鴻飛天翔 こうひてんしょう 第二十九話
その数、武田軍の約半数。
奇襲せんと進行する残党には、同じく奇襲を以て叩けば少数精鋭でも十分に勝機はあった。
だが『少数精鋭』と『一人』は違う。
が腕の立つ事は知っていた。
それでも、相手に出来る数には限界がある。
たった一人で叩くには、武田軍の半数という数はあまりに無謀だった。
仮に、一人で迎え撃つことで贖罪となそうとしているなら。
それは己の死を前提としているのではないかと。
事の次第を把握した佐助は、そんな言い知れぬ不安に襲われた。
「ったく……罪滅ぼしの仕方まで漢前、ってか……?」
じっと耳を澄ませてようやく聞き取れる程度に、微かに届く剣戟の音に内心焦りが募る。
意識しなければ気付けなかったこの音は、一体いつから聞こえていたのか。
間に合わなかった場合の状況を頭から振り払いながら、佐助は手負いの己が出せる限界の速度で走っていた。
その遙か後方からは、本来出撃する筈だった精鋭達が疾駆してきている。
腹の傷が痛み、鈍った体は思うように動いてくれず、歯痒さに舌を打つ。
この体のせいで間に合わなかったら。
『もしも』の状況が頭を去来する度、絶対に間に合わせると己に言い聞かせ、それを振り払った。
それが出来なければ、自分は何の為にこうして走っているのか。
「俺が行くまで踏ん張ってなかったら……許さねぇからな………!!」
その時、鳥の凄絶なる啼き声が、迫り来る闇を切り裂いて佐助の耳を貫いた。
それはひどく聞き慣れた声の、今までに聞いたことのないような声だった。
髪を束ねていた紐が切れ、ばらばらと落ち顔にかかった。
荒い呼吸が口を突いて出る。
鼓動が早鐘のように鳴っている。
耳元で血流を聞く感覚を味わいながら、はともすれば落としそうになる刀の柄を握り直した。
袖先が佐助の血で染まっていた着物は、今や前身頃は白地が見えぬ程の血に染まっていた。
血を反射的に避けようとする己の体を敢えてその場に踏み止まらせ、斬る度降りかかる血を浴びた為だ。
返り血を受けることは命を奪うという行為を逃げずに受け入れる事。
今まで目を背けていた、命が抜け落ちる瞬間に目を向ける事だった。
生地に浸透し、肌にまで感じる血の感触。
自分に斬られた者達の叫びが直接内側に響くようだ。
腕が今までにない程震えている。
体が『命』を知り、これまでになく激しい反応を見せていた。
人を斬り、戦慄いている自分に、何故かほっとした。
本当の心が戻ってきたような心地がした。
しかし今は、それに浸っている暇はない。
「くそ……後どれだけいるんだ………!?」
木を背にすることで背後を守りながら、は毒突く。
いくら斬っても、いくら骸を増やしても、終わりが見えることは無かった。
周囲に味方がいる訳でもなく、刀の一振りで倒れるのは一人ずつ。
まだ全体の五分の一も斬っていないのに、既にの体力は限界に近付いていた。
これまでは目の前に立ちはだかる者に刀を向けてきたが、今回の対象は奇襲軍全体。
一人も抜かせぬよういつも以上の範囲を駆け回っている。
普段よりも体力の消耗が激しい所に、精神的な消耗も重なり、焦る心に追い打ちがかかる。
敵を殲滅するまで、まだまだだというのに。
どうする ?
