佐和山の狐
その日は朝より、三成の居城である佐和山の城は訪問者の一切を断っていた。
夕刻に、大谷刑部少輔吉継の訪問が予定されていたからである。
職務を滞りなく済ませ刑部を迎えるには、予定外の事象に時を取られている暇はない。
敷地内で調練をする兵の声も今日はなく、少し離れた所の厩舎から馬の
刑部の供応の準備に動く者の気配を遠く感じながら、三成は常よりも静かな環境で職務をこなしていた。
しばらく書き物をしていると、喉の渇きを覚えた。
一旦筆を置き、部屋の戸から顔を覗かせて、廊下へ声をかける。
「誰かいないか」
少し待ってみても応じる声はない。
三成の声が届く範囲に人がいないのだろう。
静かな城内で一つ息を吐き、手の空いた者を探そうと部屋を出る。
「佐和山の狐様は、こちらにいらっしゃいますか?」
不意に耳を打った声に、三成は足を止めた。
次いで全身が総毛立ち、廊下から声のした方へ勢いよく振り返る。
雨戸を取り払い開け放たれた向こうに見える庭。
いつからそこにいたものか、女が一人立っていて三成を見つめていた。
「佐和山の狐様に、お願いしたい儀があって参りました。お目通りを願えますか」
ほんの少し前、部屋から顔だけ覗かせた時に、この女はいただろうか。
声をかけられるまで気配を察知出来なかっただけか、或いは突如として沸いたように現れたのか。
どちらにせよ、己の意識に掛からなかった存在の出現に、背筋をひやりとしたものが伝う。
刀は部屋の中にある。
取りに戻ろうとすれば、僅かでも女に背を向けなければならない。
相手が何者であるか分からない以上は、隙を見せる訳にはいかない。
半身を引き立ち位置を意識しつつ、言葉を選ぶ。
「誰だ貴様は。今日は人払いをしてある筈だ、どこから入った」
「母の使いで参りました、と申します。大手門は通して頂けそうに無かったので、塀より失礼いたしました。
不作法をお許し下さい」
「…自覚はあるのだな。無礼を承知で忍び入った、その理由は」
「それは佐和山の狐様に直接お話し致します。佐和山の狐様にお取り次ぎをお願い申し上げます」
頑なな様子で頭を下げる姿を見て、三成は眉を顰める。
佐和山の狐を呼べと繰り返し告げているが、この女は知らないのだろうか。
佐和山の狐とは、三成を快く思わない者達が勝手に呼び始めた蔑称である。
わざわざその名を出して訪ねてきたのだから、さてはその手の者達から差し向けられた刺客かとも疑ったが、
そもそもと名乗ったこの女は、その口振りから「狐」が何者であるか知らない節があった。
目の前にいる三成が訪ねた相手である事も知らず、三成を出せと曰う。
認識に齟齬がある女に多少苛立ったが、理解させねば話が進まない。
正体を明かす事は危険をも被る行為だが、この際仕方がない。
「貴様の言う「狐」とは私のことだ。近江佐和山城城主、石田治部少輔三成。分かったら用件を言え」
感情のままに、棘を含んだ声音で名乗る。
これでなお話を渋るようなら、問答無用でつまみ出すつもりだ。
三成の険しい視線の先で、は黙っていた。
ただ黙しているのではなく、やや吊り目の双眸が上へ下へと行き来している。
名乗りが真であるか確かめているのだろうか。
佐和山の狐、石田三成の姿形など知らない癖に。
無駄にしか見えない行動に、再び催促の声を上げかけた時、
「…狐様は人だったのですね…良かった」
「っ…何?」
埒外の所からもたらされた呟きに、三成は口を噤んだ。
何だその、「佐和山の狐」が人を指している事を、たった今知ったような反応は。
つまりは己が目指すものを獣だと思いこみ、且つそれに疑念すら抱かず訪ねてきたというのか。
何という無知か。
人払いを無視して現れた所から始まる苛立ちが、じわじわと高まっていくのを感じる。
「では、改めまして、佐和山の…もとい、石田様に、お願いしたき儀がございます」
しかし苛立ちが弾けるより先に、が機先を制した。
