佐和山の狐
「どうか、お聞き下さい!」
願いを拒み、この場を立ち去ろうとする三成の足に、が取り縋る。
足の自由を奪い返そうとしたが、しっかりと抱き込まれてしまって離れなかった。
聞くも聞かぬも言う前に、の口が強引に語り始める。
「私は
山の恵みを与えここまで養ってくれた、この母こそが私の母なのです。
母は服を与え、雨露をしのぐ場所を与え、幼く会話も不十分な私に言葉を与えてくれました。
いつか成長して、人里に戻れるように育ててくれたのです!母から授かった感謝してもしきれない恩、私はそれを返したい!
まだ何も母に返せていないのに、このまま何も出来ずにいるなんて嫌です!お願いです、母を救って下さい…!」
言葉を差し挟む余地もない。
語り始めたは思いが堰を切って溢れ、留まる所を知らなかった。
足の自由を奪われた故、三成はそれを聞くしかない状況であったが、いつしか耳は自然とその声に向けられていた。
この場所で唯一つだけの「正常」が、言葉となって流れ込んでくる。
の全てを信用した訳ではない。
語る言葉の中には三成に理解できないものも含まれていた。
しかし真摯な思いだけは、少なくともこれが謀りなどではないと、三成を納得させたのだ。
一度に話し、息が切れて喘ぐをじっと見下ろす。
息を整えている間も、足を掴む手を緩める様子はない。
「…思いは分かった」
の目が不安に揺れる。
にべもなく断られるのではという思いの色がありありと浮かんでいた。
何とも分かりやすいものだ。
だからこそ不本意ではあったが、続ける己の言葉での表情がどのように変化するか、容易に想像が出来た。
「…だからといって、私に出来る事が増えた訳ではない。見立てだけはしてやる」
足を掴む力が一瞬緩む。
丸く開かれた目が、三成を捉えたまま瞬きを忘れる。
その直後、見る間に涙の膜が眼を覆う。
「…ありがとうございます、佐和山様!」
「動けない。足を離せ」
嬉しそうに笑った拍子にこぼれ落ちた涙。
まだ何かが好転した訳ではないのに、無垢にも喜ぶを何となく見ていられず、三成はふいと視線を逸らした。
足の自由を得て三成は、改めて奥へと進み入る。
白狐の傍で立ち止まり、一度己を落ち着けてからその姿を観察する。
横たわる獣は、苦しげに浅い呼吸を繰り返していた。
胴に巻かれた包帯の、怪我の患部らしき箇所は未だ鮮やかな赤さを保っている。
未だ傷が塞がっていないのだろう。
傷の具合を確かめる為座ると、白狐が頭をもたげ三成を見た。
その眼差しと対峙する。
手負いの獣は気が立っており危険だと俗に言う。
しかしこの白狐は、呼吸さえ荒いものの、威嚇や牙を剥いてくるようなことはなかった。
琥珀色の双眸には理知すら感じさせる。
獣にはない筈の理性を目の前の狐から感じ取った気がして、そんな馬鹿なと、その考えを振り払った。
「…傷を看る。暴れてくれるな」
理解できるとは思っていないが、何となしに一声かける。
いつの間にか傍へ来たが、白狐の頭の方へ膝をついていた。
三成を見つめていた白狐はに気付くと、自らの頭をその膝へ委ねる。
労るように毛並みを撫でる手が心地よいのか目を閉じた姿が、まるで言葉を理解して、三成に体を任せたようだ。
「佐和山様」
呼びかけられて、白狐を注視し手が止まっていたことに気付く。
大人しくしてくれている内に見立てをしなければ。
気を取り直して、三成は白狐の包帯に手をかけた。
程なく現れた、血に染まり茶色く変色した毛並みを掻き分ける。
傷口はすぐに見つかった。
包帯への血の滲み方である程度予想はしていたが、見つけた傷は未だじわりと鮮やかな赤を生じさせている。
ここまでの行程と往復したの足を考えると、怪我をしてからそれなりの日数が経っている筈。
けれど止血となっていた包帯を取ると、未だに新たな血が流れる。
傷口の大きさは指先で触れた程度のものだが、見た目に比べて深いのかも知れない。
傷口の形状を見て、に問うた。
「鉄砲か」
「母が里近くへ下りた時、付近で小競り合いがあったそうです。その時の流れ弾を受けてしまったと…」
答えと補足に納得し一つ頷くと、三成はおもむろに傷口へ指を突き立てた。
大人しくしていた白狐もこれには悲痛な声を上げ、四肢を突っ張らせた。
「佐和山様!?」
何をするのだというの抗議を黙殺し、なおも指を動かす。
傷口を開くような行為で溢れた血が床を塗らす。
と、根本まで指を埋めた所で、指先に何か固い感触があった。
それを確認するやすぐに指を引き抜き、先程解いたばかりの包帯のまだ白い部分で、付着した血を拭った。
「何をなさるのですか!!」
「弾が中に残っている。このままでは鉛の毒にやられるぞ」
「…っそれを確かめる為とはいえ…あまりに強引すぎるではありませんか!」
「ここでは道具が不足している。やむを得まい」
白狐の頭を抱えていたには、その苦痛が直に伝わったのだろう。
わざわざ苦しめるような真似をした三成を睨み付けている。
三成はそれを冷めた目つきで見返した。
苦痛を直に感じた、だからこそ理解できるものもある。
それを示す為に口を開く。
「触れていたなら分かるだろう。この狐は最早痛みから逃げ出せぬ程に衰弱している。或いは既に鉛の毒が回っているのかも知れない」
痛めつける三成に噛み付くなり振り解くなり、出来る余地はあった筈だ。
動けるだけの体力があれば。
四肢を張るだけの抵抗など無きに等しく、かつその力も弱々しいものだった。
触れていたなら、その弱々しさをも感じ取れただろう。
の顔を見ると、苦いものを堪えるように唇を引き結んでいる。
「出血も多い。弾を除き、傷を塞ぐ必要がある…が、弾の位置が悪い。心の臓に近く、下手に触れれば命に関わろう。
匙の心得もない私に除かせようとするなら尚更だ。…ここで私が出来る事はない」
傷の深さも判断の理由の一つだ。
弾の位置は胸に近い。
刀で傷を開き強引に弾を除去する事も出来るが、一つ間違えれば大出血を起こす
そうなってしまえば、いかな白狐といえど命の保証など出来るものではない。
何も手を打たなければ鉛の毒と失血で死に、除去するにも危険が高い。
どちらを選んでも死の影はつきまとう。
事態を受け止めたの目が揺れる。
そして落とされた眼差しから、先程までの力強さは消え失せていた。
「…なら…どうすればいいのですか…?」
呆然として顔色を失い、宥める為に白狐を抱いていた手は、逆に縋るように抱き締めている。
救ってくれると、助けてくれると思っていた者に、その希望を打ち砕かれた。
絶望の淵へ立たされるとはこの事であろうか。
のその姿が、ふと記憶の中のいつかの自分と重なったように見えて、三成は静かに頭を振った。
「母が、佐和山様なら救えると言ったのです!必要なものは私が全て用意します、母が助かるなら私が何でもします!どうか…!」
母を、助けて下さい。
が三成の前に姿を現してからの短い間に、何度も聞いたその言葉。
その中で、これ程に悲痛な響きを含んだものがあっただろうか。
これまでは母の言葉を拠り所に、「使者」としての役割を全うしようとしていた。
その装いの仮面が外れ、感情も露わに