眼前の敵を睨み据えながら、自問する。
ひゅ、と空気を裂く音がした。
視界の端に動く物の存在を捉え、咄嗟に片手を柄から離して顔の前に掲げる。
その腕に、小さな衝撃。
視界を真下に落下していくそれは、飛礫だった。
どこから飛んできたのか。
そんな事を考えた、一瞬の隙。
手のひらに、腕に飛礫を受けた時以上の強い衝撃が走る。
刹那、手の甲が背後の木に叩き付けられた。
一瞬、何が起こったのか分からなくなる。
直後手のひらに生じる、灼熱のような痛み。
「ぐっ…………っぁぁああっ!!?」
耐えきれなかった絶叫が、の口から迸った。
手のひらには苦無が突き立ち、背を守る壁としていた木に縫い止めている。
苦無の刺さった箇所からみるみる血が溢れだし、の手首から肘へ赤く濡らしていく。
痛苦で霞む己の視界に活を入れ目を凝らすと、周囲を素早く見渡す。
敵兵らの背後、離れた樹上に、忍の姿。
今まで全く気付いていなかったその存在に、内心舌を打つ。
少しでも手を動かそうものなら、途端に引き裂かれるが如き痛みが走る。
苦無を引き抜こうにも、敵を威嚇し身を守る術でもある刀の切っ先を逸らす訳にも行かない。
片手を縫い止められ、しかしそこから脱出することすらままならぬ現状。
不利な形勢にあって敵を近づけさせる訳にも行かず、は痛みに耐えながら、眼前に広がる敵兵らを鋭く睨め付ける。
敵の軍勢の中から一人、少し出で立ちの異なった者が歩み出てきた。
「よくもここまで我が軍を斬ってくれたものだ……」
「……あんたの軍なのか。もう一度鍛え直した方が良いんじゃない?武田を相手にするには弱すぎる」
「口の減らぬ餓鬼め。貴様、武田から差し向けられたか」
「いいや、何処からも。私は私の意志であんた達に刀を向けた。そこには他の誰の意志もない」
「白を切る……か。それでも構わぬが、それは我の機嫌を損ねる。止めた方が良い」
口振りからして、この奇襲軍を束ねている者らしい。
彼の中で、が武田から差し向けられたという判断は既に確実なものとなっているのだろう。
ならば問う必要もないだろうにと思いつつ、は周囲の様子を注意深く観察した。
奇襲軍の動きが止まっている。
頭目が止まっているからであり、自分たちを翻弄した相手が今まさに自由を封じられているからだ。
刀を握っていても最早為す術のない敵の姿は、彼らの嗜虐心を煽るだろう。
つまりは、今の自分。
見つけた
ただ敵を斬り屠るだけでは為し得なかった、敵を食い止める方法。
思い至った瞬間、脳裏に佐助の姿が過ぎるのを、は静かに打ち消す。
先とは違うのだ。
今彼を思うことは、定めかけた覚悟が揺らぐことになる。
今思うべきは、贖罪のみ。
「尤も、必要のない苦痛を味わいたいのなら別だが?」
「………好きにすればいい。」
「……何?」
「斬り刻むなり嬲るなり、気の済むようにしろと言ったんだ」
言い様、それまで構えていた刀を、手の届かぬ所にまで投げ捨てる。
そんな行動に出るとは思ってもみなかったのだろう、奇襲軍の面々が揃って目を丸くしている。
何か裏があるのかと勘繰る目が向けられるのを、は黙って受け入れる。
彼らよりも弱者と成り下がり格好の獲物となった自分に注意を引きつければ、引きつけた分だけその進行は止まる。
殲滅は無理だと悟った今、ならば出来るだけ武田軍より遠ざけておき、後はやがて来るだろう武田の精鋭に任せるのだ。
精鋭が到着するまでの間に、自分は物言わぬ骸へ化しめられ、或いは自ら喉を掻き切る。
ぼろぼろになって生きていくなど御免であったし、綺麗な死に方をしないことが己へ科した罰になることを願って。
敵意を、物のように扱われる事への恐怖さえ押し殺した目を、敵の頭目に向ける。
その時の目は、佐助や幸村に洞のようだと感じさせたものとまるで同じだった。
だがそれを同一と判断出来る者はなく、ただそれを至近距離で目にした頭目が、魅入られたように唾を嚥下した。
近付いてくる様を、はじっと見つめる。
頭目の一方の手が顎にかけられた。
持ち上げられた先にある、嗜虐に満ちた顔との近さに嫌悪を感じるも、静かに相手を見据える。
「……本当に抵抗する気はないようだな……」