俄に改まった口調が場の空気を変え、庭へ膝をつき僅か頭を下げる。
無知と判じたが、振る舞いの所作には心得があるらしい。
その様に、三成が見直したのを知ってか知らずか、なおも己の目的を遂げようとする。
恐らくこの女は無知ではなく無恥だ。
覚悟を決めてやって来て、遂げる為なら何物をも辞さない。
「聞こう」
部屋の刀をすぐ取りに戻れる体勢でいたのを改め、三成もを正面から迎える。
言動と行動のちぐはぐさは取り敢えず置いておき、話程度なら聞いてやろうと思った。
鋭く見下ろす眼差しの向こうで、が言葉を繋ぐ。
「…母を、助けて頂きたいのです」
「女の母親というのが怪我をして動けないでいるらしい」
昼間にあった顛末を振り返り、前に座す人物へ語って聞かせる。
外には夜の帳が下り、唯一室内を照らす燭台の灯りが、相手の白い頭巾を朱く染めている。
脇息にもたれる客人…大谷刑部少輔吉継は、
「傷を癒すは匙の領分。何ぞ思い違いをしているのであろ。ぬしには治せぬ」
「そう言ったが聞かなかった。母親が私を指名したのだから何か意味があるのだ、とな」
「ヒヒッ、頑固者よな。母の危うきに
全くその通りだとしか言いようがなかった。
話を聞く程に、の願いは三成には叶えられるものとは思えなかった。
匙が刀を操れぬように、三成が傷を縫う事も出来ないのだ。
故にそれを理由に、願いを拒もうとした。
だが困った事に、理路整然と言葉を並べようと、強圧的に排除を試みようと、は一歩も退かなかった。
是の言葉を引き出すまで意地でも動くまいと頭を下げ続けた。
の意志の強さを認め、否の言葉を三成が取り下げるまで。
「して、ぬしは何と答えやったか」
「考えさせろと保留した。明朝返事を聞きにまた来るそうだ」
「凶王の意思を変えさせるとは、とんだ剛胆な女もいたものよ」
「貴様の意見を乞う為だ、刑部」
「…ホウ?」
「女は去る間際にこれを置いていった」
何がおかしかったのか、ひきつるように笑う刑部の前へ、ある物を投げ出す。
投げた拍子に形が崩れ、畳の上に広がったそれを、刑部の目が捉える。
その
「母に持たされた手土産だそうだ。まだ願いを聞くとも言っていないのに置いていった」
それは一枚の着物に仕立てられた真っ白な毛皮であった。
触ってみると毛並みの柔らかさに驚かされ、着る物に頓着しない三成でも上等なものであると分かる。
「何の獣か私には分からない。刑部はどうだ」
サテ、と一言呟いて、刑部の手が伸びる。
拾い上げ、目を近づけて
およそこれまで得た事のない質感の柔らかさを思い出し、刑部はこれをどう判断するのか答えを待つ。
三成が注視する先で、検分をしていた刑部の顔色が僅かに変わった。
「…ヒヒッ、これはこれは」
「何だ」
「いやナニ」
何かを言いかけて、口ごもる。
思案げに細めた目は、変わらず手元の毛皮に注がれている。
刑部はこの「手土産」に意味を見出したのだろうか。
刑部が得た何かが言葉になるのを、三成は待つ。
「…ぬしはまだ、願いに対する答えを出していないのであったナァ」
「そうだ」
「ならばその
「ほう?」
言外にその根拠を問う。
三成の視線に応じるように、刑部が手元の毛皮を掲げた。
「我が目で見るのは初めて故、思い違いやも知れぬがな。これは恐らく、狐白裘と呼ばれるものよ」
「こはくきゅう」
「左様。狐の腋の白い毛皮のみ集めて作られたメズラシキ品よ。
明国の古い書物に名を見た記憶があるが…ここ日の本で目にかける機があろうとはナァ」
さも楽しげに笑う刑部の、手元の毛皮を見つめる。
得体の知れない女が持ち込んだ手土産。
それを見た刑部に、願いを受けてみろと言わしめる程の品。
という女は何者であるのか。
尚のこと分からなくなっていくようで、知らず眉を顰める三成の向こうで、刑部が独りごちる。
「母の身一つで斯くの如きものを贈るとは…余程物の価値を知らぬ者か、
件の女性にとっては此度のこと、さほどに重大事であるのか…サテ、どちらであろうな」