ふ、と意識が浮上する。
穏やかな眠りの淵から現実へ引き戻された意識がまず捉えたのは、カタカタと何かがぶつかるような乾いた音。

外を走る車の振動が、室内の小物を揺らしているのか。
それにしてはエンジン音のひとつも聞こえず、カタカタという物音の他は静かなものだ。

ではこれは何の音だろう。
起きたばかりのぼんやりとした頭で考える。

ゆっくりと目蓋を持ち上げて瞬きを数度。
潤いが行き渡り、部屋の暗さにも慣れた目は、のっぺりとした壁面を捉えた。
壁の一面に沿うように置かれたベッドで、壁と向き合う形で眠っていたようだ。

音は背中を向けた方向……部屋の中心から聞こえてくる。

備え付けのペンやコップか何かが何らかの振動を広い、共振でもしているのだろうか。
頭が少しずつ働き始めるのを自覚しながら、寝起きで気怠い身体をベッドから起こす。

ここは旅の途中で立ち寄ったとある国の、とある宿の一室。
割り当てられた一人部屋で、明日の移動に備えて休息を取っていた時分。
体感的に、日付を越えて少し経ったくらいか。
目覚めるには早すぎるが、もう一度寝入るには、未だ続く乾いた音がいささか耳につきすぎた。

ベッドにぺたりと座り込み、音のする方へ目を向ける。
壁を向いていた時は気が付かなかったが、ベッドから少し離れたテーブルに置かれたランプが、極力落とされた柔らかな光でもって室内を照らしていた。
点けたまま寝たのだったか、それとも消し忘れたのだったか。
まだ完全に目が覚めきってはいないのか、数時間前の自分の行動に対する記憶が定かでない。

それでも、はっきりと「眠る前と違う」と判ることもあった。

ランプのそば、テーブルと向き合いこちらに背を向けた形で座る人がいる。
一人部屋を割り当てられた以上はいるはずのない、自分以外の人の姿がそこにある。

寝る前に戸締りは確認した。
そもそも防犯に難のある安普請は宿選びの時点で選択肢から除外される。
その上で簡単に部屋に侵入されたというのは端的に言っても非常事態であり、恐怖し悲鳴のひとつでもあげてしかるべきなのに。

第三者の存在に気付いてなお、心は存外落ち着いていた。
「招かざる客」である以上警戒する必要はあるが、『侵入者』は後ろ姿からしてよく知った相手、旅の仲間の内の1人だったからだ。

明るさの足りない室内でも分かる、器用に立ち上げられた銀髪。
剥き出しの肩から伸びる両腕が小刻みに動くのに合わせ聞こえてくるカタカタという音。

何をしているのだろう。
「彼」の体に隠れて見えない音の正体が気になって身を乗り出した拍子に、ベッドのスプリングが軋んだ音を立てた。

絶え間なく続いていた音がぴたりと止む。
一拍の静寂ののち、「彼」がくるりとこちらを振り返った。

「すまない、起こしてしまったか」

目が合うや、夜を忍んだ密やかな声で詫び、穏やかに笑う。
部屋の明かりがテーブルランプしかないせいか、顔に陰が落ち少しやつれて見える。

「うるさいだろうが、もう少し我慢してくれ。これが終わったらおれも休むから」

諭すように言って、また少し笑いながら首を傾ける。
明かりの当たり方が変わって、顔の右半面に布がかかっているのが見えた。
アイマスクか何かだろうか、そう当たりをつけてみて、自分もまた首を傾げる。

「何してるんです?ポルナレフさん」

何故私の部屋にいるのか。
暗がりでアイマスクをつけて、先程から何をしているのか。
分からないことは幾つもあったが、とりあえずはどれかに答えてもらうために、包括した疑問を投げかける。

違和感はあるが、敵意害意がないことはまとう雰囲気から分かった。
そばへ寄っても問題ないだろう。
そう判断して、ベッドから足を下ろして立ち上がる。

視点が変わって、それまで見えていなかったものが見えるようになった。

「……ポルナレフ、『さん』?」

戸惑うように言葉を反芻しながら、こちらの動きに合わせて上向いた彼――ポルナレフの向こう側。
旅の空で、何故そんなものを持っているのか。
テーブルに、光る面に文字を浮かび上がらせた、ワープロと呼ぶには薄すぎる機械が置かれており。

「どうしたんだ、寝ぼけてるのか?」

親しげに名を呼ぶポルナレフの脚、膝より下に金属の細工がされているのが見え――それが義足だと認識した時、歩み寄る足が竦んだ。

違う。
ジャン=ピエール・ポルナレフではあるが、これは自分の知っている彼ではない。
彼の足は生身だ。
眠る前、各々の部屋に戻る時に挨拶を交わして別れた彼は、確かに自分の脚で立っていた。
怪我は多くとも五体満足だったはずだ。

