行って来る        佐助。





 暑くもなく寒くもなく、ただひたすらに暗く、音も痛みもない無の空間。
思考さえも闇に溶け崩れ、大海にたゆたう木片の如く、そこにただ在った。


そこにふと生じる、空気の振動を介さずに伝わってくる物。


闇が反応しざわめき、木片の意識を呼び覚ます。





佐助は静かに、憂き世までの路を辿った。










   鴻飛天翔 こうひてんしょう  第二十八話










「守られたことなんて無かったんだな………」





 明智の家に偶然にも拾われ、光秀の小姓になってから。
親元から離れて以来、誰かに守られたという記憶は、考えても浮かんでは来なかった。


所詮は身無し児。
光秀の嗜好の格好の標的にされていても、他の誰に害が及ぶ訳でもない。
周囲の人間は誰一人として止めさせようとはしてくれなかった。


光秀の手の上で転がされ、傍を離れ戦場に出れば、己を守るのは己のみ。
結局誰の手にも守られぬまま、自分で守る為に心を逆転させ今日まで生きてきて。








だからこそ先日、あれ程までに安堵したのだ。


触れた手の温かさ、守られている認識。








「守ってくれたのは、…………佐助だ」





佐助の眠りを守っていた、出会って間もなくの自分。
自分の眠りを守ってくれた、先日の佐助。


前者の自分を後者の佐助に投影することで初めて気付いた。


両者の立場が同じなら、横たわる自分の傍にいてくれた佐助は、自分を守ってくれていたのだと。





理解が及んだ瞬間、喩えようもない安堵が胸を満たした。
その時、逆転させ固定していた心を緩めてしまった事が、後に佐助に刀を振るうまで恐慌に陥ってしまった原因だろうか。


生温かい血が手の表面を伝う感覚を思い出すと、今でも激しい後悔の念に襲われる。
けれどそれでも、精神は不思議な程に落ち着いていた。





「佐助が教えてくれた物と向き合うよ…………それで贖罪になるかな」





ここは山道からやや外れた所。
ここで待っていれば、武田軍を襲わんとする奇襲軍とぶつかる筈だ。








果たして、生きて帰れるだろうか。








唐突に頭を去来した自問に、生きて帰りたいという切望が一時胸を過ぎり、すぐさまは小さく頭を振った。


小規模とは言え、一つの軍にたった一人で立ち向かうのだ。
しかも今までのように斬りたいだけ斬るのではなく、殲滅を第一として戦う。
最後の一人が倒れるまで斬り、なおかつ武田の精鋭が到着する前に全てを終わらせねばならぬ状況は精神的にも相当な負荷となる。


