あまつかぞえうた みっつ
わずかな風の流れがあった。
枝葉の擦れ合う音がする。
一息吸えば、やや水気を含んだ土と緑の匂い。
籠に乗った時のような揺れに、短く切りそろえた毛先が俯いた顔を優しく掠めていく。
暑からず寒からず、環境だけなら午睡にうってつけだ、とは思う。
手首を拘束され、視界を覆われ、何者かに担ぎ上げられているがゆえの息苦しささえなければの話だが。
意識を取り戻したのはほんの少し前のことだ。
霞がかる思考の中、腹部に圧迫感を覚え身動ぎをしたところで体が動かせないことに気付き、そこで顛末を思い出した。
砦に設けられたのための一室。
突如現れた何者かの襲撃を受け、意識を失った。
今この体を担ぎ上げているのは、おそらくその襲撃者だろう。
あいにく顔は覚えていないが、身じろいだ時にこちらの目覚めに気付き、
『お目覚めですかな?公女』
呼びかけた声は、あの時に一言だけ発したものと同じだった。
『大人しくしていてくだされば危害は加えません。
事態を把握したが抵抗しないよう機先を制した声は、低く耳障りがよい一方で、やや狡猾な印象をいだかせる。
「自分は危害を加えない」というこの男の言を信用するなら、この先危害を加えられるおそれのあるところへ連れて行かれるということだろう。
こちらが白夜王族に連なる「公女」であることを確かめて事に及んだ以上、いかなる理由で
担がれ揺られながら、ひとつ息をついて心を落ち着ける。
人攫いに遭う経験などこれが初めてではあるが、思ったよりも動揺は少なかった。
白夜王国では王の子がひとり、暗夜の手によって連れ去られた過去がある。
同時に白夜王が凶刃に斃れたために、乱れた国政を取りまとめることが急務となった。
不思議なことに白夜王国が混乱している間、暗夜が攻勢をかけてくることはなく、また人質を取っての要求も何もなかったため、攫われた子の対応は後手に回り。
やがて、時を経るごとに最早生きてはいまいという暗黙の了解が生まれ、生死定かならぬまま、王の子は白夜に戻ることはなかった。
恐らく水面下では捜索が続けられているのだとは思う。けれど未だに戻らないことを考えると、
以来
そっと耳を澄ませてみる。先程から絶えず聞こえる風や葉擦れの音から、屋外、森か林の中にいることは察せられた。
確か国境を出た先に、聴覚から得られる条件に合致しそうな土地が幾つかあったはずだが、砦を連れ出されてから目覚めるまでの情報を得ていない現状、それらの土地のどれに自分がいるのか、目隠しがなかったとて判断するのは難しい。
自分が今どこにいるのか探るのは諦め、今度は怪しまれないよう注意を払いつつ腕を動かしてみる。
袖の下で、布製の手甲の上を滑る拘束具の感触。
くっと伸ばして触れた指や食い込む感覚から察するに、麻縄のようなもので縛りあげられているようだった。
よかった、
助けを待つという選択肢は、先例を踏まえるとあまり良策とも思えなかった。
無事に帰るには、自ら行動を起こす必要がある。
逃げたあとどうするかは、ひとまず逃げてから考えよう。今は情報や選択肢、あらゆるものが足りない。
「公女が物わかりの良い方で助かりました。お陰で予定よりも早く落ち合えそうだ」
逃亡を決意したのとほぼ同時、それまで黙っていた男に話しかけられ、は身を強張らせる。
勘付かれたか。
詰めた息をそろり吐き出し、
「……余計な怪我をしたくはないの」
「賢明な御判断ですな」
「何処のどなたかも分からない人に褒められても嬉しくないわ」
「正直でもあられる」
わずかに間が空いた返答にも怪しむそぶりもなく、男は慇懃で余裕に満ちた態度でくつくつと笑ってみせた。
