Follow the Nightingale










 目を開けてもなお暗い視界を茫洋と眺めながら、は深く息を吸った。
肺を満たす空気の涼やかさに奇妙な安堵を覚え、ほうと吐き出しながら瞬きを一つ。

暗さは夜の闇だった。
クリアになりつつある視界に、星と上弦の月の清かな光が捉えられる。

「…私……?」

確か、巨人の餌食となった筈では。
身を起こそうと腕に力を入れ肘をついた刹那、

「っ…ぐ…ぅ…!?」

腕に痛みを伴う違和感が生じ、浮かせた背を再び地に落とす事となった。
眉をひそめ呻き声を噛み殺し、咄嗟に腕を庇い伸ばした手の平がぬるりと滑る。
ごわごわとした生地の手触りの下から新たに生じるそれが、己の流す血である事は痛みに霞む意識でも解った。

意識が途絶える直前。
巨人の歯列に腕を挟まれ、そのまま奪われんとした痛みと恐怖。
暗くなる視界と体を苛んだ熱を思い出し、はぶるりと身を震わせる。

「……っは…」

衝撃が時間経過と共に和らぎ、詰めていた息を細く吐き出す。
腕の痛みは引かないが、少しぐらいなら動けそうだ。
どうにか腕を庇いつつ身を反転させ、座り込む形で体を起こした。

「……生きてた……」

呼吸を整える間に思わず呟く。
首の廻る範囲を見渡しても景色に覚えはなく、見飽きた壁も夜目には探し出せない。
意識が飛んだ間に現状がまるで理解できなくなっていたが、それでもただ一事。
腕が痛む、傷を押さえる手が滑る。
それらの感覚が伝えてくるのは、未だ己の命がこの場にあるという事。

吐息が震え、熱く唇を掠めていく。
生きている事を、これ程の歓喜と共に感じた事があっただろうか。
一度死の間近まで迫った為に感情の揺らぎは著しく、の目からは吹き零れるように涙が溢れた。

「私…生きてる…!」

嗚咽に胸が詰まり、身を折るようにして息苦しさに耐える。
警戒を解くにはまだ早いと分かっていたが涙は止まらず、視覚がまるで役に立たない。
己の荒い呼吸の合間に、ほたほたと頬を伝い地に落ちる滴の音が聞こえる。

「お取り込み中の所悪いんだけど」

そして不意に湧いた、男の声と金属音。
耳のすぐ近くで聞こえたそれらの音に、は一瞬息を止めた。

「動くな」

反射で振り向きかけた動きを、鋭い声が制止する。
同時に、硬直した首筋に押し当てられた鋭利な感触。
目で確認する事は叶わないが、はそれが刃物であると察した。

「幾つか訊きたい事があるんだけど…答えてくれる?」

続いた言葉は、幾らか語感が柔らかくなっていたものの、否やを言わせぬ圧力は消えていない。
当てられた刃物は微動だにせず、こちらが不用意に動けば相手は迷いなく刃を滑らせる、そんな気配があった。

否、そもそも気配などあっただろうか。
いくら気を失っていても、これだけ至近距離に近づかれて声を聞くまで存在に気付けないとは。
聞き覚えがなく、かつ決して友好的ではない声。
初めは物盗りの類いかと推測していた男の印象が、僅かな時間で得体の知れないものへと変わる。

一拍の間の後、はふと体の力を抜いた。

「おい…?」

重力に従って背から地面に倒れかけたのを見た男から戸惑いの声が上がる。
その拍子に、一瞬首筋から刃が離れた隙を逃さず、は身を翻した。
倒れ込んだ勢いを利用し、後転しざま跳ね起き、背後の男へ蹴りを繰り出す。

「うおっと!?」

逆さになった視界に、慌てたように飛び退る姿が見えた。
夜闇に沈む視界では、その姿をはっきりと捉える事が出来ない。
目測を誤ったか、相手の反射が素晴らしかったのか、どちらにせよ不意討ちが当たらなかった事に舌打ちする。

