鬼拵ノ唄 -オニコサノウタ-
家康は駕籠があまり好きではない。
人の歩みが振動となり伝わってくるのがどうにも居心地が悪かったし、外の様子が小窓で区切られてしまう。
視界が取れ速さもある馬を自分で繰る方が好きだったし、いっその事自分の足で歩いた方が気も紛れる。
そう思いつつも家康が今大人しく駕籠に揺られているのは、主の体調を過ぎる程に気に掛ける従者の強い抗議の声があったからだった。
前日から続く雨のせいで外気は冷たい。
その環境下で、自分よりも家康を案じる従者の気持ちを無碍には出来なかった。
故に今、家康は大人しく駕籠に揺られ、開けた小窓から外の様子を眺めている。
外界とを繋ぐ小窓から流れ込む冷えた空気に頬を晒しながら、茫洋として後方へ流れ行く景色を見送っていた。
「…ん」
雨に白く霞む景色の中にある、背の高い建物に目が留まった。
周囲に並ぶのは簡素な造りの民家であった為、その建物は一際に目立つ。
どうやらそれは倉のようだと思い至った時、家康は今通っているこの道が、昨夜夜盗を追って通った道である事に気付いた。
少しだけ小窓に顔を寄せて目を凝らす。
雨の向こうに倉の入り口が見えたが、扉は閉まり錠が下ろされている。
昨夜は確認できた灯火の光は今は見えない。
「殿、何かございましたか」
駕籠の中の様子に気付いた従者が、駕籠に身を寄せて尋ねる。
後ろへ流れつつあった倉は、蓑をまとった体に妨げられて見えなくなった。
そんなつもりはなかったのだが、つい名残惜しむように視線を残してしまう家康に、従者は怪訝な視線を向けている。
「いや…」
何でもない、と答えかけて、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
こんなにも気になっておいて、何でもないも何もあったものではない。
との関わりが昨夜の一事のみであったなら。
彼女はやむを得ず何らかの罪を犯してしまった罪人なのだろうと、深く考えず納得もしたであろう。
彼女の事を尋ねた時、罪人だと、そう翁が答えてくれていれば、それで済んだ話だったのだ。
しかし、問うた言葉に翁が返した答え。を『鬼』と称したその真意。
翁の表情の理由。
家康にすがり噎び泣くの姿と、『鬼』という言葉の印象のずれが、家康の思考を妙に捕らえて離さなかった。
頭の中がこの有様で、「何でもない」とはよくも言えたものだ。
家康は苦笑した。そして一呼吸の後に、行動に移す。
「調べて欲しい事がある。あの倉に、娘が一人囚われている。その理由を探って欲しい」
このまま心残りを残して城に戻るよりは、納得いくまで調べ上げた方が良い。
それがただの罪状をつまびらかにするだけの結果だったとしても構わなかった。
この胸の内の蟠りが取り払われるなら、それで良かった。
どこからか流れ込んでいた雨水は、またどこかから引いていった。
それでも未だ湿り気の残る床に座り込んだまま、は数日間降り続いた雨が上がった事を知った。
ここには窓がないので、状況から何となく推し量るしか出来ないのだが。
見上げた先の四角く切り取られた吹き抜けの天井。
そればかりが、今のが有する世界だ。
ふと、己の手に視線を落とす。
長らく狭く日の当たらない所にいるせいか、生気の抜けた青白い肌。
その手を掴んだ青年の姿が思い出され、は強く手を握り締める。
「竹千代さん…」
あの時、浸水が顔を覆うまでに迫ってきている事に気付いていたが、身を起こして逃れる気にはなれなかった。
四肢を動かすのも億劫だった。
冷えた水にどんどん体温を奪われるのを知りながら、このまま死んでしまえたらどんなに楽か、とぼんやり考えていた。
囚われ摩耗した精神は、体温の低下と共に生を放棄し、目を閉じ外界との繋がりを遮断させた。
『誰かいるのか!?』
そうして全てを投げ出した時、現れたのだ。
竹千代と名乗る青年が。
激しい水飛沫を立て上から降ってきた彼が、あまりに必死に呼びかける声に、知らず手を伸ばしていた。
恐らく自分は、誰かの手が差しのべられるのを待っていたのだろう。
竹千代の手に引き揚げられ、抱えられた時に感じた人の温もりが、あんなにも嬉しかったのだから。
「大丈夫…あと少しの辛抱だもの…」
触れた温もりの記憶を包み込むように、己が手を胸に押し抱く。
ここに自分がいる事を知らなかったという事は、竹千代は村の外の人間だ。
不意に現れた彼の存在が、忘れかけていた外界への希望を思い出させてくれたのだ。
この思いさえあれば、ここから解放されるまでの心の支えに出来る。
あと少し残っているここでの生活も、耐えられる。
「祭り…私、頑張るから…。待ってて、おっ父、おっ母…」
祈るように呟いた時、倉の扉が開く音がした。
はっとして頭上を振り仰ぎ、吹き抜けの向こうに見える景色に目を凝らす。
薄闇を裂くように外の日差しが差し込み、扉の前に立つ者を影として浮かび上がらせる。
背丈の小さな人だった。
倉の中に歩を進め、階段を下りる毎に、その者の顔が判別出来るようになってくる。
「あ……」
つい漏れた声が震えを帯びている。
見下ろしてきた冷たい目に射竦められ、押し抱いた手がかたかたと震えた。
どこからか聞こえてくる手拍子の音に、目の焦点が合わなくなっていく。
「お侍に余計な事は言わなんだようだの…お前は良い子だ。良い『鬼』じゃ」
ゆっくりと階段を下る、その者の前後には松明を掲げた男が二人。
赤々と燃える松明の火に声の主の顔が照らされ、穏やかな笑顔に不気味な陰影をつける。
つい今し方胸に灯った希望が、一息の間に吹き消されてしまったようだった。
彼我の距離が詰まる程に、空恐ろしい思いが身の内を真っ黒く塗り潰していく。
手拍子の合間に唄が聞こえる。調子の良い囃子唄。
ここにいる間何度となく聞かされたそれは、聞く度に頭の中を掻き回していく。
『私』が『私』でなくなるような心地がして、この唄は嫌いだ。
「さぁ、じきに祭りじゃ。『鬼』の仕上げといこうかのう」
貼り付けられた笑顔が視界を埋め尽くす。
錯覚なのか、手拍子と唄は、最早耳の真横で聞こえていた。
背中に走った鈍い衝撃は、床に倒れたからか、押し付けられたからか。
自分が何処にいるのかさえ分からなくなる中、ふと、竹千代が今どうしているのか気になった。
彼も村の外の人間だ。
どこかで捕らえられたりしていなければいいのだが。