ならば目の前にいる、この義足の「彼」は何者か。

朧気だった違和感がにわかに実感を伴い、

「貴方……本当に、ポルナレフさんなの……?」

不安の滲んだ声でもう一度その名を呼ぶ。
「ポルナレフ」は、何とも言えない驚きの表情でもって、こちら――を見返していた。





ゆくもかえるも





 両手で包むように持ったマグカップの、かすかに揺れる白い水面を見つめる。
俯けた顔へ向かって立ち上る湯気は、甘やかなミルクの香りをまとわせて鼻をくすぐった。
誘われるようにマグカップへ唇を寄せ、一口。
仄かな蜂蜜の風味を舌先に感じる。
温かさと優しい甘さに緊張の糸が緩むような心地がして、はほっと息をつく。

「落ち着いたかい?」

肩の力が抜けるのを見計らっていたのか、タイミングよく声をかけられた。
ベッドの縁に腰掛けるの隣に同じように座った「ポルナレフ」が、様子を窺うように視線を向けている。
その手には、が持っているのと同じデザインのマグカップ。
中では黒い水面が揺れている。

甘いミルクの香りに混じる、焙煎されたコーヒーの香ばしさ。
それが感じ取れる程度には冷静になったは、「ポルナレフ」の目を見返し、

「……ごめんなさい」

問いへの答えの代わりに、謝罪の言葉を口にする。

「ポルナレフ」は目を瞬く。

「何に対しての謝罪かな」
「取り乱してしまったことに対してです。だって……」

言葉を継ごうとして、少し考える。
部屋にいたこともそうだが、それよりも。

「……ちょっと見ない間に、すごく雰囲気が変わってたから」

取り乱した理由として思い浮かんだ幾つかを総括し、当たり障りのない言葉でまとめ上げた。


自分の知る「ポルナレフ」ではない。
そのことに気付き、その場で立ち竦んでしまったへ、「ポルナレフ」はまずベッドに座るよう促した。
それから、自分は滑るように移動して部屋の一隅へ向かい、壁際へ手を伸ばす。
かち、という音と共に部屋が明るくなると、の目には車椅子に乗った「ポルナレフ」の姿が飛び込んだ。

滑るように移動して見えたのは目の錯覚でもなんでもなかった。
彼は自らの足ではなく、車椅子で移動していたのだ。

薄暗がりの中で気付いた、両足の太腿から先にかけての金属製の義足。
多少の支えにはなりそうだが自力歩行には頼りないそれを踏まえれば、車椅子に乗っていても当然と言えたが、
の覚えている「ポルナレフ」の姿から比べてしまえば少なからず驚きはあった。

「ポルナレフ」は別の一隅へ向かう。 彼の車輪を操る右手の小指から手の甲、肘当たりまでが金属で覆われていた。

慣れた様子ではあったが、動きにごくごく僅かな違和感もある。
もしかしたらあの右手も義手なのかも知れない。
ぼんやりと考えるの目に追いかけられながら、次に彼が目指したのは、部屋の隅に据え付けられた簡易キッチンだった。

ホテルの部屋にキッチンなんてあっただろうか。
眠る前の記憶を探り、確信が持てず眉を寄せるの視線の先で、「ポルナレフ」は手慣れた様子で作業を進め。
やがてマグカップふたつをトレーに乗せ、ようやくのもとへと戻って来た。
その後に発したのが、先の問いだった。


「雰囲気……」

の答えに不思議そうな顔をして自分の体を見回す、「ポルナレフ」の顔には縦に走った大きな傷がある。
顔の半面を覆う布は、その傷を隠すための眼帯であったようだ。
光を透かす薄い生地の下、引き攣れた傷跡に裂かれた右目は開いているが、見えているかは分からない。


見慣れぬ義肢、車椅子、やつれた見た目、傷を隠す眼帯。
外見だけでも幾らでも違いを挙げることは出来る。

自分の知る「ポルナレフ」と、目の前にいる「貴方」は、似ているけれどあまりにも違う。
「違い」として指摘するには、そのどれもが触れるにはデリケートな話題であるように思えた。

けれど、彼の態度には、それらを気にする素振りは微塵もなく、

「おれには、君の方が余程雰囲気が違って見えるな」

かけられる声、向けられる笑顔は、のよく知るいつものポルナレフそのもので。

見た目にどれほどの違いがあろうとも、彼は間違いなく、「ジャン=ピエール・ポルナレフ」であると。
気になることは多々あれど、はその全てを呑み込み、彼を信じることに決めた。


「私……どう違います?」

決心を知ろうはずもないポルナレフへ、は首を傾げて問う。
目の前の相手のことばかりで、自分も変わっているとは意識が向かなかった。
先に彼がしていたように、見える範囲で自分の体を確かめてみるが、特段変わっているところは見られない。

