龍如得雲 ―雷花 右手と左手―
どこまで行っても変わらない景色に、はやがて足を止めた。
延々と続く黒である。
足元には自分と剣…アラストルを繋ぐ細い鎖。
自分を貫いた剣の前にいるのが耐えられず、
こうして当初の目的だった端を目指してひたすら歩いて来てみたが、結局未だ収穫はない。
かなり長いこと歩いた筈なのに、鎖の長さが限界を迎える様子もない。
伸びている、或いは限界がないのではないか、と思う。
現実感の乏しいこの場所にあるからこそそんな発想が浮かんだし、
そういう事もあるかも知れないとすんなり受け入れる自分がいた。
自分が死んだ、剣に殺されたかも、という考えは納得出来はしないが。
立ち止まったその場所で、は一つ息を吐く。
そしてくるりと踵を返し、今来た道を辿りだす。
延々と黙々と、同じ景色の続く場所を歩くのは、ともすれば不安と恐怖でパニックを起こしかねなかったが、
この時のに限っては、幾ら剣から離れようと何も起こらない事から少しだけ冷静さを取り戻していた。
繋がれてはいるが、そのせいで自分の身に何かが起こるといった事も、今の所は見られない。
ならば一旦現場に戻り、改めて置かれた状況を見てみようと思ったのである。
行くあてもなく、ひたすら端を目指して歩いていたのとは違い、戻るのは早かった。
長く長く伸びた鎖を辿ると、程なくアラストルの姿が見えてきた。
一定の距離を取って歩みを止める。
アラストルととを繋ぐ鎖が、音もなく間合いに応じた長さになっていた。
薄々は感じていた、やはりここは現実ではないいう思いを強くしつつ、鎖を一別した目をアラストルへと向ける。
黒い空間でも鈍く光を反射する剣身は禍々しい印象をもたらすが、
今こうしている分にはアラストルが動き出す様子もない。
心のどこかで抱いていた緊張を少しだけ緩め、はもう一歩分彼我の距離を縮めた。
ちょっと腕を伸ばせば柄に手が届く間合いである。
腰を屈め鍔辺りの高さに下げた目線で、まじまじと剣を観察する。
「どうしたらいいのかな…」
自然、そんな呟きが零れた。
アラストルに貫かれた記憶が甦り、さては死んでしまったのかと一度は呆然とした。
だが、自分の意思はここにある。
考えられるし、動ける。
こんなにもはっきりとした「己」があるのに、死んでしまったとは絶対に思いたくなかった。
現状を打破できる何かが、政宗達の元へ戻れる何かがある筈である、きっと。
アラストルを映す視界の裏でそればかりを考えながら、は柄へと手を伸ばす。
それが不用意な行動だったと気付いたのは、剣に手が触れてから。
気付いた時には既に、は逃げられなくなっていた。
「!…っあぁっ!?」
突如として走る衝撃に、視界が白む。
堪らずあげた苦悶の声は、まるで自分のものとは思えなかった。
言葉にならない痛みを、己の喉が獣のような叫びで訴える。
手のひらが柄を包んだ刹那、青白い雷光がの手に走った。
それが全身に広がるや否や、目も眩む痛みが生じ、はアラストルの雷光に絡め取られてしまっていた。
白い視界に時折雷光が走り、痛みは絶え間なくを襲い捕えて離さない。
意識が、引き摺られる。
これまで遠巻きに眺めていたから何事もなかったのであって、
アラストルはいつでも牙を剥ける状態にあったと、今この時初めて気が付いた。
ひと度が触れようものなら、たちまち捕えて己の側に引きずり込む。
弛んだ警戒心が生んだ結果であり、は意識がアラストルへと取り込まれるような感覚を覚えて、初めて死を意識した。
「っい…や、だ…っ!!」
無意識が、生を求めて悲鳴を上げる。
剣に囚われたのは右手。
痛みで動かす事を忘れていたが、未だ左手の自由は生きている。
無意識はその左手を、囚われの右手へと添えさせた。
