Follow the Nightingale
握り込んだ手にざらりとした不快な感触に眉を顰めて、は目を開けた。
飛び込んだ時に壊した物の破片だろう、目の前に持ってきて開いた手はうっすらと汚れていた。
「…っは、」
詰めていた息を吐き出し、そして吸うと、埃も共に入ってきて少しだけ噎せた。
横向きの半身には固い感触。
木の板目の床が、仄かに差し込む月明かりに照らし出されている。
ここは何処なのか。
横たわったまま僅かに視線を巡らす。
大きな音を立ててしまった。
何かの建物のようだが、人がいるとしたら今の物音で確実に気付かれてしまっているだろう。
現状の分かりかねる今、出来ればトラブルを起こすのは避けたい。
ここにいる事を誰かに見つかる前に、一度何処かへ身を潜め落ち着いて考える時間が欲しかった。
埃だらけの手の平を床につけ、起き上がるべく力を込める。
もし付近に人がいても、位置だけは把握されないように、動く際には極力ゆっくり音を立てず。
「だ…大事ないか?」
ようやく頭を擡げた所で遠慮がちに問うてくる声を聞き、はぎくりとして固まった。
固まったまま、素早く目を走らせる。
自分が破壊して見通しのよくなったそこには人の姿はない。
何者かが駆け付けた様子はないのに何故、と思ってから、即座にその考えを否定した。
人が来たのではない。
元々人がいた場所へ、が飛び込んでしまったのだ。
己の事にかかりきりで疎かになっていた意識を周囲へ向ければ、間近に人の息遣いがあった。
すぐ傍に人がいる事にも気付かず、見つかる前に何処かへ隠れようと考えていたなんて、間抜けにも程があるではないか。
想像外の事態に思考能力を奪われた状態で、は声に誘われるように顔を上げた。
のろのろと見上げた先に、間違いようもなくいる、人。
夜目には見えづらいが、恐らく年若い男だ。
こちらに向けられる目は真っ直ぐと、探るように見返してくる。
どういう反応を返したものか分からず黙ったまま凝視していると、男が続けて言葉を発した。
「随分と派手に戸を突き破って現れたな…寝しなのこと故驚かされたが、よもやこの首討ちに来たか?」
「…首?」
「俺の命を狙って来たのか、という事だ」
「!?ちがっ…!」
は驚愕した。
手元が狂って飛び込んでしまっただけなのに、何故暗殺者紛いの疑いをかけられなければならないのか。
言われた意味を図りかね反応が遅れてしまったが、疑いは晴らさなければと思い、慌ててがばりと身を起こす。
と、ぐらりと視界が揺れた。
何だ、と思う間に支えにした腕の力が抜け体が横倒しになる。
再び出会った床の固さに呆然としながら起き上がろうと試みたものの、ぐらぐらと頭が揺れて上手くバランスが保てない。
「あ、れ…?」
「…頭でも打ったか?無理に動かない方が良い」
「平、気…ごめんなさい、すぐ出て行きますから…」
人が集まる前に場を離れたいのに、自由の利かない体がそれを許さない。
腕で体を支えようとしては倒れ、頭を持ち上げては目眩で地に落ちる。
そんな事を繰り返している内に、
「無理をするなと言っているのだ!」
抵抗する間もなく、一喝と共に仰向けに転がされた。
肩口に置かれた手を反射的に振り払おうとして、逆に強く押さえ付けられる。
大人しくさせようとしての事だろうが、その力が腕の傷に響き小さく呻き声を上げると、男は慌てたように、
「すまぬ」
と言い、少しだけ力を弱めた。
但し手を離してはくれない。
動くなという言葉を聞く気のないを解放する気はないのだろう。
目眩と傷口の痛みに襲われる中、少し怒ったような声が降ってきた。
「真田に仇為す者でなければよい。傷の手当てをさせよう。ここを去るならその後にせよ」
「本当に…大丈夫ですから、人は…」
「騒がれたくないのは様子を見ていれば判る。心配するな、騒ぎにはせぬ。…佐助!」
こちらの言葉を最後まで聞かず、何処かへ向かって鋭く呼び掛ける。
騒ぎにはしないと言いながら、誰を呼ぼうというのだろうか。
男の意図する所が分からずに、朦朧とする頭でその答えとする所を待つ。
反応はすぐにあった。
「はいはいっと、呼んだ?悪いけど旦那、俺様今取り込み中で…って」
呼び掛けに応じるように、別の男の声が現れた。
どこか聞き覚えのある声。
朦朧とする頭に言い得ぬ不安が過り、は懸命に目を凝らす。
自分が打ち壊した一角、清かな星空を背景に姿を見せた者、その出で立ち。
つい今し方、不意をついて逃げ出してきた筈の、あの得体の知れない男がそこに立っていた。
呆気に取られた双方の眼差しが、一時かち合う。
それを認識した瞬間、は全身の筋肉を躍動させた。
押さえ込む手を振り払おうと自由の利かない体で藻掻く。
そして再びの強い力で軽々と押さえ付けられ、また呻き声をあげる羽目になってしまうのだった。
「無理をするなと何度言えば分かるっ!」
「離してっ…!」
「ならぬ!佐助、この者を手当てせよ。出来るだけ人に知られぬようにだ」
「…えー…本気?俺様の取り込み中の内容、まさにその手の下にいる人なんだけど」
「そうだったのか?ならば脇に除けておけ、今は俺を優先させよ」
「え〜?」
暴れるを意にも介さず、会話は頭上を行き来する。
この二人が知り合いであるならば、自分はこんな所で時間を食っている訳にはいかない。
いつまでも拘束されたままでいては、何をされるか分かったものではないからだ。
会話に気を取られて、少しでも隙が生じ力が緩んでくれれば、とがむしゃらに藻掻く。
「ったく…しょうがないなぁ」
不意に肩口を押さえる力が失せ、腕が自由を取り戻した。
勢い余って手を振り上げてしまったが、同時にしめた、と思う。
今この時ばかりは傷の痛みも目眩もぐっと堪え、横へ転がって場から退避する。
視界がぐるりと回転する内に、一瞬二人の男から目が離れた。
再び捕まえるにも人を呼ぶにも、僅かなタイムラグが生じるだけの距離は取った。
取った筈だった。
「逃がさないぜ?」
背中が何かにぶつかって動作が止まる。
何故か背後から声が聞こえてきて、ぐっと手首を掴まれる。
はっとして目を上げたそこには、
「取って食う訳じゃないんだ、ちょいとじっとしててくれよ」
一瞬の隙を突いての腹に馬乗りになる、得体の知れないあの男。
顔を覗き込んできた男の目が宿す妖しげな光に、声を上げる間もなかった。
口を開くよりも早く手が伸ばされ、視界を覆う。
知覚できたのは、僅かな月の明かりをも閉ざされた暗さ。
これから男が何をするか、自分が何をされるのか、想像のつかない恐ろしさに速く強くなる鼓動。
そこまでだった。
その後は、思考能力がまるで黒く塗り潰されたような感覚。
は恐怖すらも忘れ、意識は闇に囚われた。