布をはたいた時のような、音はその程度だった。
脇腹をぐっと押さえつけられた感触、次いで燃えるような感覚と鈍く激しい痛み。
あまりの痛みに息が漏れ、走っていた足がもつれ転びそうになる。
そこを踏み留まって、緩慢な動きで脇腹へ目をやると、夥しい量の血がそこより流れ出していた。

油断した、と思わざるを得ない。
夜の闇に加え、先刻から降り出した雨が、自分の存在を覆い隠してくれるだろうと束の間安堵したのがいけない。


「あまり我々というものを舐めるな」


穿たれた腹部の傷を片手で強く押さえつける。
その程度で止血の効果など得られたものではなく、指の隙間からどんどん血が流れ落ちていく。

雨が激しさを増している。
このまま雨に打たれていたら、血は凝固しないし体温も奪われていく。


「大人しくお前の持つ物を渡せば、命の保証はしよう」


暗色の景色から染み出すように、目の前に現れたのは男が三人。
その言動に、痛みで思考回路もままならぬのに、何故か笑みが浮かんだ。


      命と これ、、を 引き替えにしろ だって ?


そんなの。




「…やなこった。」




雨の音に掻き消され、聞こえているかは分からないけれど、自己満足の為にそう呟いて。
手の中にあった物の力を存分に振るう。

光の軌道が闇に残り、三人の男の内二人までが、一拍の間の後に崩れ落ちるように膝を付いた。
残りの一人は、他二人を襲った力の威力にたじろいでいる。

その瞬間を狙って踵を返し、先程まで向かっていた方向へまた走り出した。


遠くの方に鬱蒼と繁る木々の影。
小さな森が見えていた。















 家の灯りが窓より外に漏れ、一時だけ雨粒に光を与える。
ほんの一瞬、線のような残像を残し、雨は闇に溶け、土に染みる水の一部となった。

多くの生物が眠りに就くこの時間、ここ「悪魔の棲む地」と呼ばれる森でも、それは例外ではない。
しかし、じっとテーブルの上の灯りを見据える青年だけは、未だ活動を続けていた。
否、灯りを見ている訳ではない。
神経を研ぎ澄まして周囲の気配を探る内、目線がそこで落ち着いてしまっただけだ。




森に、何者かが侵入する気配があった。

ひどく弱々しい気配を放ち、けれど足取りは速く、森の奥…つまりは青年のいる方へ向かっているのが一つ。
それを追うように進入してきた三つの気配の方が、青年にとっては歓迎すべからざる客に思えた。

確かな害意を感じる。
それが誰へ向けられているものなのかは、森へ足を踏み入れた時点で青年には関係なくなっている。
森を守ると決めている青年にとって、森を害する恐れのある者達は追い払うべき存在となる。


腰掛けていた椅子から立ち上がる。
様子を窺っていたように、テーブルへ一羽の鴉が降りてきた。


『行くのですか』


空気の振動を介さない言葉で、鴉が青年へ話しかけた。

見下ろす青年は、静かに頷く。


「森を守らなければ」
『ならばサキュバスもお供致します、テスタメント様』


ばさりと羽音を立て、鴉が青年の肩へと場所を移す。
ドアを開けると、雨の音がより一層激しく聞こえてきた。


闇の中に『紅い目』を煌々と光らせ、青年…テスタメントは、雨中へと身を投じた。















 踏み出した足が踏ん張りを利かせられず、がくりと崩れ落ち水溜まりへと膝をついた。

何とかここまでは走って来られたが、これ以上は無理だと体が訴えている。
止血をする暇などなく、ひたすらに森まで走ってきた為、多くの血を失ってしまっていた。
懸念していた通り、雨に打たれ続けていた体もかなり冷えてしまっている。


「こんな所で立ち止まってなんか…いられないのに……!」


萎えかける精神に鞭打って、今出せる限りの力を振り絞って立ち上がる。

両足に体重がかかって膝が震えた。
だが、倒れる訳にはいかない。

体勢を整えて大きく溜息をつき、濡れて鬱陶しく顔に張り付いた黒髪を掻き上げる。
そして自分が進むべき方向へ目を向けて。

刹那、凝立した。




今まで何もなく、ただ夜だけが広がっていた景色の中に、急に人の姿が現れていた。
その存在に、目を奪われる。

厚い雲に覆われ一筋の光も無い闇の中、僅かな光を艶やかに受け返す長い黒髪。
露出した部分の肌の色白さが、存在を浮立たせている。

果たしてあれ、、は、人なのか?

