鬼拵ノ唄 -オニコサノウタ-
居城へ戻るや、あの村での悪天が嘘のような晴れ間が広がっているのに驚いたものだ。
土地の成り立ちが悪いのであろう。
あのような所では作物が十分に育たなくて当然である。
村人らの今年の食い扶持を気に掛けながら、居城で執務をこなし数日が経った。
「ふぅ…暑いなぁ」
執務の合間に行っていた鍛錬の手を休め、屋根の下へ移動する。
吹く風は心地よくも熱気を孕んでおり、体を動かすとたちまちにじっとりと汗ばんだ。
手拭いで首や顔を拭っていると、此方へ近付いてくる足音を聞いた。
「殿」
呼ばれ、目を向ける。
共に村で過ごした従者が、携えた盆に茶を乗せて立っていた。
「お前はいつも気が利くなぁ」
「殿の機を読むのにも慣れました故」
「助かっている」
傍で膝をつき、盆を差し出す。
適当な所に腰を下ろし、茶器を取ろうとした所で、盆に器以外の物が乗せられているのに気がついた。
一通の封書である。
「先日の件、調べにやった者が戻って参りました」
視線での問いに、従者が答えた胸に反応して、俄に浮上する記憶。
忘れてはいないが、日々の執務に忙殺される内、頭の隅へと追いやられていた一事。
あの村で見かけた、という娘を調べるよう命じていた件の、報告書であった。
「…すまないな」
出された茶で喉の渇きを癒してから、書簡を手に取る。
村を去り際、翁がの事を『鬼』と形容した理由。
彼女は一体どれ程の罪を犯し、あのような劣悪な環境下に置かれているのか。
大して気負う事もなく、書簡を広げ文字を辿る。
少しの間、風が奏でる葉擦れの音のみが場を占める。
「…何」
文を読み進める内に、穏やかさを漂わせていた表情が強張った。
唇を引き結び、目を瞠った顔からゆっくりと血の気が失せていく。
傍で見ていた従者が怪訝に思う程の、不自然な変化が家康に起こっていた。
「殿…いかがなさいましたか」
「…お前はまだこれを読んでいないのか?」
「はい」
「なら、読んでくれ。ワシは出かける」
「あっ殿!?」
全てを読み終えた家康は、思わず力が篭もり皺が寄ってしまった書簡を従者へ押し付けた。
そして慌てる声を尻目に厩へと走る。
居ても立ってもいられない。
一刻も早くあの村へ向かわなくては。
を、あの村から連れ出さなければ。
手遅れになる前に。
「なんて悪習だ…!」
書簡を読んで、胸に湧き上がった衝動のまま吐き捨てる。
立ち去ったばかりの村へ遣わした者がまとめ上げた報告。
そこにはが囚われる事となった理由と共に、村に根付く風習について書かれていた。
村では年に一度、天候に悩まされる季節の到来を前に祭りが執り行われる。
降る雨に土地が負けることのないように。
豊作祈願の意味合いが込められたそれは、時期、形式に多少の差異はあれど、どの村でも一般的に行われているものだ。
自分がこの村を訪れたのは、去年の祭りより少し前のことだったか。
輿に乗せられ、流れていく景色を茫洋と捉えながら、は過去を思い返した。
戦禍に遭い家を失い田畑を焼かれ、住めなくなった土地を捨て、親に従い流浪の身となった。
村に入ったのは豪雨に見舞われ宿を求めた時。
『災難に遭われましたなぁ。この辺りは鄙びた土地故、戦火も届きにくい。まずは旅の疲れを取りなされ』
差し出された手拭いと村長の暖かい笑顔に、堪らない安堵を得たことを覚えている。
決して豊かではなさそうな村だったが、触れた人柄に、出来るならこの村に落ち着きたいと思った。
その意思を、親が長である翁に伝えると、翁は笑ってそれを受け入れてくれた。
安堵の心が一転したのはその晩のことだった。
寝込みを何者かに襲われ、気が付けばあの牢に、親子ばらばらに放り込まれていた。
『村の一因になるには、近く行われる祭りに参加してもらわねばならん。しばしこちらで潔斎をなされよ』
親と引き離され不安を抱えていた所に、現れた翁は笑いながら言い放った。
こんな劣悪な環境で潔斎?
何の説明もなく、人攫いのように連れて来られて?
つい数刻前には安心を与えてくれた翁の笑顔が、この時は何か得体の知れないものに感じられて、そのおぞましさに身を震わせた。
何かがおかしい。
それに気付いた所で逃げ出す術もなく、不安に身を寄せ合う事も、格子に阻まれ出来なかった。
それからは村人からの理不尽な暴力に耐える日々だった。
棒で叩かれ、嬲られ、家族への仕打ちに声を荒げれば、その倍以上の暴力が振るわれる。
初めこそ抵抗していたものの、日を経るにつれ、上げる声もなくなっていった。
そして。
『お前はまだ潔斎が足りん。親御は先に村の一員となるが、お前はもう一年そこにおれ』
祭り囃子と手拍子、朗々たる謡が遠く響く中、親は牢から連れ出された。
暗闇から引きずり出され松明に照らされた顔は、ほんの僅か離れただけなのに記憶の中のものとまるで変わっていた。
『ほほ、良い鬼となった』
ぽつりと漏らされた嬉しげな声が、ひどく耳に残った。
その後、祭りに参加した親は晴れて村の一員になったと村人から聞かされたが、
一員となった筈の親が会いに来ることがなかったので、祭りの全容や親の安否は、一年経った今もなお
独りで抱える不安の重圧に押し潰されそうになりながら、次の祭りまで耐えれば親に会えるという微かな希望に縋り、
変わらず嬲られ暴力を振るわれる日々を耐えに耐えた。
『次の祭りにはお前も親御に会える、もうしばし辛抱せよ』
耐える間に言い聞かされる言葉に脳を冒されながら、は今日という日を迎えたのだった。
正直、親が無事であるかどうかは分からない。
ただ、この一年受けてきた苦しみからやっと解放されるのだと思うと、言いようのない喜びを覚えた。
突如、強く頬を張られ、物思いから引き戻された。
はっとして、ぎこちなく首を傾けると、表情を歪めた村人が憎々しげにこちらを睨み付けている。
「折角溜め込んだ『穢れ』を零すんじゃないよ!」
初めは何を言われているのか分からなかったが、気付くと頬が濡れている。
過去を思い出す内、感傷から涙を流していたらしい。
彼らはに泣くことすら許さない。
穢れ…負の感情や村の厄災を一身に集め、『鬼』となり祭りに参加すること。
それが自分に、或いは去年の親に、課せられた役割、だそうだ。
『潔斎』という聞こえの良い言葉で覆い隠して、耐えることを強いた村人達。
時が経ち、覆いが失われて露わになった本性に、何故だかおかしさが込み上げる。
知らず笑っていると再び叩かれ、輿の上で倒れ込んだ。
体のあちこちをぶつけたが、腕を縛られ自由の利かない体では体勢を立て直すことも出来ない。
横倒しになった視界には、手を叩きながら楽しそうに輿を取り囲む村人。
耳には忌まわしいあの唄が容赦なく潜り込む。
この唄は嫌いだ。
嫌いなものを遮断しようと、意識が朦朧としてくる。
闇に落ち込むように…『鬼』となるように。
落ちる途中、小さく現れた、光にも似た存在。
「…た……」
記憶の中、闇すら吹き消す暖かな笑顔。
何故今この時になって、その存在を思い出したのか。
答えに辿り着けぬまま、の意識は途切れた。