鴻飛天翔 こうひてんしょう 最終話
目の前に立ちはだかる己の担当分……奇襲軍最後の一人を斬り伏せる。
ずしゃりと、耳に障る重い音を立てて崩れ落ちたその姿を眺めながら、誰にも気付かれない小さな溜息を一つ吐く。
支障はないものの、体の筋肉が必要以上に強張っていた。
刀の柄に絡めた指さえ外すのが困難な程に。
その強張りを解こうと吐いた息だったが、どうやらあまり効果はないようだ。
どうしたものか、と思う。
頭は疾うに戦線から離脱しているというのに、体の方がそれを認めてくれない。
少し困ってその場に佇み考えるの頭に、ふと軽い衝撃が一つ。
「随分頑張ったんじゃない?折角白かった着物が台無しだ」
自分よりも大きな手が、頭の上に乗せられていた。
その手と共に頭上から降った声を振り仰ぐ。
もう二度と見られないと覚悟していたものが、そこにあった。
佐助の開いた眼と、笑む顔。
「着物の一着ぐらい……どうにでもなる」
元気……ではないのだろう。顔色が青白い。
それでも、ここにいてこうして笑いかけてくれることが、を何よりも安心させた。
途端、強張っていた体の力が抜ける。
体を支える筋肉が弛緩して立っていられなくなり、つい佐助の服を掴んで体の支えとした。
不慮の行動ではあったが、その己の行動が、より現実感を伴って佐助の存在を実感させる。
「生きててくれて……良かった」
目の前に立っている事が、を安心と堪らない喜びで満たした。
言葉にならぬ思いに胸を詰まらせ何も言えずにいると、背に手が回される。
生きている、実感。
「私は、人を斬るのが怖い」
「あらら、ようやく自覚出来た?」
「……あぁ。怖いから、目を逸らす為に、奪ってきた命からも目を逸らしてきたんだ」
「………そ。俺が身を以て教えたこと、無駄にはならなかったんだ?」
頭上から問われ、頷く。
己の凶刀が佐助の身を刺し貫いた時、そこで初めて人の死を拒む自分に気付いた。
相手が佐助だったからこそ、拒む思いが、頑な心でも自覚出来る程に強く出たのだ。
自分にとって彼は、他とは一線を画した特別な存在だと気付いたのもその時。
目も眩む深い奈落の底に落ち込むような絶望が広がった。
恐慌に陥ったが為に向けてしまった刃で、特別だと気付いた途端に失ってしまったら。
既に免れた『もしも』を思うと未だに怖い。
だから今、佐助と視線が交わる事が嬉しかった。
沸き上がる想いのまま、佐助の胸に縋る。
その時、佐助の体が傾いだ。
何事かと理解が及ぶ間もなく、傾いだ体はの方に向かって倒れ来る。
慌てて支えようとして受け止めたが、いかんせん力が抜けてしまった状態の上に体格差。
数秒も持ち堪えられず、共々地面へと崩れ落ちた。
「ど……どうした、佐助!?」
「あー……何か、貧血っぽい………目の前が真っ暗だし気持ち悪い……」
「馬鹿か……!!大怪我から目を覚ましてすぐにこんな走り回ったりしたら当然だろうが!!」
佐助の状態に、火を吐くような声音で怒る。
顔が見えないながらも、どんな表情をして怒っているのか容易に想像出来てしまって、つい佐助は苦笑する。
きっと呆れを装いながらも、その奥にひどく心配した色を潜めている。
嬉しい時も、表面上は仕方の無さそうな体を装っていたから。
と向かい合った格好で己の体を預けたまま、そっと彼女の背に手を回し抱き締める。
「を助けたかったんだから、仕方ないでしょ?こんな所で死なれたら、言いたかった事も言えなくなる」
「……言いたい事?」
助けたかったと素直に口にすれば、怒りの気配は急速に静まり、代わりに声に戸惑いが生じる。
言いたい事、それは何だと、俄に変わった声の調子が尋ねてくる。
佐助は答えなかった。
代わりに、抱き締めた体を更に引き寄せて、に触れた己の顔を押しつける。
びくりと、腕の中で体が跳ねた。
「うーん……どんぴしゃの位置なんだけどなぁ……」
「……佐助……何してんの………?」
「いや、体勢も体勢だし?折角の機会だから、堪能しとこうかなぁと」
「体勢………!?」
言い指せば、一瞬にして状況を理解したようだ。
傾いだ体を支え損ねたせいで、は半ば押し倒されたような形。
尻餅をついた拍子に、佐助の体はの足の間へ。
上手い事に、の胸の辺りに頭。
そこに顔を押しつけているのだと、理解が及んだらしい事を気配で知る。
にっと悪びれず、佐助は笑った。
「結構あるのに、潰しちゃうなんて勿体ないよー?」
「……!!病人は病人らしく大人しくしてろこの佐助平!!!」
