知れている。一度でも対峙したことのある当事者が「そうだ」と主張すれば証明が済んでしまう話だ。
そこを敢えて見逃すとマークスは言う。

現状、の最優先事項は白夜の砦へ、リョウマ達の元へ無事に戻ること。逃がしてくれるというのなら、余計な詮索をせずその言葉に従うのがこの場での最適解だ。
そう理解はできるが、ここで彼が自分を見逃すことに何の得があるのか想像がつかず、つい気になって、訊かなくてもいいことを訊いてしまった。

口にした瞬間、墓穴を掘ったかと一瞬後悔するへ、マークスが意外そうな目を向ける。

「お前が助けを乞うたのだろう?」

忘れてしまったのかとでもいうように事もなげに言われ、は驚きと共に口を噤む。

確かに出会い頭に助けを求めた。
人攫いの手から逃れ、ひとけのない林の中、最初に出会ったのが彼らだったから。助けてくれる保証のない中、己の勘だとしかいえない奇妙な確信をより所に、マークスらの懐へ飛び込んだ。

敵から逃れるために敵に助けられる経験など、忘れようにも忘れられるはずもない。

それは一難から逃れるために別の難に飛び込むようなもの。人攫いの手を退けたあとは、彼らの手から逃れる術を探さなければならないと思っていたのに、蓋を開けてみれば自分は怪我の手当てをされているし、更には暗夜へも連れて行かないという。

求めた助けが想定よりも広い意味で受け止められていたことを、はこの時初めて知ったのだった。

「出くわした時の態度から察するに、私の正体には気付いていたのだろう。……大したものだ、かたきだと承知してなお臆さず助けを求めたのだからな」

言いながら見せるのは、さきほどに動揺をもたらしたのと同じ表情。
眉間の皺は相変わらずだが、やや緩んだようにも見受けられる。

もしや、とは思う。
もしやこれは――そうとは見えないが――親しくなろうはずもない敵方の自分へ向けられた、彼なりの笑み、なのだろうか。

「……そこまで分かっていて、人質にしようとは思わないのですか」
「……私個人は、人質という手は好まない。今回は敵の懐に飛び込んだその度胸に免じて手を貸したと心得るがいい」

次はないぞ、と言いつつ再び川面へ手を伸ばしたマークスの横顔を、垂らした髪が遮る。

陽光を柔らかにはじく、白夜ではあまり見ることのない色の髪。
陽の射さぬ暗夜における太陽のようだと、愚にもつかない感想を抱きつつ、視線はわずかたりと逸らすこともできず。

気が付けば、マークスの手に支えられていた腕を持ち上げ、彼の顔へ向け差し伸べていた。

近付く気配を察してか、手元の感覚にようやく気付いてか。
マークスの顔がこちらを向いた。
神祖竜の血を引く赤の双眸がの同じ色のそれと絡み合い、緩く巻いた髪へ触れる寸前の指先を押し止める。

束の間、言葉を失い。
入れ替わるように大きく聞こえ出す川のせせらぎ。

指先を留める眼差しの壁。触れそうで触れられない彼我の距離は、先の戦線で刃越しに対峙した瞬間を彷彿とさせる。
あと少し、腕を伸ばして彼に触れれば、あの時の続きをやり直せるのだろうか。

支えられたままの指先がわずかに握られる感覚があった。
差し伸べた方の指先はわずかに震え、膝の上からはらりと袖が落ちる。

見つめあったまま膠着したふたりの状況を変えたのは、突如降ってきた影と頭上から吹き下ろした生ぬるい風だった。

「ふあっ」

決して強くはないながらそれなりの風量を顔面に受け、は反射的に目を閉じる。
そのままの姿勢で待つことしばし。それ以上なにかが起きる様子はないことを確かめて瞼をそっと持ち上げると、目の前に大きな鼻があった。

黒く艶のある毛並に面長の輪郭。その上にある円らな瞳がを捉えている。
近すぎて瞬時に全容を把握できなかったものの、落ち着いて観察してみればそれはマークスが連れていた馬の顔だった。
彼がの手当てをするにあたり、手近なところに繋がれて川の水を飲み草を食みしていたはずだが、いつの間にかそばに寄って来ていたものらしい。