そんな疑問が頭をもたげながらも、不思議と怖いと思う事はなかった。
だから、強いて何事もなかったように、普通に笑顔で相手へと語りかける。


「こんばんは。」
「……その傷はどうした」


声を聴いて相手が青年であった事を知り、内心驚いてしまった。
確かに背丈もあるししっかりとした体つきでもあるのだが、それ以上に青年には性別を不明瞭にさせる雰囲気があった。

その驚きも飲み込んで、青年の指した自分の傷へと目を落とす。
服に染み込む滲んだ赤が、見ていて我ながら痛々しいと思う。


「これですか?……ちょっと追われてまして。匿って頂けたらありがたいんですけど」


なんちゃって。
アハハと笑った途端、体が揺れた拍子に膝が支える力を失い、体が横に傾いだ。

曇天が視界に入り込む。
ああ、私は今倒れているんだ、と割と呑気に自覚する。
ぬかるんだ地面に倒れ込んで、膝までならともかく全身泥だらけになるのは嫌だなぁ、などとも思う。




だが、思うだけだった。
肩がぶつかった衝撃は、雨で緩んだ地面に当たったものとは違った感覚だった。

ふわりと羽根のように軽い。


「……お前の、名は?」


暗中にいつの間にか閉じてしまっていた瞼を、重く感じながらもこじ開ける。

気付かない内に寄ってきていた青年に、抱き留められていた。
体に回された、力強くも優しく抱き留める腕。
青年の胸元に触れている自分の肩の辺りから伝わってくる彼の体温が心地よい。

何だかほっとして、ゆるゆると頭上にある青年の顔を見上げた。

そして、瞠目する。
合わせて、何故か安心感も込み上げる。

こちらの顔を驚いたように凝視してくる青年の目は、紅かった。


      あぁ この人も


彼が驚いているのは、彼もこちらの目を見たからだろう。

初めて自分と同じ者に出会えたという安堵感。
それを感じたのを最後に、抗いがたい力で瞼が降りてくる。

意識が途切れる直前、彼の質問への答えを口にした



「……。」


聞こえたかどうかは定かではない。
口にしたつもりで、ささやかな吐息のような声にしかならなかったかも知れない。
けれどそれに関しては、もう瞼の落ちた自分の与り知るものではない。

足下がふわふわするような感覚の中は、青年から伝わってくる温かさに微睡んでいった。




 気を失う間際、娘はと名乗った。
その体を横抱きに抱え、テスタメントは前を見据える。

彼女を追ってきた三人の男が、突如現れたテスタメントの存在に驚き、足を止めた。


「この森は、貴様らが足を踏み入れて良い場所ではない」


厳然たる声音で言い様、手元に赤い大鎌を出現させた。

互いから放たれる殺気。

一瞬、空を覆っていた雲が薄くなり、雨が僅かに弱まる中、仄かな月明かりが辺りを照らした。

お互いの姿がはっきりと見えた中、男の一人が何かに気づき、他の二人へと声を掛けた。
恐れとも、苦々しいとも取れる表情が、男達の顔に満ちる。

彼らはきっと、自分のこの紅い目を見たのだろう。
テスタメントは、ただ敵意だけを向けた眼差しで、男達を見据える。


「ちっ、そうだったな…ここは悪魔の棲む地だ」
「同類が助けに来たって訳かよ…くそ!」


捨て台詞を吐きつつ、リーダー格らしき男が撤退を命じる。
諦めんぞ、だとかその類の言葉を残し、男達は瞬く間にテスタメントの前から姿を消す。

結局鎌を振るう事はなかった訳だが、戦うか否かは今のテスタメントにとってはどうでも良い事だった。
彼らの姿が完全に消えるのを見届けて、腕の中の娘…を見る。

血の気が失せて紙のように白くなった顔色。
体温を求めるように、意識のない彼女がテスタメントに白い顔をすり寄せる。


『どうなさるおつもりですか』


肩に留まっていた鴉が尋ねる。


「放っておく訳にもいくまい。関わってしまったのだから。それに……」


今は閉じられている為確認できない、瞼の下。
半信半疑ではある。
だが、男の言っていたように、彼女は自分と同じかも知れない。

テスタメントは紅い目でじっと娘を見つめ、やがて踵を返し歩き出しす。

うっかりと関わってしまったを、連れて帰る事にした。


己が住む家へ。















黒く塗り潰された視界。
果てに何が待つのかも分からない、知り得ない闇の中を、ただ走り続けなければならない恐怖。
己の負った物に雁字搦めにされたまま、進まなければならない苦痛。

しかしそれらを支えていた希望があった。


それもついえたと等しくなって、久しい。




「……っ!!」


弾かれるように目を見開いた途端、声も上げずに飛び起きた。
途端に腹部を中心に全身へと広がる鈍い痛みに、は息を詰まらせた。

体をくの字に曲げ、深呼吸を何度か繰り返す事で、痛みを何とか逃そうとする。

やや経って痛みも落ち着いた所で、はのろのろと体を起こし、周囲の様子を窺う。
今自分がいるのは、どこかの一室のようだ。
真っ白のシーツが敷かれたベッドの上に、今は腰掛けた状態である。
まだ記憶にも新しい、雨中を走り続け濡れそぼった服は、気を失っている間に着替えさせられていた。
髪もちゃんと乾いている。
替えの服越しに触った感じで、傷の手当てもされている事を知った。