動いて生じた音から、手放していた剣の位置に当たりをつけ、着地のついでにそれも拾った。
距離を取る為前方へ飛びざま転身し、男と向かい合う。
そして睨み付けるように向けた目で、初めて男の姿を確認した。

「…へ〜ぇ、やるじゃない。手負いの割にはよく動けてる」

微かな月光に透かして見た男は、どうにも妙な格好をしていた。
丈の短いマントの下には見た事のない鎧を着込み、ゆとりのあるズボンの裾を膝から下のみの防具に収めている。
守れているのか分からない防具を着けた顔は、頬と鼻の上を黒っぽい物で汚していた。
住民達にも兵団の中でも、これに似た格好とはお目にかかった事がない。
且つその顔に浮かべた余裕に溢れた笑みと、いきなりの攻撃にも大して動じていない先の言葉。

まともに応対していい相手ではない。
自分の中で下された判断に、胸の内の冷える思いをしながら油断なく剣を構える。
力を込めた途端、腕に負った傷に痛みが走ったが、剣を取り落とす前に堪える事が出来た。
呻く声も歪みかけた表情も寸での所で飲み込み、痛みを押して柄を握り込む。

男がおどけたように肩を竦めた。

「その腕で俺様とやり合おうっての?無茶だと思うなあ。大人しくしててくれたら手当てくらいはしてやれるぜ?」
「…嫌よ。いきなり刃物を向けてくるような人相手に、大人しくした所で何されるか分からないもの」

はは、と男が笑う。

「その警戒心は正しいが賢くないな。…痛い目見る事になるよ」

背中を冷たいものが走り抜ける。
笑みの裏に隠された警戒、敵意。そこにごく自然に溶け込まされた、殺意。

は動揺した。
巨人との対峙下では、意識する暇もないであろう感情。
知覚できる程のそれを感じたのは殆ど初めてに等しかった。

じり、と足が下がる。
向き合っている存在が非常に恐ろしいものに感じられ、締め付けるような息苦しさを覚え喉を喘がせた。

「ん、どうした?…どうする?」

一歩、男が距離を詰める。
ぎりぎりで残されていた対峙する意志が、その瞬間に瓦解し。

は弾けるように剣のトリガーを引いた。

「っ…はぁっ!?」

男の驚愕する声が、ガスの噴射音に紛れ掻き消される。
瞬きの間にその声を背後に置き去りにし、の体が宙へ舞った。

刹那の内に見極めた木にアンカーを打ち込み、弧を描くように空を切る。
体に馴染んだ圧と浮遊感に安堵を覚え、知らず詰めていた息を吐き出した。

得体の知れない恐怖を抱かせる男だった。
あのまま留まって対峙したとしても、うまくあしらえていたかは分からない。

「早く皆の元へ帰らなきゃ…」

早く知った顔の待つ兵団へ帰りたい。
そう願うと共に、男から少しでも距離を取りたい思いから、次にアンカーを打ち込む木を探し目星を付ける。

そしてトリガーを引こうとした指が、滑った。

「……!」

予想していなかった感覚に、一瞬頭が真っ白になる。
はっと目を向けた手先は、二の腕から流れた血で赤く染まっていた。
新たに流れ出したそれが指を滑らせた事に気付いた時には、既に体のバランスを失っている。

呆然としたの目に映るのは、夜陰の中ぐんぐんと近付く一つの建物。

思考が一時停止した中、反射的に受け身の姿勢を取る。
アンカーを打ち込める適所とタイミングは疾うに逃した。
今自分に出来るのは、少しでも落下の衝撃を和らげる事だけ。

体を反転させ、視界が建物から夜空へ変わる。
ぐっと歯を食い縛り、身を丸く固くした直後。

は建物の一角へその身を飛び込ませたのだった。

















2014.9.22
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