「飽きたのか?しばらく放っておいてしまったからな……もう少し待っていてくれるか」

ひととおり欲求を満たしてからこちらへ興味を向けた自分の馬へ、マークスは川へ伸ばしていた手を差し出す。
宥めるようにその頬を撫でてやると、馬はもっと撫でてくれとねだるように自ら顔を摺り寄せた。気持ちがいいのか目を細めている様子に、馬からマークスに対する全幅の信頼が垣間見える。

ここに至るまでににしてみせた労りのそぶりに加え、この馬の態度。
は己の中にある暗夜への認識が揺るがされるような感覚を抱く。

物心ついた時から、暗夜は白夜にとって「血も涙もない侵略者」であった。
幾度も侵攻を繰り返し、白夜から食料や物資、あるいは「誰かの大切な人」を奪っていく脅威そのものだった。
だからこそ脅威から白夜の民を守るためには先駆けとなり兵の前に立ち、敵である暗夜軍の壁となることを己の務めと心得、今日までそう振る舞ってきた。

敵。
は脳裏を去来したその単語を、口の中でゆっくりと繰り返す。

実のところ――武器を交えず顔を突き合わせ言葉をかわしたマークスに限ってのことだが――敵意は既にない。
勢いを失ったものを無理矢理奮い立たせてみたところで、得られたのは先のやり取りのような歯切れの悪さだけだった。

今の自分では、マークスを敵としては見られない。
少し前なら到底信じられそうにない結論も、認めてしまえば意外とすんなり受け入れてしまえた。

少なくとも、この男を交渉相手とするならば。
存外、場を設けて話し合うことで、白夜と暗夜が敵対をやめよい方向へ進める道もあるのではないか。
脳裏にそんな考えさえちらついて、心持ちの変化に驚く。

暗夜は白夜を侵す敵であるという不文律に一石を投じられたような、不思議な感慨があった。

ふと、マークスに伸ばしかけていた手のことを思い出す。
馬の登場で中途半端に引っ込めた形で留まっていた手が、視界の端で所在なく宙に浮いている。

ほんの一瞬、意識の間隙を突くようにして取った行動だった。
彼の首をこの手に――否、違う。ただ陽の色の髪へ触れたいと、そう思って自分は、マークスへ手を伸ばしていたのだ。

恐らくは、戦線で初めて対峙したあの時から望んでいた。
敵意に勢いがあった頃はそれが目隠しとなり、リョウマにはあのように報告してしまったが。

「……む、これでは手当てができないな」

気付いてしまえば受け入れるのは容易だった。
もっと撫でてくれと乞うばかりでいつまでも離れない馬に眉間の皺を深くするマークスへ、

「構いませんよ。痛みもだいぶ引きました」

見咎められぬ内に浮かせた手を引き戻し、充分に冷えた手首を着物の裾の中にしまいながら、応じた声はこれまでになく柔らかい音で耳を打つ。
はこの時初めて、マークスの前でそっと笑みをこぼすのだった。





***





 不意を打たれ連れ去られ、孤立無援のさなかで判断を迫られる状況というのは、自覚している以上に緊張を強いられるものらしい。木立ばかりが続く景色を抜け、遠景に砦の姿を捉えた時、はそれを身をもって知ることとなった。

碧空に流れる雲を背負う、守りに特化した武骨な佇まい。援軍に先駆けて、つい先程訪れたばかりの砦。
ここへ必ず戻ってくるという決意のもと、これまでそこそこ冷静に対処してこられたと思っていたが、視界にそれを捉えた途端意識せず漏れた吐息は安堵に震えていた。

肩の力が抜ける。流れで背にしたものへもたれかかると、慌てたように肩を支える手があった。

「だ、大丈夫……?」

触れた時と同じくらいの勢いで離れていく感覚と入れ替わるように、やや上擦りながらも気遣いを含む声が頭上から降る。
は背を預けたまま声のした方、自分の頭上へ目をやる。
そこには人好きのする面持をうっすら朱に染めるラズワルドの顔があった。胸元での体を支える一方、その目は所在なさげに宙を泳いでいる。

軍の誰に見咎められることなく軟膏と包帯を入手して戻ってきたラズワルドのお陰で、手首の火傷は無事手当てを受けることができた。痛みも軽減しひとごこちついたところで、マークスはラズワルドに向けひとつの命をくだした。