捕えている優越感か、よほど己に自信があるのか。上機嫌な様子に、は静かに安堵する。
こちらの思惑に気付いた様子もない。
であれば、行動に移すのは早い方がいい。
「……少し、止まってくれないかしら」
男は誰かと落ち合うといった。
ぐずぐずしていたら人数が増え、ますます逃げるのが困難になってしまう。
「ずっとこの体勢で揺られて……酔ったみたい。気分が悪くて……」
降ろして欲しい、と訴える。
揺れが止まり、乗り上げた肩が腹の下で動く。
の様子を窺っているようだ。担いでいてはこちらの顔色など見られるはずもないが、念のため背を丸めるふりをして男の視線から逃れる。
は賭けを仕掛けた。
何もしないでいるよりは活路を見いだせる可能性があるという程度の、うまみの少ない賭けだ。
こちらを怪しんで、手を離すことなくこのまま目的地へ辿り着けたら男の勝ち。
悟らせず、訝しがらせず、一時でも男の手から離れることができれば、
「……背中で吐かれても困りますな」
――私の勝ちだ。
屈む男の腕の中で、手首を捩り手甲へ触れる。
爪先が地につき男の手が離れた機を狙い、手甲の下へくぐらせた指先へ魔力を通し、
護身のため、日ごろから身につけている道具のひとつだった。
本来であれば手甲から引き抜いた上で使用するものであって、素肌に触れた状態で発動させるものではない。
指向性等ある程度の調整はしたが、目視できない以上多少なりと影響は受けてしまう。
背後で符呪が燃え上がる音とともに生じる、手首を焼く痛み。
「……っ!」
漏れかけた呻きを唇を噛み締めて耐える。一瞬で額には汗が浮き、目が眩んで足元がふらついた。それも耐えて力任せに腕を引けば、炎に焼かれ脆くなった手首の拘束は呆気なく千切れた。
自由を得てすぐに目隠しを剥ぎ取り、続けて符呪を発動させる。今度は手甲から引き抜いて、を降ろしたばかりで半端に屈んだ姿勢の男の顔目がけ投げつける。
「ぐ、ぉ……っ!?」
注意が逸れたわずかな隙を上手く突けたようで、男は突如眼前に現れた熱と光に即応できず体勢を崩している。
輪郭を髭で縁取った、厳めしい顔の男だった。服装は白夜の忍びのものと似ている。
白夜の裏切り者か、暗夜の密偵か。
刹那の間によぎった思考を振り払い、は身を翻す。
「待てッ!」
制止する男を置き去りに、顔を向けた先にあった木々の合間へ飛び込んだ。
延々と同じような景色が続く、立ち並ぶ木々の間を縫うように駆ける。
草が脛を掠めようと、枝に袖を引かれようと、男に追いつかれまいとする一心で。
あわよくば撒いてしまおうという考えは早々に捨てた。地を踏むたびに手首の熱傷に響き、痛みが足を鈍らせるからだ。
加えて、気に入りの茜色の衣は、この木々の中にあっては目立ちすぎる。
折角逃げ出したのに、このまま男の手の内へ逆戻りするのは御免だ。どこかに身を隠し、追っ手をやり過ごせる場所でもあれば。
忙しなく視線を動かして、なにか活路となるものはないかと探す、
の視界が、不意に開けた。
「っ!」
頭上を覆っていた木の葉が途切れ、空が見えた。
しばらくぶりの蒼天は薄暗がりに慣れていた目にはいささか眩しく、は咄嗟に足を止め顔を伏せる。
そうして足元へ向けた視線の先に、
「川……」
揺れる水面に反射した陽光がきらきらとの目の中で弾けていた。
視覚への刺激に呼び起こされるように、砦周辺の地理が頭の中で展開する。
確か、砦を出て少し行ったところに川が流れていなかっただろうか。周囲に点在する林のひとつを抜ける、さほど大きくはない川が。
眼前に現れたこれがその川だとしたら、現在地の当たりはつく。
