佐和山の狐










 と連れ立ち、その母のもとへ向かうと決めた時、刑部から数珠の一つを渡された。

『仮にその女性にょしょうが何処かの手の者で、道中ぬしを襲うたとてぬしが討ち負けるとは思わぬが、
知らぬ土地に一人になる事があってはちと具合が悪かろ。数珠を一つ持って行きやれ、道教えぐらいにはなろ』

僅かな物を詰め背に負った荷の中にそれが収められている。
道なき山へ分け入ってからは時折そのことを思いだし、いつ頼る事になるかと考えもしたが。

今ばかりは、を刺客と疑ったことも忘れ、凝然として広がる光景に目を奪われていた。

山の斜面に沿い緩やかに上るきざはしに、幾つも建てられた鳥居。
その奥に、半ば山の陰に隠れるようにして、小ぶりの社が見えた。

ふと視線に気付き我に返る。
が既に段を上りかけた姿勢で、足を進めようとしない三成を振り返っていた。

「佐和山様」

早くしろと、言外に含まれた呼びかけ。
それに返事はせず、促されるままに足を進める。

急に道が開け、鳥居の前へ至った時から、の三成に対する呼び方が「石田」から「佐和山」へと変わっていた。
この変化が何を意味するものか、三成には見当が付かなかった。
母の元へ辿り着いた為に急いた心が、対面して得た石田の名を一時忘れさせてしまっているならばそれでも良い。
だが三成には、その変化が何か別の意味を含んでいるように感じられてならなかった。

「異界に足を踏み入れたか…」

異界。彼岸。或いは神域。
彼我の境目を越えてしまったような感覚が、三成を捉えて放さない。
怪談や迷信の類に通ずるこの感覚は、常ならば「馬鹿々々しい」の一言で斬って捨てているようなものだ。
だが今この時の三成にはそれが出来ずにいた。

異界、その一言が当然のものとしてあっさりと腑に落ちる程、この場の空気が異質であったのだ。

このような所を目的地とするこの女は、母は、果たして何者であるのか。
改めて、先を行くの背を見やる。

参道もなく、恐らくは参拝する者もない、山中に湧き出たかのようにある社。
秘境ともいえるこの場所に、何らかの理由があって住み込む社守か。
人の訪れがない事を幸いに、人里に住めぬ流民か。
化生か、化身か。

場の雰囲気に呑まれつつある三成には判断が付かなかった。
見上げた頭上を等間隔に流れていく、青空を切り取る笠木の朱の色が、思考能力と時の感覚を鈍らせる。

足を動かしているのは己なのか。
別の何者かの意思が、この身に働きかけてはいないか。

「ここです」

俄に駆け出すと距離が離れていく。
いつの間にか鳥居の群は終わり、正面に本殿らしき社が現れていた。
段を上りきった先では、駆け出したが社の扉に取り付き開こうとしている。

思考の海に沈み曖昧になっていた自我の輪郭が、ひたと身の内に収束する。
急ぐ事もなくの背に立つと、目の前の建物がやや広めの民家程の大きさであると知れた。
衣食の不便はあろうが、起居するのに支障はなさそうだ。
そんな検分をする内に、が扉を開けた。

は後ろに三成が続いているのも気にせず、一人分の隙間を作るとそこから自分だけ滑り込んだ。

「母上、です。戻りました、佐和山様も一緒ですよ…」

支えを失い閉じかけた扉を押さえると、中からの声だけが聞こえる。
臥せっているという母がそこにいるのだろう。
招き入れようとする気配がないので、三成は仕方なく自ら扉を開けた。

「失礼する」

一言断りを入れ踏み込んだ社は薄暗い。
一瞬視力を失ったが、瞬きを繰り返す内にやがて慣れた。

明かり採りの窓が室内で一番明るいので、まず目に留まった。
そこを起点として徐々に視野が広まってゆき、家財等の輪郭が分かるようになってきた頃。
ようやく、床に蹲るを見つけた。

努めて優しく声をかけ、横たわるものの体を気遣わしげにさすっている。
恐らく怪我をしたという母なのだろうが、窓からの明かりだけでは確認するには足りない。
明度を補う為扉を大きく開け放ってから、二人の傍へ歩み寄る。

その足取りが、ある瞬間ぴたりと止まった。

三成の気配を感じてか、が母から目を離し振り返る。

「佐和山様、臥せったままで失礼いたします。私の母です、どうかお助け下さいませ」

見上げ向けてくる眼差しは、母が救われる時を希い、薄暗いというのに輝いてすら見える。
その目が、三成には何か空恐ろしいものに感じられた。

突き付けられたものを受け止めきれず、俄に息が詰まる。

「戯れるのも大概にしろ…」

絞り出すように、ようやくそれだけ言う。
自分の声を聞いた事で、僅かばかり冷静さが戻ってきた。
正面ではの目が困惑に彩られていく。

この女は正気だろうか。

そこにいるのは。あるのは。

「それは狐ではないか!!」

見たものをそのまま言ったまでだというのに、自分がおかしくなってしまった気さえする。
現実が見えているのか否か、己で判断がつかない。
まさか何者かに、に謀られているのだろうか。
半ば困惑しながら、三成はの腕の下にいる「もの」を見る。

いわゆる「白狐」と呼ばれるべき獣が、胴部分に人がするように包帯を巻かれ、横たわっていた。

稲荷神の眷属、或いは神そのものとして崇められる神獣、白狐。
無論、神霊の類は視認できるものではないので、これはただの白い狐であろう。
とはいえその珍しさに違いはなく、しかもその珍しき獣を「母」と呼ぶ者がいる。
加えて、この場所自体を取り巻く雰囲気。
全て絡めた異質さが、三成の判断力を鈍らせた。

頭を抱えたくなる思いで、漸う言葉を紡ぐ。

「私は帰るぞ…獣相手に私が出来る事など何一つ無い」
「そんな!お待ち下さい佐和山様!母は佐和山様なら救えると言って…」
「戯れるなと言った筈だ!母が母がと貴様は言うが、獣は人語を介さぬ。貴様が聞く母の言葉はまやかしだ!」
「いいえ、まやかしなどではありません!」
「ならば貴様は気狂いか、化生か!?獣を母に持つ貴様の正体は化け狐か!!」
「いいえ、いいえ!私は人ですし正気です!これには訳があるのです佐和山様!」
「くどい!下らぬ事に私を巻き込むな!」
「お待ち下さい!どうか…!」

去ろうと踵を返した足に、母から離れたが取り縋る。
ぐんと引っ張られた勢いで振り返った先で、蒼白な顔色に切迫した眼差しとかちあう。
もう一言二言吐き捨てて振り解こうと思っていたのに、その目を見ると言葉が喉につかえた。

この目が危ういのだ。

動けぬ母を思い、あらゆる手を尽くして救う手だてを探す。
親のある子なら往々にしてとる行動であり、その点ではが主張する通り「正気」なのであろう。

だが取り巻く状況、場の雰囲気、何もかもが「異常」な中での唯一つの「正常」は、ひどく浮いていた。
異常ばかりの中では、の正気こそが異質に映り、三成を恐怖させた。
恐怖を覚えたのは、己も異質に取り込まれつつある事の証明ではないかと疑わせた。

故に、早急にこの場を去り、三成にとっての「正常」を取り戻したかったのだ。












2013.11.19
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