龍如得雲 ―宝器 巻き込まれ事件―
ぽかんと開けっ放しにしていたせいで、口の中がからからに乾いてしまった。
びゅんびゅん後ろに流れ去っていく景色を、はただただ呆然と見送る。
まさか戦国時代で、馬にも乗らずこのスピードを体感するとは。
「ちょーっと偵察だけのつもりだったんだけどね。まさか窓が吹き飛ぶとは思わないから、俺様驚いちゃった」
「……えーと、驚かせてごめんなさい?」
「いやいや謝る事じゃないでしょ。そりゃあ予定外の事態ではあったけど、こうして目当てのモンは回収出来た訳だし、さ!」
とん、と大きく視界が揺れる。
ふわっと体が浮き上がる感覚に、背負ってくれている佐助の背中へ必死にしがみついた。
武田家宝の楯無の鎧、伊達政宗所用の六爪。
それらを身に纏うを背負って、木々の間を縦横無尽に走り抜けるのは、迷彩柄の忍ばない忍。
蒼天疾駆・猿飛佐助。
逃走経路にと作り出した穴の向こうから急に現れた人影に、引っ張られるまま宙に身を投げて。
あ、これは死んだと一瞬覚悟を決めたが、戦いて目を瞑っている内にいつの間にか体勢が変わり、
気が付けば佐助の背にしがみついて松永さんの城からぐんぐん離れていく所だった。
重さを感じさせない足運びもさることながら、気を遣ってくれているのか振動も殆ど伝わって来ない。
こんな快適な逃避行を誰が想像出来ただろうか。
忍って凄い。
そう感心しながら、着地の際に殺しきれなかった重力で、は舌を噛んだ。
「おぶっ」
「あ、舌噛んだ?」
「ら…らいよーぶれすっ!」
「ん、大丈夫じゃないね。でも悪いね、今止まる訳にはいかないんだ。もう少し距離を稼ぐまで…辛抱してくれよ」
佐助には見えていない位置で涙目になりながら、こくこくと頷く。
雷撃で松永さんを吹き飛ばしたとはいえ、すぐに追手がかかるとも限らない。
安全が確認できるまで、達に止まる事は許されないのだ。
自分が出来る事は、せいぜい動きの邪魔にならないよう、振り落とされないようにするだけ。
は佐助の肩にかけた手にしっかりと力を込める。
応じるように、の体を支える佐助の手にも力が込められた気がした。
足の運び、腕の力、会話する声。
今の佐助を形作るもの全て。
松永さんの城に連れて来られる前、最後に見た佐助の姿がフラッシュバックする。
物言わず、四肢の弛緩した、焼け焦げた姿。
命の消えかけた状態から、不十分な力の行使で、よくぞここまで回復してくれたものだ。
力を使った四人の安否を気にかけていたにとって、こんなにも嬉しく心強い『報せ』はない。
「……良かった」
「ん?何だって?」
「生きててくれて、良かったです」
舌の痛みが和らいだ頃、呟く。
ことりと背中に額を当てれば、固い防具の感触があった。
その下に包まれている体には、今も力強く脈打つ心臓がある。
「政宗も、無事ですよね」
小十郎さんも、幸村も。
助けたかった人が皆無事であるという、希望。
この目で確かめるまでは断言出来るものではないが、心の支えにはなる。
もし無事とは言えなくとも、生きてさえいてくれれば力を使える。
どんな状態にあっても、きっと救い上げてみせる。
固く誓って、佐助の背から額を離す。
「…そーだね、って言ってあげたいけど、全員の安否確認する前にこっち出て来たからなぁ」
「きっと大丈夫です。もし大丈夫じゃなくても、私が大丈夫にしてみせます!」
「わー強気で前向きな発言」
「へこたれないのが取り柄なので!」
自分を奮い立たせる意味も込めて、努めて明るく言い放つ。
気が付けば、後ろへ流れて行く木の本数が減っている。
を背負った佐助の足は、山の麓へ至ろうとしていた。
空を渡る鳥の甲高い鳴き声。葉擦れの音。
距離と壁とで隔てられた何処かで交わされる人の話す声。
言葉の明瞭さは失われ、ただの音となったそれらが届いてくる程に、静かな刻が流れている。
その只中にあって、小十郎の意識はある一点に向けられていた。
姿勢正しく腰を下ろした、その膝の向く方向には一組の褥。
優れない顔色を晒す政宗が、そこに横たえられている。
遠くの音が届く程の静寂の中、繰り返される呼吸は浅く、乱れがちだ。
息苦しそうに眉を顰める政宗の額には、水気を含んだ手拭い。
暫く乗せておいた為に体温で温んでしまったそれを取り上げ、傍らに据えた水桶へ浸した。
熱を発したと分かったのは、転寝を始めた政宗に掛布を持って行った時。
政宗は、横になる姿を人目に晒したがらない。
数多の人間を従える立場にあって、気を抜いた所を見せては示しがつかない、という誓いらしいのだが、
今真田の城にあって、その心掛けをまるで忘れたかのように振る舞う政宗を、小十郎は訝しく思った。
傷のせいもあって疲れているのか。
案じつつ部屋へ踏み入り、布を掛ける為政宗へ近付き、様子がおかしい事に気が付いた。
政宗は体に負った火傷により熱を出した。
の癒しの力が使われた事で一命を取り留めたとはいえ、辛うじて命を繋いだ程度。
一度に四人も救おうとしたが為に、本来なら瀕死の傷も完治させられる力が分散されてしまった。
恐らくは力を使われた順番に起因するものであろう、政宗の傷の残り方は四人の内で最も酷く、