突如、空いていたもう一方の手がの着物の合わせ目にかかり、一息に剥いた。
乱暴な動作と外気に触れるさらし巻きの肌。
思わず息を飲む。
か細くもはっきりとした音が、ふと耳に届いた。
はっとして音のした地面の方を見やれば、そこに転がっていたのは簪。
襟を剥かれた衝撃で懐からこぼれ落ちた簪。
戦中にも常に懐に忍ばせ共に在った、佐助からの贈り物。
「ほう?貴様、女だったか。よく身を投げ出そうなどと思ったものだ……」
「………元々捨て置いてきた命だ。辿る道が変わった所で悔いはない」
眼差しは簪に留めたまま、静かに言う。
再び過ぎる佐助の姿。
今度は打ち消さなかった。
陰世へ向かう旅路の供として、その姿を簪に重ね、目を閉じる。
佐助は 目を覚ましただろうか
佐助を想う心が彼を連れて行こうとしないよう願いながら、は目を閉じる。
男の気配が近付いた。
「その捨てた命、俺が拾った。だから勝手に死のうとしちゃいけないぜ」
視界の闇を抜けて、突如として耳を打った声に、閉じていた目を反射的に見開く。
刹那、顎にかけられていた敵の頭の手が弾かれたような衝撃を以て離れる。
胸元に何かがぶつかる衝撃があった。
視線を下げると、地面にそれまで顎に触れていた手首から先が転がっていた。
切り口から血の迸る手首の横に、簪が綺麗なまま並んでいる。
そしてそのすぐ傍……の眼前に、何者かの足が見えた。
敵の頭目のものではない。
爪先はと同じく前方を向いていた。
辿るように視線を上げていく。
やがて映り込むのは、見慣れた着物の柄。
珍しいながらも見慣れた、明るい髪の色。
佐助が、そこに立っていた。
「……佐助…………?」
「あーあ、こんな事されちゃって……。忍じゃないんだから、そんな風に体張らなくて良いの!」
振り向くと同時に笑いかけ、佐助の手がの手から慎重に苦無を抜き取る。
途端に、急な出来事に忘れかけていた痛みが蘇る。
その痛みで、半ば信じ切れずにいた目の前の状況が現実なのだと信じることが出来た。
今、確かに佐助がいる。
思い描いた末に見る幻などではなく、実際に。
胸の内で、言葉にならぬ強い想いが爆ぜた。
こうして笑いかけて貰える事などもう無いと諦めていたのに。
音に出来ぬ、沸き上がるような感情をどうにか伝えようと、ようよう佐助の纏う布の裾を握る。
激しい内面についていけず、呆然と佐助を見上げるしか出来ない。
ふと、佐助の顔に苦笑が宿った。
次いで伸ばされた腕は、剥かれたままの襟を整える。
目のやり場に困るでしょ、と軽い調子で言いながら、佐助はくしゃりとの頭を撫でた。
「さぁて……あんたら、覚悟は出来てんだろうな?もうすぐ到着するぜ」
何が到着するのか、と兵らの顔に訝しげな表情が浮かぶ。
ざわめく音の合間を縫って、遠くの方から何かの音が聞こえてきた。
それは、馬蹄の轟く音。
兵らと一緒になって、も目をやった先。
馬に乗り馳せ寄せる幸村を戦闘に、数名の騎兵が現れていた。
俄に奇襲軍の間に恐慌が走るのを、どこか他人事のような思いで眺める。
ふと、佐助の向こうに敵頭目の事切れた姿を見つけた。
首に苦無が突き立っている。
思い返せば、叫び声の類が聞こえなかったことを思い出す。
初めに佐助が現れた時に絶命させられていたのだろう。
唐突な指揮官の絶命に呆然としていた所に、攻め寄せてきた武田の兵。
統率を失い恐慌に陥った軍勢を叩くのは容易い。
「んじゃ、俺も行って来ますか」
軍の只中に躍り込んだ幸村らに応じるように、佐助も手に武器を構える。
駆け出す前に今一度の頭を撫でてから、その足を混乱の極みの中に進ませた。
呆然と、その背を見送っていた。
逃げ惑い、恐慌に駆られている為抵抗する術も稚拙なまま、次々と倒れていく兵らを眺める。
ふと我に返り、先程投げ捨てた刀を拾いに走った。
得物を取り戻したの目には、屹然とした光が宿る。
その眼差しのまま、乱戦状態の中に我もと身を躍り込ませる。
敵に向かう頭数が増えた事で、殲滅はより容易となった。
やがて戦いの気配は急速に静まっていった。
2006.6.25
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