鬼拵ノ唄 -オニコサノウタ-










「誰かいるのか!?」


 着地と同時に激しい水飛沫が上がる。
牢と同じ目線になった所で、家康は牢から覗いていた手の主を見つけていた。

一人の娘であった。
上から見た手の位置から察した通り、娘は柵の内側で身を横たえていた。
目を閉じ横を向いた顔の中程までが水に浸かっている。
どこからか流れ込む雨水はじわじわと水位を上げており、放っておけばいずれ娘は溺れてしまうだろう。

手を見留めた瞬間体が動いたのは、溺れてしまうのを助ける為だった今更ながら自覚する。
飛び下りたその時には、自分自身行動の理由が分かっていなかった。

牢へ取り付く。


「しっかりしろ!!生きているのか!?このままでは溺れてしまうぞ!!」


わんわんと反響する空間で、娘の意識を現へ戻そうと必死に呼びかける。
その甲斐あってか、固く閉じられていた娘の目がうっすらと開いた。
しばらく茫洋と注を泳いでいた双眸が、ちらりと視線を絡ませてきた事に心底ほっとする。
ただ、身を起こそうとする様子がない。
投げ出された四肢は曲げる事を忘れたかのように微動だにせず、
やがて一度は開いた目が再び虚ろに閉じようとしたので、慌ててまた声を張り上げる。


「体が動かないのか?支えるから手を伸ばしてくれ!!」


柵の隙間からぐいと手を伸ばす。
こちらから届くかと思ったが、伸ばした手はぎりぎりの所で娘の手を掠め空を切った。
やはり向こうからも手を伸ばしてくれないと駄目だ。

意識の沈みかけた娘の目がぼんやりと家康を見ている。
まだ此し方にいる彼女の意識にに縋るように、今一度声を張った。


「手を!!」


懇願か、命令か。
その呼びかけに、娘が反応した。
緩慢な動作ではあったが、水に浸った手が持ち上がる。
そして僅か伸ばされ、家康の手に届いた。


「よしっ!」


固く握り、力の入らない娘の体を柵のそばまで引き寄せる。
二人の動きにあわせ不規則に波立つ水面に洗われる体を何とか引き上げ、柵越しにその体を抱き締めた。
抱き上げてもなお脱力している娘の体を、片腕だけで支えるには些か難があった。
手にした灯が邪魔だったが、一旦置こうにも床は水浸し。
逡巡した末に仕方なく、家康は灯を放棄した。
半ば投げ捨てる形になった灯が、じゅうと音を立てて明度を失う。

頭上からの薄明かりのみが頼りとなり、灯を失った代わりに自由になった手で、娘をしっかりと支えた。


「しっかりしろ!大事はないか?」


体温に温められていたずぶ濡れの着物が、新たな水気を得てひやりとする。
水に浸った娘の着物と触れ合った為だが、その水温以上に、娘の体は冷え切っていた。

果たして自分が抱えているのは生きた人間なのだろうか。

灯を失い輪郭が曖昧になったせいで、そんな疑念すら生じてしまう。


「具合はどうだ?冷たい水に横たわるよりは、こうしていた方がいくらかましだろう」


疑念を振り払う為には、何でも良い、娘の声が聴きたかった。
「大丈夫だ」でも、「どこそこが悪い」でも。
声を聞く事で生きていると確認できる。

未だぐったりとする冷え切った体へ、己の体温を分け与えるように腕を回し、
反応がなくてもめげずに、ゆっくりと根気強く声をかけ続ける。


「手遅れになる前に気付いて良かった…」


安堵の吐息混じりに呟いた時、ふと腕に何か細いものが触れた。
家康の腕の表面をなぞるように動いたかと思うと、やや広い面積のものがそっと覆ってくる。

感覚から、それが指であり手の平であり、娘の手である事に思い至った。

促されたものではない、娘自らが起こした行動に、少しの驚きと大いなる安心が沸き起こった。
だが安堵も束の間、ふと腕の中の体が震えている事に気付く。

どうしたのかと尋ねようとした口は、次いで腕を打った温かなものの為に閉ざされた。

数度の軽い刺激。

雨粒のようなそれは。


「…泣いているのか?」


遠い雨音に紛れて聞こえた微かな嗚咽に問いかける。
返事の代わりに、娘は身を返すと家康の胸に縋り付き、声を上げて泣き出したのだった。
柵越しに胸元へ額を擦り付け、子供のように泣きじゃくる。

初めて聞いた、娘の声。彼女の生を認識する為、家康が望んだもの。

激しい泣き方に初めこそ驚いたが、無理に泣き止ませはしなかった。
ただ何も語らず、それこそ子供をあやすように、震える体に腕を回し、ぽんぽんと背を叩く。

糸の切れた人形の如く、生気の無かった娘の変化。
喜ばしい事として無言の内に受け止め、涙を出し尽くし落ち着くまで、家康は娘を宥め続けた。










「あんた!ここで何やってる!?」

 水音に支配された夜闇の中に似つかわしくない怒号が響き、家康は振り返った。
先程まで自分がいた上階に、松明をかざす人影がある。
こちらの姿を見留めるや、慌ただしい音を立て階段を駆け下り、
階下に至ると同時に上がる水飛沫を気にかける様子もなく足早に近付いてきて、