手当の時に確認できた火傷の具合からも、予断を許さないのは明白だった。
目を覚ましても、いつ容体が変わるか分からない。
そう心構えが出来ていたお陰で、実際に事が起こって冷静に対処できたのは不幸中の幸いというものだろうか。
倒れた政宗は、熱に魘されながら眠り続けた。
小十郎はその傍に侍り、匙に調合させた薬を飲ませたり汗を拭ったりと付きっ切りで看病をした。
その間も熱が下がる事はなく、丸一昼夜が経とうとしている今も、政宗に目覚める気配はない。
「もう少しの辛抱です、政宗様…」
軽く水気を絞った手拭いを政宗の額に戻しながら、小十郎は独り言ちる。
眠る政宗に届きはしないだろうその言葉は、この場にあっては無力な己に言い聞かせる為のものでもある。
「じきにも戻り…その火傷も癒してくれる事でしょう」
主君の苦痛を取り除く事も出来ない、この場にあっては無力な己が、望みをかけられる唯一のもの。
死に瀕した者をもたちどころに癒す力を持つを、松永の手の内より奪還できれば。
政宗の痛苦を取り除ける唯一ともいえる存在、小十郎はその帰還を待っていた。
「屈してはなりません…」
松永に『宝』を奪われた者同士という事で、図らずも真田と一時停戦の上で手を組んでいる。
今は猿飛が、武田の鎧と同時に伊達の六爪とを探し、松永の周囲を探っている所だ。
因縁の相手に奪い去られたもの、それを取り戻す日はいつになるのか。
全ては情報を得た猿飛が戻る日取りに因る。
政宗の体調と六爪、そして。
いずれにしろ小十郎は待つ事しか出来ず、その歯痒さに、膝に戻した両手をきつく握り締めた。
一向に下がろうとしない熱は、政宗をじわじわと黄泉路へ引きずり込む悪しき手のようだ。
連れて行かれてなるものか。
その一心で、声をかけ看病をし、どれだけの時が経った頃か。
俄かに遠くで騒がしい気配が起こった。
何事か騒動が起きたかと戸の方を見遣る。
慌ただしい足音がこちらへ向かって近付いているようだった。
どんどん大きくなる音に比例して、小十郎が座る床にも振動が伝わってくる。
傍に怪我人がいるというのに。
傷に響いてしまうではないかと眉を顰めていると、
「片倉殿!!」
作法もへったくれもない乱暴さで戸が開け放たれ、幸村が現れた。
これが足音の主だったかと納得しつつ、大音声につい眉間の皺が深くなる。
「おい、真田…」
上田の城に間借りしている立場であっても、言うべき事は言わねばなるまい。
こちらには床に臥せっている者がいる。
己が城であっても、政宗の身を案じるならば多少の配慮はあって然るべきではないか。
そう、口にしようと思ったのに、音にはならなかった。
呆れ交じりに見上げた顔。
その満面を彩る表情に、喉まで出かかった言葉を封じられてしまう。
真田の表情は、丸く開いた目を輝かせ、口元には抑え切れないらしい笑み。
「佐助が!…佐助が殿を連れて戻り申したっ!!」
どうした、と問う間もなかった。
先んじて発された言葉がゆっくりと小十郎の頭に浸透し。
やがて理解が及ぶと同時、瞠目する。
自分たちが相手取るのはあの松永だ。
情報を得るにも困難で、長期戦となるのも覚悟していたというのに。
情報どころか、待ち望んでいたを連れて、予想よりも早く佐助が戻ったという。
その報せは、政宗の不調にも冷静であろうとした小十郎の心をたちまちざわめかせる。
「すぐに此処へ」
既に城内にいるというのなら、最早寸暇も惜しい。
気忙しく腰を浮かしかける小十郎へ、真田が待ったの声をかけた。
「案じめされるな。佐助が案内についている、じきに…」
そこまで言いかけて、背後から近付く再びの慌ただしい音に口を噤む。
真田の時よりも幾分か軽く耳に届く、やや小走りの足音。
それが何者の発する音であるのか。
考え付いた一つの予想は、小十郎の中ですぐに揺るぎない確信となり、次第に心が落ち着きを取り戻していく。
ふ、と小十郎は笑んだ。
そして立ち上がる。
この足音の主を出迎えなければならない。
恐らく『あれ』は、この城にいる誰よりも取り乱した様子で部屋に飛び込んで来るだろう。
政宗が心配で仕方ないと顔全面に表して、この場にいる誰よりも慌てふためいて。
姿を見る前からその様が想像出来る、その事が可笑しくて仕方がなかった。
一つ息を吸う。
少し前まで胸を占めていた焦燥感が、今は嘘のように消え失せていた。
真田が振り返り、背後から来るものを確認して一歩脇に避け、道を譲る。
開けて見通しの良くなった廊下から、弾丸のように飛び込んで来る人の姿。
「政宗が無事じゃないって聞いたんだけど無事ですかっ!?」
血相を変えて現れたのは、。
切れる息を整える間も惜しんで、佇む小十郎の前に仁王立ち。
真っ向から向けられた顔に浮かぶのは、やはりこの上ない焦燥の色。
無事じゃないってちゃんと分かってるじゃねえか、と密かに突っ込み。
小十郎はまた、少し笑った。
無事逃亡を果たして政宗の元へ帰還。
医療技術の進歩した現代でさえ感染症を完全には防げないのに、
当時の衛生状態じゃなおのこと油断できないよなーと思いました。
戯
2014.6.30
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