龍如得雲 ―宝器 梟の道に巻き込まれ―
「果たせずじまいの仇討ち…無情なものだな」
独白は、恐らくは届いていないだろう。掴み上げていた首の根を離し、弛緩した体を地に落とす。
弦月の兜ががらんと鳴り転がった。
伏した体は身動ぎ一つせず、しかし彼の宝だけはしっかりと握って離さない。
松永久秀は僅かに身を屈め、その手から、或いは鞘に納められたままのそれを取り上げる。
六の爪。過去に我が手にと望んだ物だ。
愛でるように眺めてから、思い出したように視線を落とす。
先に得ておいたもう一つの宝、楯無の鎧がそこにある。
命のみならず、心すらも守れない。
鎧の用を為さない、存在意義を問いたくなる物。
「さて、卿らで平らな蜘蛛の代わりとなり得るか…」
さしたる期待をしている訳ではないが、せいぜい長らく楽しませてもらいたいものだ。
うっすらと笑み、得た宝への期待を言葉にする。
最早用は済んだ。
次の行く先を静かに考えながら、場を離れる為歩を進めかけた所で、どさり、と物音がした。
足を止め、音の方を振り返る。
先程、自らが上ってきた坂道へ至る付近。
汚れるのも構わず地面に蹲る不詳の女を見つけ、松永は目を細めた。
およそ戦場では見掛けない出で立ちの女だ。
懸命に体を起こし、頼りない足取りでこちらへ向かって歩いてくる。
蒼白な顔色で、虚ろな目の女は、松永の傍まで近付き…そして通り過ぎた。
「
何の反応もせず過ぎ去った娘を、何とはなしに目で追う。
やや物狂いのようにも見受けられるが、どうという事はない娘だ。
なのに何故か、目がその姿を追いかける。
娘はふらついた足取りのまま、あるものへ近づきその傍で崩れるように座り込んだ。
赤い衣が無惨にも裂け血に濡れた、かつて若き虎だったものだ。
彼の側女、であろうか。
骸を揺さぶり、顔を伏せる、その悲嘆にはある種の美しさを感じなくもない。
けれど、ただそれだけだ。
己が目を奪われる程のものは何もない。
気のせい、だったか。
追っていた目を引き剥がし、改めて場に背を向けた時。
にわかに辺りが明るくなり、図らずも再び足を止めてしまう事となった。
目を瞠り、その光源が背後にある事を知り、振り返る。
丁度光が収束する所だった。
娘の、手元へ。
「今のは…」
何事が起きたか分からずに、ただ娘を見つめる。
その下で、若き虎の体が震えた。
咳き込む声、荒い息遣い。
ゆっくりと頭を起こした娘が、安堵したように肩を落とした。
そしてすぐに…といっても非常に緩慢な動作ではあったが…もう一つの骸の方へと這うように近付いていく。
松永は意識せず、娘の背へと歩みを向けた。
途中側を通った若き虎は、己が最後に見た襤褸の如き体が格段に回復していた。
何事が起こったか。
状況から考えられる最も有力な可能性。
こんな事が有り得るのか、己が思考を疑う程の衝撃。
その答えは、娘が放つ二度目の奇しき光にて証明された。
「死…いで……伊達、政……」
か細い声が聞こえる。
途端に娘の左手から放たれる白き光。
それが失せると共に、虎と同様、独眼竜の体が震える。
息を、吹き返したのだ。
一度ならず、二度までも。
信じられなかった己の仮定を裏付ける出来事。
医も薬もなく、この娘は死の淵に立った者を救い上げたのだ。
「…素晴らしい」
心が震える感覚というのは何時以来だったか。
表面上だけではない笑みが浮かぶのを感じながら、松永は娘のすぐ背後に立つ。
娘は気でも失ったのか、竜の胸に突っ伏したまま顔を上げない。
その頭髪を掴み、些か強引に顔を上げさせた。
紙のように白い肌に苦悶の色を乗せ、眼差しは瞼の奥に隠されている。
いかに間近で観察しようとも、変わった所のない娘に見えるのだが。
表面には決して現れない、この娘にしか持ち得ない何物かに、松永は強く興味を惹かれた。