殴った。
胸元に埋められた頭を。
すぱーんと、素晴らしく小気味よい音で。
病人じゃなくて怪我人なんだけどなぁ。
叩かれた頭の痛みを意識しながら、佐助は内心で見当違いな揚げ足を取るのだった。
「此度の件、に罰は与えぬ」
夜、簡易的に張られた陣内で、は信玄に呼び出され。
告げられた物に、少なからぬ困惑を覚えるのだった。
「……どういう事だと思う?」
「命を狙ったのに、咎めを受けなかった、ねぇ……」
信玄の下を辞したは、佐助を訪ねていた。
当面は幸村らに危険はないだろうという事で、重傷の佐助は傷の具合が落ち着くまで本来の職務を外されていた。
これは忍隊の他の者からの勧めであったし、幸村からの主命でもあった。
忍の仕事を外されて、手持ち無沙汰に褥に座り込んで。
武器の手入れでもしようかと思った所に、が訪れた。
「何故なのかとお訊きしても、私にはそれが一番の罰になるのだと言ってそれ以上教えてくれようとしない。罰を与えない事が、どうして罰になるんだ?」
罰されないならせめて武田を去ると申し出もしたが、すげなく却下された。
獄に繋ぐでもなく、殆ど自由の身にしながら罰しもせず、武田を去る事さえ許されない。
主君の首を狙うなどという大罪を犯した者を、何事もなかったかのように傍に置く処遇。
一体お館様はどのようなお考えでいらっしゃるのか。
当惑しきった面持ちで、の真っ直ぐとした視線が佐助に注がれる。
自分には分からなくとも、佐助になら分かるだろう。
ある種偏った、信頼めいた眼差しを向けられて、佐助は困ったように笑う。
「まぁ、何となく想像はつくけど……」
が視線に込めた期待はおおよそ当たっていた。
佐助は、どういう意図で信玄がその決断を下したのか、大凡の見当をつけている。
にとっては、恐らく最も重い罰を与えたのだ。
忠に篤く、義を貫かんとする気質を持つ。
主君に刀を向けたなら、命を以てしても償えぬとさえ思っている事だろう。
そこで咎め無しと言い渡されたなら。
己がどれ程の事をしたのか分かっているから、償えぬ事に堪らない苦しさを覚えるだろう。
今彼女の表情を彩る表情からもそれは窺える。
その苦しみこそが、信玄が彼女に与えた罰なのだ。
の内に宿る忠義の心を苛む、ある種最も重い罰。
罪は償わねばならぬという意識が根底に有る為、武田から離れる訳にも行かない。
贖罪を信玄が、罪から逃げ出す事を己自身が許さず、罰されない罰に延々と苦しむ事になる。
「何で?」
興味深そうに身を乗り出して、下から覗き込み尋ねてくる。
彼女にとって最も重い罪を科したのは、一方で信玄が私情を挟んだ結果であるかも知れない。
そこにあるのはつまり、死なせたくないという思い。
罪を犯した子を持つ親が、それでも子を見捨てず罪を償えるまで見守るような。
と語らう時の信玄の様子を思い出し、推し量る。
彼女は、既に代えようのない存在として、信玄の中にしっかりと根付いているのだ。
ただし推測した所でその考えを口にする気はない。
代わりに、こちらを覗き込んでくるの腕を取り、引く。
引かれたその腕で体重を支えていた為、腕を引かれたは体勢を崩した。
倒れ込んだ先は、佐助の腕の中。
「……佐助?」
「ま、俺が教える必要もないでしょ。その内自分で気付く時が来るだろうし。……今は、それで良くない?」
してやったりとばかりに笑ってみせれば、腕の中から見上げてくるきょとんとした顔。
に触れている場所が暖かい。
柔らかな温もりは、互いに生きている証であり、その心地よさについ包む腕の力を強くする。
また例の如く、顔を真っ赤にして慌て出すのだろうか。
少しばかり期待しながら、その細い肩口に頭を乗せる。
ぴくりと身を竦ませるのが分かった。
だが、期待は裏切られる。
少し過度に触れあえば、途端に我を失った慌て振りを見せるあの声がない。
反応の薄さ。
妙に思い、の様子を窺おうとした時。
背にの手が回され、力が込められる。
なお縮まった距離と増えた触れる面積に、思わず瞠目する。
「……?」
「……何?」
「やけに積極的……や、それはそれで嬉しいんだけど」
「……私だって………嬉しい」
「……………何が?」
「全部。佐助が生きてること……こうしてくれてること……自分でこれを失おうとしたのに、全てがまだここにある事が、嬉しい」
おずおずと躊躇いがちに、だがしっかりと背に添えられたの手。