「そいつに触れちゃなんねぇっ!!」


格子越しに娘を抱く家康を腕ずくで引き剥がした。
力比べなら負ける事はないのだろうが、今ばかりは勢いに呑まれ、引き剥がされるままに腕を解いてしまった。

現れたのは蓑を纏った男。
恐らく村の者であろう彼は、事態を飲み込めず呆気に取られている家康を尻目に、牢の娘へと食って掛かった。


「おいっ、妙な事言っちゃあいねぇだろうな!?」


娘の腕を捕らえ恫喝のように詰問する。
その合間に聞こえた短い悲鳴に、家康はようやく我に返った。


「待て、乱暴はしてやるな!」


すぐに男の肩を掴み、牢から引き離す。
先程とは立場が逆転した背後からの不意打ちに、男の手は容易く娘から離れた。
二、三度蹈鞴を踏み、水中へ尻餅をついた男の顔を初めて確認した。
不審の目を向けてくるその顔は、家康が探している夜襲の男達とは違った。

僅かな落胆は面には出さず、娘をかばうように牢の前へ立ち位置を移動した。


「…あんた、見ねぇ顔だな」
「雨に降られ、長殿の下で宿を借りている者だ」
「…ああ、昼間のお侍様か。何だってこんな時分、こんなとこをうろついてる?」
「…まぁ、ちょっとあってな。長殿の家に戻りたいんだが、道が分からずここに迷い込んでしまった」


ふぅん、と男が鼻を鳴らす。一応の納得はしてくれたようだ。
家康の頭から足の先まで視線を何度か行き来させながら、立ち上がり歩み寄ってきた。


「長の家ならこっからすぐだ。早いとこ出てってくんな」
「そうか、ありがとう。…ついでに案内もしてくれると助かるんだが。この雨に暗闇では、土地勘のないワシはまた迷ってしまいそうだ」


男をこの場に残しておきたくない、そんな思いからの出任せだった。
家康がこの倉にいる事を快く思っておらず、早く立ち去らせたい。
その様子がありありと見て取れる男の言うままに場を離れ、娘と男のみを残す事が、咄嗟に躊躇われたのだ。

果たして、一瞬黙り込んだ男は面倒そうに表情を歪ませ、


「…ったく、早くしてくれ」


今来たばかりの階段へ足早に向かった。
水気を多分に含んだ音を立てて上がっていく男を少しの間見送り、家康は牢の娘へ目を向ける。
男に理不尽な威圧を向けられた娘は座り込み、怯え縋る目を向けている。
安心させる為、水中に膝をつき、娘と同じ視線になってから、努めて優しく声を掛けた。


「どういう訳でこんな所に入れられているかは知らないが、この環境は幾らなんでも酷すぎる。
長殿に話をしてみるから、もう少し辛抱していてくれ」


私情では今すぐにでもこんな所から出してやりたい所なのだが、理由も聞かず牢を開けるような傲慢な事は流石に出来ない。
故にせめて、冷たい雨水の流れ込む環境ぐらいは改善するよう、翁に掛け合おうと思った。
仮に彼女が罪人であったとしても、この待遇はあんまりだ。


「すぐには何もしてやれなくてすまない。風邪を引かんよう、極力体を冷やさないようにな」


防寒になるものを何一つ持っておらず、激励を送る事しか出来ない現状が歯痒い。
せめて安心してもらえるように、家康は娘の一途な視線の前に、精一杯の笑顔を作って見せた。


「お侍様!まだか!」
「おっと、お呼びがかかってしまった」


階段の途中から下を覗き込み、家康を促す男へ、今行くと応じてから牢を離れる。


「…ま、待って!」


向けた背に投げかけられる、小さな声。
反射的に足を止め、それが牢の娘の声だと気が付いた時、家康は驚いて振り返っていた。
嗚咽と悲鳴しか聞く事のなかった、娘の声。


「名前、を…」


気力がなく、受け身の姿勢ばかりだった娘が見せた行動。
牢に取り縋る白く細い指が暗闇に浮かび上がり、その向こうから覗く目に、家康は確かに生気を見た。


「い……」


家康と、正直に答えかけて、思い留まる。
国主だと知れ、騒ぎになるのを憚り、村長の翁にさえ名を明かしていなかったのだ。
今ここで口にする訳にはいかないと、少しの間考え、


「竹千代だ。お前は何という?」


幼名を用い、また返す言葉で娘に名を尋ねる。娘は一度目を丸くした後、微笑んで答えた。


「…、と」


その笑顔が一瞬、泣く寸前の表情に見えた気がしたが、男に再度急かされた家康に確かめる術はなかった。




















鬼拵ノ唄三話。最後の最後でようやく夢主の名前が明かされた回。



2013.2.11
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