「どうやらこの戦場には、もう一つ手に入れるべき宝があったようだ」
無抵抗の娘の頬を、空いている手で撫で下ろす。
この宝は誰のものか。
虎か、竜か、そのいずれでもないのか。
この場で意識のある者が居ないので確かめようもない。
「…さて、困ったな」
呟きながらも娘から離されない眼差し。
爪よりも鎧よりも、強く心惹かれる宝を得た事に、松永は満足の笑みを浮かべた。
体を襲う痛みに促され、意識が引き上げられる。
「ぐ…」
「ああ、小十郎様!良かった、気が付いて…!」
痛みを堪えうっすらと開けた目に、伊達軍兵士の顔と抜けるような蒼天が映る。
この顔は伝令の者ではなかったか。
何故こんな情けねえ顔を見せてやがる。
兵が見せる気が抜けたような顔に、ぼんやりとそんな考えが浮かび、
「…っ松永はっ!?」
俄に蘇った記憶に、体の痛みも忘れ飛び起きていた。
「お、俺がここに来た時には誰も…」
食って掛かる小十郎に気圧されながら兵が答える。
小十郎は押し隠しもせず、奥歯を噛み締めた。
抜かれてしまった。
誰も踏み入らせるつもりのなかった、政宗様の望まれた戦いに、進ませてしまった。
動かしようのない事実が、情けなく、不甲斐なく。
重圧となって小十郎にのし掛かる。
「上の様子はどうなってる?」
「俺は確認してません。あの嬢ちゃんが、ふらふらしながら先に行っちまいましたが…」
「嬢ちゃん…が来てたのか」
「はい。小十郎様と真田の忍の怪我を治した後、上へ。小十郎様が目覚めるまで待てと言ったんですが、聞こえてなかったみたいで」
説明されて気付く。
あれだけの劫火に焼かれながら、怪我がそれ程酷くない事に。
着ていた羽織は焼け焦げて、鎧も破損が目立つのに、体の方は軽い火傷と浅い傷くらいだ。
松永の手にかかり、一度は己も死の淵に立ったのだろう。
の力が、そこから小十郎を救い上げたのだ。
「は…上へ行ったんだな?」
の存在を心強く感じつつ、視線を移す。
破られた門扉の先に見える、坂道。
何人も近づけてはならなかった戦場、政宗様のいる場所。
従来のならば、人一人を癒した時点で倒れる程に疲弊する。
その体を押して先へ進んだという事は、政宗様に何事かが起きたのか。
松永の事もある。
急速に胸を占めていく焦燥に矢も盾も堪らず、小十郎は立ち上がる。
「各隊へ連絡、戦は一時中止だ。兵を退いて指示を待つように。それと金瘡医をここに連れて来い」
「は…はっ!」
折良くいた兵に指示を飛ばす。
駆け去った後ろ姿を見送って、小十郎は一度視線を落とした。
「…という訳だ、猿飛。伝えてくれるな?」
意識がないものと思っていた猿飛が、横たわったまま目を開いていた。
ばさりと羽音がする。
猿飛の手元から、鳥が丁度飛び立って行く所だった。
「今飛ばした。これで武田軍も兵を退くよ。緊急事態だししょうがないね」
イテテテ、と呻りながら体を起こす。
先に松永に討たれたこの男も、の手により助けられた。
敵である猿飛も助けたの心中は少々図りかねたが、そのお陰でこうして両軍迅速に停戦出来たのだと、今は前向きに捉える事にした。
「…なあ、竜の右目。俺様死んだと思ったんだけど?一体何が起きた?」
猿飛は、己が討たれた瞬間の事を覚えている。
その記憶故に、全快とは言えずとも今普通に話せている事に戸惑いがあるらしい。
その戸惑いの答えを、小十郎は知っている。
だが、
「悪いが、その質問に答えるのは後だ」
「あ、おい!?」
それよりも先に、確かめなければならない事があった。
佐助の制止の声を聞き流し、坂を上る。
剣戟の音が聞こえない。政宗様は御無事なのか。
松永はまだいるのか。とうに限界を迎えているだろうは。
幾重にも思考を巡らせ、長くはない坂を上りきる。
開けた視界に、地に横たわるのは己が主と真田幸村の姿。
そのどこへ目を向けても、松永久秀との姿は無かった。