間近で聞かされる言葉もひどく落ち着いていて、これがあのなのかと疑いたくなる程。
しかし、そこにいるのは確かにで。
その言葉や態度が嘘ではない事は、横目で窺える朱の散る顔が証明していた。
いつものように紅潮する頬と、いつもとは違う対応の仕方。
双方の矛盾は何によって生まれたのか。
「……何か心境の変化でもあった?」
「いや……変わってない。確信出来ただけ」
「確信?」
「佐助に対する『大切』が何なのか」
信玄に問われたもの。
信玄に対する家族にも似た『大切』でも、幸村に抱く友としての『大切』でもなく。
失いかけて俄に自覚した、佐助に対する『大切』の在処。
「佐助が、好き」
告げられた言葉は単純で短く、だからこそよく耳を打った。
それは願ってもみなかった言葉。
そして出来れば言って欲しくなかった言葉。
凝然と静止したかと思うとがっくり項垂れ、力なく身を凭れてくる佐助に、は首を傾げる。
ひょっとして、自分の言葉は迷惑だったのだろうか。
言ってしまった後でそんな不安に襲われる。
戸惑いがちに問い質すも、返るのは否定の言葉だけ。
では一体どうしたのかと問おうとして………何も言えなくなった。
佐助が不意に顔を上げ、真正面から見つめてきたからだ。
眼差しがあまりに真摯で、雰囲気に呑まれてしまったのか身動き一つ出来ない。
その双眸が……顔が、至近距離にある事にさえ。
唇に温かいものが掠めるように触れるまで、気付けなかった。
「嫌じゃないの。寧ろ嬉しい。でもそういう台詞は、俺に言わせるべきでしょ。じゃないと俺の立つ瀬がないわ」
「……今………何を………!?」
「告白は取られたので、こっちは先に戴きました、っと」
満足げに笑いながら、たった今触れたばかりの唇を親指の腹でなぞる。
その、触れる感触に。
事態が飲み込めずにいたに、事の次第を悟らせる。
途端、それまでとは比にならない位の朱が散る。
触れあったのは、唇。
その事に気付いたは、佐助の腕の中に撃沈した。
相見えし者曰く
戦場に於いて其の者の姿甚だ希有なり
将に非ず 然れども兵にも非ず
国を定めずして戦場に現ること如何な由有りや
曰く
其の者の過ぎし後に骸数多生ず
是人の死せるを求めしか
「後にも先にも、生きててこうまで嬉しいと思う相手、佐助以外はいないだろうな………」
朱の散る頬を埋めたまま、それでも穏やかな微笑を湛え、呟く。
その声が、佐助の耳を打ち。
思わず、小さな体を強く掻き抱いていた。
「ぐっ……苦しい佐助…………っ!?」
「いやぁ、相思相愛だと、そんな言葉も格別だわ!」
「相っ………!!?」
互いに想い合うこの関係を、信玄は読んでいたのではないか。
罪人の肩書きを持ったままでは思うように行動出来まい。
こうなる事を見越し、の犯した過ちを伏せていたとしたら。
想う者と自由に過ごせる生活を用意したのだとしたら。
武田信玄、やはり侮れない。
立ち直りかけた所に追い打ちを喰らわされ、再び沈んだを腕に収め、佐助はつらつらと考える。
死を呼び導く鳥
彼岸に導くを已め
此岸に引き留む事を求め飛ぶと誓いたり。
「そう言えば、薬を飲めって言われてるんだけど」
「……腹の……傷のか。飲めるのか?」
「……飲めないって言ったら?」
含みを持たせて覗き込む、佐助の目。
そのやり取りが示す所。
脳裏に過去の会話が去来する。
「……『口移ししてあげようか』?……これを狙って切り出したな」
「ご名答。」
満足げな様子の佐助に、小さく溜息を吐く。
全く、この忍ばない忍は。
けれど嫌ではない辺り、惚れた弱みなのだろう。
そうこうしている内に、顎に手を添えられ、上向かされる。
楽しそうな佐助と視線がかちあい、目を閉じる。
死を呼び導く鳥の姿
蒼天の彼方へ
たちまちに失せにけり。
合わさった唇からは、薬の味はしなかった。
了
終わりましたぞお館様。終わらせましたぞお館様ぁぁっ!!
長い長い『鴻飛天翔』、無事終了を迎えるにあいなりました。
甘い要素はなく、ようやくそれらしい表現が出てきたと思った途端に終了。
石を投げられそうだ。でも満足!
最後の最後で佐助が助平くさい。
思い返しながら後書くのとか苦手なので、一言残して終わりにさせて頂きます。
ここまでお付き合い下さりありがとうございました!
そして拙文で申し訳ございません………!!!精進します!
戯
2006.7.2
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