鬼拵ノ唄 -オニコサノウタ-
倉から外へ。未だ止む気配のない雨の下へ、傘を持たない家康は足を踏み出す。
生地が雨を吸い肌に張り付く感触に僅か眉を寄せながら、思うのは倉にいた娘の事。
流れ込む雨水に構わず身を横たえる姿。
初めて感情を露わにした時の手指の震え。
『名前、を…』
声を掛けてきた時の直向きな眼差し。そして、
『…、と』
名を聞き返し答えた時の、言い表せぬ表情。
「着いたぞ」
その内に、男が足を止めて振り返った。
声に我に返ると、雨で煙る視界にぼんやりと家屋の影が浮かび上がっていた。
闇だけではない。翁の家の前に手燭が灯っている。
「殿!」
目を凝らした先にいたのは、従者であった。
家康よりも先に戻ってきていた彼は、傘と手燭を携え、表に出て帰りを待っていたのだ。
家康を見留めるとすぐに駆け寄せ傘を差し掛けてくる。
「お怪我は?」
「大丈夫だ。お前の方も…」
「大事ありません」
「そうか…ん?」
短いやり取りで互いの安否を確認し合った所で、ふと案内の男の姿が見えなくなっている事に気がついた。
何処へ行ったかと首を巡らすと、気の早い事に今来た道を早足で引き返す蓑を被った背を見つけた。
一言もなくさっさと行ってしまうとは思いも寄らず、家康は慌てて、
「ありがとう!助かった!!」
小さくなっていく背に礼の声を張り上げた。
果たしてこの雨音の中、正しく男に聞こえたかどうか。
男はちらと振り返ったようだが、特に何か返してくるでもなく、やがて夜闇にその姿を溶け込ませていった。
「して、殿…首尾の方は?」
何となく蓑の背を追い続けていた家康に、従者が問いかける。
「あぁ…見失ってしまった」
僅かに後ろ髪を引かれながら視線を戻すと、見えた従者の顔には明らかな落胆の色が浮かんでいた。
どうやらこちらも逃げられてしまったようで、心底悔しがり詫びる彼に、逃げられたものは仕方がないと笑いながら慰めた。
「それよりも、早く中に入ろう。流石にこのままでは風邪を引きそうだ」
従者を促し、翁の家へ歩を進める。
傘を差し掛けられながら玄関をくぐると、戸惑い不安に満ちた顔で家康を気遣う翁が、
宿を借りに来た時と同じように乾いた手拭いを携え待っていた。
男を追い出て行った物音に飛び起き、今までずっと待っていたらしい。
何があったのかと問うてくる翁へ、
「もう遅い、訊きたい事もあるが、今日の所は長殿ももう休んだ方が良い」
積もる話は明日にしよう、と翁に伝えた。
夜襲を未遂に終わらせ、実害はない。
撒いたとはいえ一度は追われた事であるし、まさか同夜再び現れるという事もあるまい。
翁にこれ以上の心配をかけた所で、警戒の利になるものではなかった。
最後に従者が潜った戸が閉められる直前、家康はその向こう、外の景色に目を向ける。
雲のかかる夜闇は建物の輪郭をも飲み込んでしまっているが、この景色の何処かにある筈だ。
と名乗る娘、それが繋がれている倉が。
今や家康の胸の内で、娘の存在は、夜襲の男達と並ぶ程度に気がかりなものになりつつあった。
約したものもある事だし、明日此度の顛末を話すついでに、の事も訪ねてみよう。
そう答えを出した時、家康の視界から、玄関の戸が外の景色を遮断した。
翌朝、家康から昨夜の顛末を聞かされた翁は恐々として身を縮ませていた。
「夜盗に心当たりはございません…が、探し見つけ次第、すぐお侍様にお知らせしましょう。なのでどうかお咎めは…」
自宅に賊を侵入させ、士分の家康を危険な目に遭わせた為に咎を受けるのではと心配しているのだ。
ちょっと哀れに思える程の様子に、不安の種を取り除いてやろうと、