すると、ポルナレフが指を差し、

「それだ」

といった。

「それ?」
「敬語。『ポルナレフさん』。一体どうしたんだ?今更かしこまるような間柄でもないだろう。
……それとも、おれは何か君を怒らせるようなことをしてしまったか?」
「怒らせる……?」

現状に戸惑いはあっても怒るようなことは何もないし、この言葉遣いも普段からのものだ。
彼は何を気にしているのか。
理由に思い至らなかったので、こちらを向く目をじっと見返していると、

「まさかまだ寝ぼけてるんじゃあないだろうな。まるで出会った頃の君みたいだ。なんだか顔も幼く……」

呆れたような口調で続いた言葉が、尻すぼまりに消えた。
の視線の先で、ポルナレフの目が丸く見開かれる。

「……そういうことか」
「ポルナレフさん?」

ひとり納得したように呟くポルナレフへ、「そういうこと」とはどういうことかと尋ねる首を傾げるの頭からつま先までを、視線が何度か往復する。

眼帯に透ける、見えているのかどうか分からなかった右目の動きは鈍く、恐らくは見えていないのだろうということはその動きで分かった。
とはいえ、片目でもこうも不躾に見られるのは居心地が悪く、少しだけ身を引いて距離を取ると、ポルナレフは慌てて「悪い」と詫びた。

「不思議なこともあるもんだと思ってつい、な」

見慣れた青の目が緩く細められただけの笑顔。
ただそれだけのことに、の胸が小さく跳ねる。

「いえ……あの、何か分かったんですか?」

今の感覚はなんだったのか。
胸中に残るさざめきの余韻を振り払うように、は問いを重ねる。

ポルナレフは上体をひねり、コーヒーの注がれたマグカップをベッドサイドテーブルへ置いた。

「ああ、分かった。多分な。けど、今のには分からないままでいた方がいいことだとおれは思う」
「何故?」
「今ここでの出来事は、にとっては夢みたいなものだからさ」
「夢……?」

にはその意味が理解できなかった。
分からないままでいた方がいいという言葉通り、敢えて分からないように答えているのだろうか。

先程から自分の発言には疑問符ばかり。
正解を与えてくれない相手への不満も募る。
少し非難を込めた目を向けると、ポルナレフは苦笑を見せ、おもむろに手を伸ばすとの肩を引き寄せた。

体のバランスが崩れ、手元のホットミルクに気を取られている内に、の体はポルナレフの腕の中へすっぽりと収まってしまった。

背に回される腕の感触にどきりとする。

「あの、ポルナレフさん……」
「これは夢だ。おれを知らない君が見ている夢。一晩経てば夢は覚めて、きっと全部いつも通りだ」

身じろいで慌てて継ごうとした言葉は、頬を摺り寄せてきたポルナレフの囁きに封じられた。
囁く声音は低く掠れ、あやすように背中を撫でる手の動きがに息を詰めさせる。

不思議な感覚があった。
彼にこうして抱き締められると、泣きそうな安心感と心地良さが胸に満ちる。
胸がざわめいて落ち着かない一方で、もう少しこうしていて欲しいと思う部分もあった。

「ポルナレフ、さん……」

上擦った声で名を呼ぶ。
マグカップを包んでいた手の片方を伸ばし、おそるおそるポルナレフの背へ触れた。
抱き締められていた腕が緩み、耳元にあった彼の顔が目の前に移動する。

深い青色をした目が間近でを捉える。

視線を絡め取られている内に鼻先が触れ、重ねるだけのキスを落とされた。

「可愛い顔だ」

すぐに唇を離したポルナレフは、先程と同じように間近でを見つめ、嬉しそうに笑う。
きっとろくな顔ではないだろう。
頬と耳が燃えるように熱い。
平常心ではいられない。
よく知る人と同じ顔が、したことのない手つきで触れてくるのだ。

困ったことに、それを嫌と感じない自分がいる。
今だって、深い青色に吸い込まれそうで。

マグカップを取り上げられる。
コーヒーの注がれたマグカップと同じように、ベッドサイドテーブルへ遠ざけられた。

向き直りったポルナレフの、



じっと見つめて名を呼ぶ声に、じんと痺れるような感覚が走る。

手を取られ、引く力に抗わず、その胸元へ体を預ける。
しっかりと抱きとめられて上を見やれば、笑う彼と視線がかち合った。

下りてくる唇を受け入れ、何度か角度を変えて重ね合う。
舌先の求めに応じて薄く唇を開く。

歯列を割って入ってきた彼の舌に自分のそれが絡め取られた。










寸止め。
3部軸と5部軸の夢主が入れ替わったら、っていうアレの5部ポル×3部夢主編。
あまり期待はしない方がいいと思いますが続きます。



2017.7.11
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