上流へ向かって歩いていけば、いずれ林を抜け、砦の近くまでいけるだろう。
リョウマ達のもとへ戻れる。
見出しかけた活路に逸る心臓を押さえながら、は進むべき方向を見定めるため川の流れを確かめ、
動かした視界の端に人影を捉え、駆け通しで弾んでいた息が、止まった。
驚いた顔でを見る騎乗の男がふたり。
一方の顔に見覚えはなかったが、もうひとりの姿に心臓が跳ねる。
つい先程見かけたばかりの顔だった。
こちらを射抜く赤の眼差し。黒金の鎧に布帛をまとう、陽の色の髪の男。
名を知ったばかりの、敵国の王子。
「あれ、こんなところに何で女の子がいるの?」
マークス、と喉元まで出かかった言葉は、見覚えのない男の明るい声が押し止めた。
城の壁に落ちる影の色をした髪を綺麗に整えた男だった。身軽な出で立ちをしているがマークスの近侍だろうか。
軽装の男は人好きのする顔をぱっと輝かせ、
「こんにちは!この辺の子?急に飛び出して来るから驚いちゃった……よ……」
馬を下り軽快な足取りで近付いて来たが、視線を下げるのに合わせ言葉尻が小さくなっていく。
従者の目は、の手元に向けられていた。見ると茜色の衣の袖口が黒く焦げ、その下の手首の熱傷がわずかに覗いている。
逃げることを優先したため手当は後回しにしていたが、成程、言葉に詰まる程度には目立つ状態だ。
意識を向けた途端、鼓動に合わせ疼くように痛みが主張を始め、思わず顔を引きつらせる。
「わわっ大丈夫!?痛むよね、どうしてこんな怪我を……!」
我に返り慌てた様子で駆け寄ってきた従者は、腰のあたりをぱたぱたとはたきながら、ああ軟膏持ってきてない!と頭を抱えた。
忙しなくも自らを飾る気のない彼の行動に、張り詰めていた緊張の糸が少しだけ緩む。
もしや彼はこちらの正体に気が付いていないのだろうか。
先の砦での交戦とは服装が変わっており、かつ多くの暗夜兵はの姿を遠目でしか確認しておらず、防壁の上にいた「白夜兵」と今の私を紐づけられていなくともおかしくはない。
それはに、迫り来る追っ手から逃げ切るためのひとつの可能性を指し示した。
一瞬の迷いが頭を掠めたが、吟味できるほどの猶予はない。
決心を固め、手を伸ばす。
従者の服を掴み、は急きこむように叫んだ。
「お助け下さい!追われているんです……!」
「……追われてる?」
思っていたよりも切迫した声が出て、従者が驚きに目を丸くする。
符呪も使い本当の丸腰となったこちらに対し、彼らはある程度の装備をしている。
もし正体に気が付いていないのであれば、一般市民を装い彼らに匿ってもらうことはできないか。はそう考えたのだ。
危険な選択をしている自覚はある。何かの拍子にこちらの正体を知られた場合、「何者かに追われる女」は「自ら飛び込んできた白夜の人質」となるのだから。
大人しく人攫いの男に連れて行かれるのとどちらがましで利口かという話だ。
それでも、不思議な確信があったのだ。
従者の向こうに窺えるマークス。間近で対峙した相手が視線を向けるだけで、何も言わずその場を動かない。
彼らに助けを求めれば、きっと大丈夫だと。
「見つけましたぞ」
にわかに背後から声がした。
耳慣れないが聞き覚えのある、狡知のにじむ低い声音。
追いつかれたことを知り、一時忘れていた緊張が甦る。
総毛立つ感覚に強張る体を叱咤し、声がした方向を振り返ると、木陰から男が姿を現した。
符呪を投げつけたせいか、輪郭を縁取る髭がわずかに焦げている。
平静であろうとしているようだが、隠し切れない怒りが眼差しに込められている。
「怖がらないで」
無意識に後ずさる体が、従者に受け止められた。
「大丈夫だよ、大体分かった」