「長殿のせいではない。こうして色々世話にもなっている事だし、感謝こそすれ咎める謂われはないだろう?」
供された朝餉の漬物を齧りながら、翁に笑いかけて言った。
他国の領主の中には、今回のような場合宿の主人に罰を下す厳しい者もいるだろうが、家康にはその気はない。
ごく普通の民家で、己の居城と同程度の警備を求めるのは無茶な話であるし、
それは承知の上で、警備の足りない部分を補う為に腕の立つ従者を供にして宿を求めたのである。
実際、警備が不十分であったが故に夜盗に押し入られたが、いち早くこれに気づき未然に防いだ為被害はなかった。
何事もなかったのだから、家康に翁を責める理由などなかった。
「それよりも長殿、一つ訊きたい事があるんだが」
家康の朗らかな態度に心の荷が下りたのであろう。
安堵の色を浮かべた翁を見て頃合いと判断し、家康は話題の転換を試みた。
「はいはい、何でしょう?」
「倉の地下に、娘が一人いるのを見かけた」
昨日迎え入れた時のような人の良い笑顔の翁の合いの手に、促されるように言葉を繋ぐ。
昨夜から何度も思い返していた。
今もまだ鮮やかに、の顔が脳裏に浮かぶ。
行方の分からなくなった夜盗共よりも、今は倉にて身動きが取れないでいる彼女の方が気がかりであった。
日の当たらぬ地下にはめ込まれた格子の向こうに、隠されるようにいた娘。
そのような待遇を受ける程のどんな事を、彼女はしたのだろうか。
「あれはどういう事だ?彼女は何故あんな所に…」
浮かぶままに口に出していた言葉は、不意に戸の向こうからの呼びかけにより遮られた。
従者のものである。
一足先に身支度を整え、城からの迎えが到着するのを表で待っていたのだ。
家康は僅かばかり落胆した。
胸の内に蟠る疑問を、ようやく払拭できると思ったのに。
そう思う一方で、部外者が立ち入るべき問題ではないのではないかとも思った。
気にはなれども、家康の目指す道の先において、の存在は守るべき数多の民の内の一人に過ぎない。
未だ道の途上である以上、そのただ一人に今は関わる時ではない。
『天下』を目指す者としての意識が、の事は気にかけるなと囁く。
そして家康は、その声に従う事にした。
間が悪いと思えた迎えの報せを天運だと捉え方を変え、胸の内に湧いた幾ばくかの無念を忘れようとした。
もう少し残っていた汁物を胃の腑へ流し込み、椀を置きざま膝を立てる。
「世話になったな。礼の品は後で届けさせる。美味い飯をありがとう」
一宿の恩に感謝の言葉を向け、下げた頭を元に戻す。
翁がぽかんとした顔で、家康を凝視してた。
何故翁はそんな顔をしているのか。
理由に思い至らず内心首を傾げるが、そうした所で分からないものは分からない。
表情には気付かなかった事にし、そのまま立ち上がって翁の横を抜けた。
「あれは鬼なのです」
独りごちる声音が耳に届く。
家康は振り返る。
それはやはりこちらに向けて言ったものではなかったようで、振り返った所で見えたのは、やや薄くなった白髪の後頭部のみ。
見えない顔は、立ち上がる前に見たあの表情なのか。それとも違うものが貼り付いているのか。
「あれは鬼故…」
牢に繋いでいるのです。
翁の声は、平時の穏やかなものとも、咎めを恐れ怯えていたものとも違う。
初めて聞くひどく淡々とした口調で、これまでの話しぶりとの落差に、家康は戸惑うしかなく。
置いて小さな背を、ただじっと見返すしか出来なかった。
夢じゃなくてオリジナルキャラが出てくる二次創作って言った方がいい気がしてきた
戯
2013.3.20
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