誰がここまで運んでくれ、傷を手当てしてくれたのだろう。
今は人の姿のない室内で、自分を助けてくれた人へ思いを馳せながら、視線を室内とは反対に向ける。
そこには窓があり、曇天が晴れ、昇りきった太陽と青空が臨める。

は、逃走の夜が終わった事を知った。


      生きている


自覚した途端、胸に充ち満ちる安堵感。
空気が抜けるように長い息を吐き出しながら、はベッドへ倒れ込んだ。
その衝撃にまた傷口が痛んだが構わず、目の上に手の甲を添え呟く。


「まだ…走り続けられるよ、父さん」




ノックも無しに、部屋のドアが開く小さな音がした。
目の上に乗せた手を少しずらし、音のした方へ視線を遣る。

手にトレイを持った、見覚えのある青年だった。
トレイの上には水差しとコップ、パン、それに包帯などが一緒くたに載せられている。

どこであったのだろうかと記憶を探り、すぐに昨夜の出来事を思い出す。
つい「あ」と小さく声が漏れてしまい、ドアを閉めていた青年が驚いた顔でこちらを振り向いた。


「起きていたか」
「はい、おはようございます。えっと……?」
「テスタメントだ」
「テスタメントさん。私は…」
「昨夜聞いている」


そうでしたね、と笑うと、テスタメントも微笑を返してくれた。
助けてくれた人を前に寝た体勢では失礼だと思い身を起こそうとして、先にテスタメントの声がそれを制してくる。
怪我人なのだから寝ていて構わないと言われたが、大丈夫ですと答えて再び体を起こした。

仕方がないといった様子で一つ息を吐いたテスタメントが、トレイを手にこちらへと近付く。
昨日見た時も感じていたが、こうして傍に寄られるとやはり背が高い。
それにより感じさせられる威圧感というものも確かにあったが、それを相殺して余りあるような雰囲気が、彼にある気がした。


「テスタメントさんが手当してくれたんですか?」
「……着替えはサキュバスにさせた。安心していい」


が「何か」を心配していると思い込んだのか、テスタメントがそんな事を言い出した。
「自分は見ていない」という事を言いたかったのだろう。
別に裸を見られたかどうかが気になったのではなく、単に確認の為の質問だったのだが。
テスタメントの気遣いに、つい笑みがこぼれた。

すいと逸れたテスタメントの視線が、一旦置いたトレイへと移り、そこから包帯と塗り薬のようなものを手に取る。


「眠っている間に替えようと思っていたが…起きていたなら自分でやった方がいいのか?」
「大丈夫ですよ、手当て自分で出来ます。お気遣いありがとうございます」
「いや……。傷はまだ痛むか?」


起床時に痛んだが、今日中にその痛みもなくなってしまう事だろう。
その判断から、首を横に振った。
ぱらぱらと散る黒髪。
右目を隠す程に長かった前髪も、その動きで用を為さなくなる。

艶やかに濡れ光る真紅の右目が、テスタメントの前に晒されたのを意識した。
それを目に留めたテスタメントが、一瞬息を詰めるような仕草を見せたが、すぐに霧散する。
次に彼の目に宿ったのは、不思議と優しげな気遣いの色。


「片目だけ…だが、紅の目という事は…」
「テスタメントさんがそうであるなら、私も同じですね」


じっとこちらを見つめてくるテスタメントの紅い双眸を、も逸らす事なく見つめ返す。


テスタメントの瞳が両方とも紅いのに対し、の右目は紅色、左目は髪と同じ黒。
同じだと言える物は片方だけだったが、その片方こそが、テスタメントに一つの仮説を与えた。
そしてその仮説が正しいのだと、は証拠にもなりうる言葉を紡ぐ。


「2、3日もすれば綺麗に治りますから」


にっこりと笑いかけた顔が、上手に笑えた自信は無い。
僅かに泳いだテスタメントの視線が、の紅い右目に映る。


紅い目。
体を鉄の弾が穿った重傷すらも2、3日で治す、驚異的な生命力。


それらは人類の敵となる生体兵器……ギアの証だった。




















戯の別サイトに隠しとして置いてあった代物をこちらにアップです。
これからはこっちに主にアップしていく訳ですね。折角専用ページ作った訳だし。

この話の裏テーマは「テスたんにお姫様だっこ(笑)」。
彼のサラサラ黒髪が好きです。美脚(ぇ)も好きです。全てが好きです(言い切った)



2006.2.14
2008.9. 加筆修正
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