努めてそうしているのか、彼の性質なのか。優しい口調と安心させるような笑顔に、体の強張りがわずかに解ける。
従者は受け止めた手を離すと、を背にかばうようにして男の前へと立つ。
男はわずかに眉をひそめたが、従者の行動にそれ以上の興味はないようですぐに視線を逸らした。
怒りを向けたさえも忘れるようにして、やや離れたところにいるマークスの方へ目を向ける。
したり顔で歩み寄り、その足元で膝をつく男を、マークスは馬上から出迎えた。
「少々予定が変わってしまいましたが、お会いできて光栄でございます。暗夜王国第一王子、マークス様」
「私を呼び出したのはお前か」
「はい。名乗りもせずここまでご足労いただきました非礼、まずはお詫び申し上げます」
砦で顔を合わせて以来初めて聞くマークスの声。
固い印象を受けるが決して嫌な感じのない、低く落ち着いた音に、は目を瞬かせる。
「私に渡したいものがあるとか」
「貴国より遠く離れた地へ出向かれた上は、手土産のひとつでもあった方がよかろうと僭越ながら気を回した次第にて」
「ほう。それは?」
「そこな娘をお連れください」
三つの視線が一斉にこちらを向いた。
「白夜の王家に連なる者です、如何様にも使い道はありましょう」
不穏な笑みを見せる人攫いの男。
示唆された女の正体に戸惑い振り返る従者。
対照的に、思考の読めない眼差しを向けてくるマークス。
それらを一身に受けつつ、は静かに息を呑む。
いきなりマークスのそばで跪いてみせた人攫いの男の行動に若干の違和感があったが、やりとりを聞いて合点がいった。
こんな場所でマークスと鉢合わせたのは偶然ではなく、男が呼び出したからだ。
何かしら交渉の余地のある取引を持ちかけたのだろう。内容や経緯について知り得る術はないがひとつだけ、自分が取引の材料にされたことは分かった。
がマークスらのもとへ辿り着いた時点で、男の目的は達成されている。
最後まで己の手で抱え運ぶ必要がなかった分、さぞや楽だったことだろう。
じり、と足の下で砂が鳴る。
マークスが男の取引に応じるなら、彼らに助けを求めたの判断は完全なる悪手だったことになる。
三対一、こちらは丸腰。不意を突こうにも分が悪すぎる。
この場をどう切り抜けるか。
ぎりぎりと思考で締め付けられるような感覚に苛まれる中、
「――人質、か」
訪れた沈黙を破ったのは、マークスだった。
「生憎、私はその手を好まぬ。我が暗夜に取り入りたければ、何か他の手を考えることだ」
「……は、しかし」
「二度言わせる気か?」
唖然とした様子で視線を戻し、言い募ろうとする男を冷ややかに見下ろす。
「今すぐに立ち去るなら、名も聞かず見逃そう。私の気が変わらぬ内に失せるがいい」
携えた剣に手をかけるマークスに、男が初めてたじろぐ。この位置からでは横顔しか窺えないが、その様を見ては高揚に身を震わせた。
先の戦場でを射抜いたあの眼差しが思い出されたからだ。
誘われるように一歩を踏み出したのを、従者の腕に遮られる。
はたと気付いて横を見やると、じっとしていて!と視線が訴えていた。
「……御不興を買ってしまったか。どうやら出直すしかないようですな」
ひきつるような笑みを浮かべ、男が立ち上がる。
後ずさりながらを一瞥したが、苦い顔をしただけですぐに視線を逸らしてしまった。
「我が願いのため、次の手を考えてまいりますよ。それではまた――」
一歩、二歩。後ずさり、林へ近付く。
が瞬きをした次の瞬間には、男の姿は掻き消えており。
あとには川のほとりに男ふたり、そしてだけが残された。
三つ 水際に 黄昏(誰そ彼)と
戯
2019.3.11