左手をも己がものとしようと、アラストルから迸った雷光が、
弾かれた。
の視界を雷光とは別の白が駆け抜けるや、それまで呼吸すらままならぬ激しさで身を苛んでいた痛みが、ふと和らぐ。
押し包み引きずり込もうとしていた力が、アラストルを掴む腕の辺りまで引き、
は苦悶の声を上げるのでままならなかった呼吸を、ここぞとばかりに繰り返した。
息が出来ない苦しさから解放され滲む涙に目を何度か瞬かせた所で、
視界が白一色から常態に戻った事に気付いた。
白から黒に、光景が変わっている。
そして正面に、絶えず雷光を放つアラストルと、その柄を掴む自分の右手。
それを包むように覆う左手から、真っ白な光が放たれているのを見て、はもう一度ぱちりと瞬いた。
手は雷に捕らえられたままで、依然アラストルから引き剥がせない。
しかし手から先へ雷の侵食が進む事はなかった。
不思議な事にアラストルの雷光は、左手から発せられる白い光を越えては来なかったのである。
呼吸も大分落ち着き、安定しつつある視界でその様を凝視する。
雷光に打たれる右手は絶えず痛みが生じるが、左手の光が絶えず痛みを消し続けるようであった。
「これが…癒しの力…?」
せめぎあう白光と雷光を見て、茫然とした声が漏れる。
自分が持っている、癒しの力。
人からその有り様を伝え聞くばかりで、己の目で力の発露を見たのは、実はこれがほとんど初めてであった。
不思議な感覚である。
使おうと思っても意識的に使えた事のない自分の力が、今まさにアラストルに引き込まれんとする自分を救おうとしている。
暖かく柔らかに包み込む癒しの光を目にして、雷撃に惑乱していた心が次第に宥められていく。
事の展開に閉じるのを忘れていた口を、きりと引き締めた。
睨み付けるようにアラストルを見据え、は剥がそうとしても離れなかった右手を、逆に力強く握り込んだ。
一度目を閉じ、呼吸を整える。
雷光のぱりばりと乾いた音が耳と右手を打つのを意識しつつ、は目を見開いた。
「…っえぇい!!」
気勢一つ。
腰を入れ、体全体の筋肉を駆使し、はアラストルを引き抜きにかかった。
恐らく、ここにいる自分は意識だけ、魂のような存在で、アラストルに貫かれた体は別の所にある。
剣に触れて感じた内側から引き摺られるような感覚で、はそう判断した。
そしてその感覚こそが、政宗だけに聞こえた「永遠の服従」という言葉の正体だと思った。
魂を引き摺られる、アラストルに縛られる。
その果てに待つものなど想像だに出来ない。
このままでいれば、いずれはその想像出来ないものを我が身で体験する事になろう。
幸いにも自分が有していた癒しの力が、アラストルの侵食を食い止めてくれているが、それも長くは保つまい。
だったら、と。
力が拮抗している今の内に、アラストルに引きずり込まれるよりも前に。
むしろアラストルを自分の側へ引っこ抜いてやろうというのが、
剣に触れてから現状に至るまでの短い時間で、が導き出した回答であった。
それが正解かどうかなど知った事ではない。
ただ、このままアラストルの思うままにさせて終わる気などさらさらなかった。
私は、戻る。
政宗達の元へ、絶対に。
の意志を感じ取ったか、にわかに雷光が激しさを増す。
今や白光の抑止の隙間から噴き出す程となり、溢れた雷光はなお一層強くを打った。
一撃一撃に気が遠くなる。
それでも失われる前に踏み止まるのは、を支える強い想いがあるからだ。
腰を入れ、全身を使い、渾身の力でアラストルを引く。
まるで根でも生えたかのように重く微動だにしないが、は諦めなかった。
食い縛った歯の隙間から、呻きにも似た声が漏れる。
「従いなさい…アラストル!!」
握り込む力に比例し、左手の白光が強くなる。
ぐらりと、ほんの僅かだけ、剣が傾いだ。