龍如得雲 ―雷花 右手と左手―
昼の明るさも陰り、燭台に灯りを入れる時分になった。
出城でも一部の者を除き、仕事を終え体を休める頃である。
その頃になって、政宗は今再び、の眠る部屋の襖を開いていた。
出先とはいえ、ここは伊達領内に変わりはないので、やらなければならない事は多くある。
それらをこなし、様子を見に部屋に戻ってきた所で、を取り巻く状況に何ら変化が見られない事に、政宗は軽く嘆息した。
無造作な足取りで部屋に入り、眠り続けるの側に腰を下ろす。
その胸元には、昼にはなかった紙切れが置いてある。
文字のようでいて、しかし判読が出来ない墨の線が這ったそれは、小十郎が
破魔札、であるらしい。
小十郎が実家にいた頃、父がたまに書いていたのを見よう見まねで覚えたものを、
相手が「魔」であるならと、物は試しで書いてみたものだという。
果たして魔除けの類いに実際の効力はあるのか。
政宗としてはその点が甚だ疑問であったし、たとえ効力があったとしても、
書いたのはきちんとした修行を受けた訳ではない小十郎である。
現在の状態のみで結論を出すならば、効果はないと言えた。
その札を指先で軽く弾きながら、政宗は独りごちる。
「お前がいつまでも寝てたら、こっちは動きようがねぇんだよ」
出城に連続して起きた奇襲。
今日になってようやく下手人への手がかりになりそうな物が現れたというのに、
それはの胸を貫くや、政宗をはじめとして多くの者の目に映らなくなってしまった。
小十郎に言わせれば、その剣は未だの胸の上にあるそうだが、
見える者が限られる上に触れようとすると稲妻を発して抵抗してくるとくれば、検分もとかく困難である。
まして「見えない」側の人間である政宗は、やれる事の見当がまるでつかない状態であるので、
手持ち無沙汰に眠っている相手に話しかけるぐらいしか出来なかった。
無論、話しかけた所でが反応を返す訳でもない。
久しく覚えの無かった虚しさが胸に満ちてくるのを感じ、政宗は立てた膝に顔を伏せ、やり過ごすように目を閉じた。
「…起きろ、」
起きて、そして聞かせて欲しい。
こうなる前に見せた素振り、あの剣について知っている事を。
いつも命の駆け引きには臆病なお前が、あの時は何故前へと飛び出して来たのか。
こうして眠ったまま目覚めないなどという事態になったら、自分はずっとこの蟠りを抱えていかなくてはならないではないか。
故に、ただ一事、起きろと。
今この時は、目蓋の裏にそれだけを思う。
ふと、ぴりりとした気配が肌を刺す。
にわかに訪れた空気の変化に、伏せた顔をへ向けた。
そして開けた左目に映るものに、政宗は一瞬理解が及ばなかった。
「!何だ…!?」
思わず息を呑む。
横たわるの胸元から、稲妻が静かに溢れ出していた。
一度は瞠目した政宗であったが、すぐに思い出した。
政宗には見えない剣の柄に触れようとした小十郎の手を、拒絶するかのように稲妻が撃った事を。
溢れる稲妻はその時の事を連想させた。
剣に触れようとした者は今はいない。
見えない政宗には触れない。
拒絶する必要のないこの場で、見えない剣は何を拒もうとしている?
呆然とするしかない政宗の前で、平地に水が広がるように溢れていた稲妻が一瞬止む。
刹那の後。
の目が見開かれると同時、つんざくような音を伴い、直前までに層倍する烈しさの稲妻が部屋を満たした。
「っ…新!!」
部屋の至る所を焼く雷撃は政宗をも撃ったが、その痛みに呻く間も得ず、の名を叫ぶ。
それまで固く閉じていたのが嘘のように、限界まで見開かれたの目。
その目は、大きく反った胸からの流れに応じた所に向けられているだけで、何も見てはいない。
政宗の呼び掛けにも応えず、
「…ぁあああああっ!!」
獣の如き声が、その喉を震わせるだけである。
「新!!」
折れそうな程大きくしなった背を、咄嗟に支える。
兆候なく始まった、この回復とも悪化ともつかぬ変化。
尋常ではない事態だと誰にでも分かるのに、ただ呼び掛けるしか出来ない自分をもどかしく思いながら、
何度も何度もの名を呼ぶ。
「しっかりしやがれ、!!」
腕の中に収めたの手が宙を掻く。
何か意志を持って動いているらしい事に気付いた。
稲妻に撃たれながらもその手が向かう先は、己の胸元。
注視する先で、は胸元に辿り着いた手で何かを掴む動作をした。
途端、稲妻が激しく散り、政宗は反射的に顔を背けた。
晒した頬と胸に稲妻を受けながら、無理矢理顔を正面に戻し。
政宗は我が目を疑った。
の手が、剣の柄を握っている。
どういう訳か、がそれに触れた途端、鍔の間際まで深々と剣身を沈ませた剣が姿を現していたのである。
同時に、剣を握る左手が、にわかに白光を放ち始めた。
剣の出現には驚いたが、この光は何度か見覚えがある。
が癒しの力を使う際に発せられるものだ。
「自分を癒そうとしてるのか…?」
否、違う。
口から
光は剣が貫く患部に触れてはいないし、これまでにが自分の為に力を発現した事などなかった。
ならば今、この力は何の目的で発現している?
疑問の目を向ける政宗の前で、の両の手がぶるぶると震えた。
それに呼応するように、左手の白光も強くなる。
「…か…」
焦点の定まらぬ目をしたの口が小さく動いているのを、政宗は見留めた。
絶えず発される獣の如き絶叫と比べたら遥かにか細く頼りない声量であったが、聞き逃さぬよう、その口許へ耳を近づける。
「 まけるか 」
途切れ途切れに聞こえた音の意味を理解し、政宗は瞠目する。
思わず耳を離すと、の顔と、胸を貫いた剣が視界に入る。
そしてそこで再び瞠目した。
ぐらりと、少しだけ剣が傾いだのである。
しかも鍔の間際まで深く刺し貫いた剣身が、じわじわと引き摺り出されていく。
の手の震えは、此し方に意識のないまま自ら剣を引き抜こうとする行動故であった。
引き抜かれかけた事に抵抗を見せるように剣の稲妻が激しさを増す。
政宗の頬を、胸を、の喉を撃ち、稲妻は柄にかかる手に迫り。
手を包む白光に弾かれ、霧散した。
光の粒となった雷花が眼前に散る。
その様を見た政宗の脳裏に、閃くものがあった。
状況から得た推論でしかない。
けれどそれに確証を求めている暇はない。
の息が荒くなり、手の震えも激しくなっている。
時間が、ない。
即断であった。
稲妻の飛び交う中へ躊躇なく手を伸ばし、政宗はの手の上から、剣の柄を掴んだ。
「負けんじゃねぇぞ、!!」
雷撃の音が凄まじい。
その音の中にあってなお負けない程の大喝を放ち、剣を引き抜きにかかった。