曰く、を砦まで送り届けよ、と。

ゆえには今、ラズワルドとふたり馬に揺られ、砦へ向かう道の途中にいる。
マークス自身はこの場にはいない。想定より長く軍を空けてしまったからと、が馬に乗せられるのを待たず、ひとりで軍に戻っていた。

に対するラズワルドの扱いは丁寧で、体に負担がかからぬよう馬の歩みにも気を遣ってくれていた。自分の前に乗せた体が落ちないように、手綱を握る腕でしっかりと……支えるために何度も体に触れているのに、何故今更顔を赤くしているのだろうか。

反応が不思議でまじまじと彼の顔を覗き込んでいると、「恥ずかしいからあんまり見ないで……」と蚊の鳴くような声がして、同時に、ゆったりと進んでいた馬の歩みも止まる。

折しも林の切れ間に差し掛かかったところだった。
ここから先は砦まで遮るもののない広野。このまま彼を伴って近付いては、見張りの兵に見咎められないとも限らない。 送り届けてもらうならこの辺りが潮時だろう。

「ええ、大丈夫。それと、ここまでありがとう」

あとはひとりで行くと、預けた背を離し腰を浮かせると、

「わわっ危ないからちょっと待って!」

ラズワルドが慌てた様子で制止し、自分が先に馬から降りた。そして、の下馬を手助けするように手を差し出してくる。

赤みの名残る顔で、宙を泳いでいた眼差しはしっかりとこちらを向いている。
先程までの恥じらいっぷりは一体なんだったのか。困惑する程度の変わり身の早さではあったが、さておき差し出される手を拒む理由はない。は素直にその手を取る。

しばらくぶりに地を踏む足が平衡感覚を掴み切れずややふらつくのを耐えて姿勢を正す。
顔を上げれば、正面遠くに砦が見えた。ただそれだけのことで心が震えるような感覚がある。

多少の手傷は負ったものの、五体満足で白夜へ戻って来れた実感が、の総身を満たした。

「本当にここでいいの?砦までだいぶ歩くと思うけど」

視界の外でラズワルドが問うのへ、借りていた手を離しながら応じる。

風に当たりに出てきただけ、、、、、、、、、、、、だもの。ひとりで戻った方が自然でしょう」

連れ去られる直前、リョウマには「風に当たりたい」と伝えて別れていたし、かつサクラには「目を離すとすぐいなくなる性質の身内」として認識されている。
マークスのように軍をあずかる身分でもない。多少砦から姿を消していたとて、いくらでも言い訳はきく。
この状況で姿を消した張本人が口を閉ざせば、いかに聡くとも「何者かに攫われていた」と勘付く者はそうはいないだろう。

一度は危険にさらされたが、結果だけ見れば何事もなく事態は収束した。
であれば、騒ぎを大きくしていたずらに民の心を波立たせるより、何事もなかったままでこの話は仕舞としたかったし、なにより手を貸してくれた彼ら、、と敵対したくはないと、自分自身の心が訴えている。
今ばかりの情に絆されているだけかも知れないけれど。
今ばかりは情に流されてもいいだろうと思う自分がいるのだ。

「……分かった。君がそれでいいのなら、ぼくの仕事はここまでにしておくよ」

「ここまででいい」という言を真正直に受け止めたか、わずかな間を開けて答えたラズワルドを振り返ると、早々に馬上へ戻ろうとするところだった。
主であるマークスのもとへ早く戻りたい心の表れか。
長居をしたらしただけ見つかる危険が増す敵地においては、用が済んだら立ち去ろうとする彼の行動は正しいものだといえるが、どうにも忙しないものだ。

手綱を引き馬首を返すラズワルドの、

「気を付けてね」

川辺で初めて顔を合わせたときと同じ、敵意や思惑など感じられない、人の良さがにじむような笑顔へ、
「ええ、貴方も。……それと、マークス王子にも」

よろしく、と返しながら、彼につられるように顔を綻ばせる。

マークスとも、ラズワルドとも。
次に相見える時は、戦場以外であればいいのに。

ほのかな願いを笑顔の裏に忍ばせるを、ラズワルドはきょとりとした顔で見返すのだった。










四つ 夜に触れ 夜と語り


2019.12.14