手にするのは馴染まぬ一振りの刀。


状況を分析してみて、弾き出された答えは劣勢の二文字。
望む望まぬに関わらず、とてもではないが生きて武田に帰れるとは思わなかった。


尤も、ここに至るまでに死を享受する心構えは出来ていた。


後は出来得る以上に迅速に、命尽きるまで戦い続ければ良い。


死すら受け入れた揺るぎない決意………贖罪の意志。
その最中に於いてただ一つ、心残りなのは。





「私が気付いた事………伝えたかったな」





脳裏を佐助の顔が横切る。
ただそれだけで、非常に心強い物を与えられた心地がした。





     武田の為という目的以前に  私は





「佐助……私はお前の為に、今刀を握るんだ」








そこには、本当の心を見失い、洞のような目をしていた娘はいなかった。


心に気付いた娘の眼差しには毅然とした光が宿る。


己が怯える物にさえ敢然として立ち向かい、受け入れる決意をしたが、そこにいた。










折しも手に手に得物を携え鎧に身を包んだ一団がの眼前に現れる。


馬に乗った指揮官らしき者が、山中に一人佇む『少年』の姿を見咎めて声をかけた。





「おいお前、何者だ?こんな所で何をしている」

「名乗る必要もないただの咎人さ。待っていた……あんたらを」





答えるや刀を構えるの姿に兵らが色めき立つ。








「永久に鬩ぐ運命に哭け」








は、地を蹴った。


奇襲軍に向けられた筈の台詞は、まるで自分自身にも向けられているようだった。




















 ふと目に滲む茜色の光。
それが眩しくて、眉間に皺を寄せながら佐助は目を開けた。


霞む目が、上から下へ流れていく奇妙な影の動きを捉える。


よくよく見れば、それは左右に林立している木々だと分かった。
上から下へ流れているように見えるのは、自分の体が仰向けで横たわっているからだ。


起き上がろうとして腹部に力を込めると、途端に激しい痛みが襲う。
その痛みで、佐助は何故自分が今まで寝ていたのかを思い出した。





に刺され、霧が広がるように曖昧になり、やがて途絶えた記憶。








「大丈夫かね………








最後に目にした、怯えたような眼差しをしたが思い出される。


あの後、彼女はどうなったのだろうか。
幾ら何でもその場で処罰されたとは考えにくい。
信玄もの人柄を気に入っていた、理由も問わず罰する事はない………と思いたいが、実際に彼女の姿を見ていないので「まさか」の思いは募る。





己の額に手を当てる。
見上げる空は、朱い。








「佐助……気が付いたか!!」








その時、不意に聞き慣れた声が耳に届いた。
場違いなまでに大きな声は、暗い方向に進みかけていた思考を一気に引き戻す。


佐助は苦笑した。
そして傷に負荷がかからぬよう注意を払いながら身を起こし、声のした方に目を向ける。





佐助が運ばれているらしい荷車の進路の先から、こちらに向かって駆けてくる姿が一つ。





幸村だった。
どこかほっとした顔をしている。





「おはよー、旦那」

「良かった………これで殿も安心される」

「あら、俺のこと心配してくれてんのかと思ったら、の方だったのね」

「佐助はともかく、殿は見ていられぬ様子でな………」

「ねぇさり気なく俺傷ついたんだけど?」





そんなつもりなど当人にはないのだろうが、幸村の台詞に肩を転かしながら、佐助は軽口を飛ばした。


内心安堵する。
主君に刃を向けたのだから、良くて軍から追放、首だけの姿になっている事すら覚悟していたが、幸村の口ぶりからはまだ生きて武田にいるようだ。


罰された後なのか前なのかは知る所ではない。
けれどと話が出来るような措置を執った信玄に、感謝せずにはいられなかった。








伝えたい事があるのだ。
目覚めてすぐに、伝えたいという衝動が自然と胸の内に湧いた。


気付いていても胸の内に収めたまま外に出さずにいて、いつの間にか大きく膨らんでいた想い。
それがあったから、自らの命を賭してまで教えたのだ。


命を奪うことに苦しんでいるのだと気付いていない、に。





「まぁ、それは置いといて。当のは?」





それを伝えるべく、幸村にの居場所を問う。


当然すぐ答えが返ってくるだろうと思っていた。
しかし向けられる幸村の表情は微妙なものだ。





「そ、れがな……拙者も今探している所だ」

「はぁ?どういう事さ」

「いや……少し目を離した隙に何処へ行ったのか………佐助の様子でも見に来ているのかと思ってこちらに来てみたのだが、知らぬか?」

「んや、俺も今目ぇ覚めたトコだし」

「そうか………困ったな」








「あの………殿なら先程、こちらに来られましたが」








佐助と幸村揃って眉を顰めている所に、突如かけられる言葉。


声は、荷車を引いていた兵からのもの。
思わぬ所から返答があったのに驚いたが、それでも情報源であることには変わりない。


佐助は幸村を向いていた身を少し捻って兵の方へ向けた。





「ここ来てたんだ?」

殿はどちらに行かれた?」

「幸村様、ご存じないのですか?伝令が来たものだからてっきり幸村様も参加されるのかと思っていたのですが」

「何?」








殿は奇襲軍討伐に向かわれましたよ」








奇襲軍とは何のことか。
事情の分からぬ佐助が、説明を求めようと幸村を見………そこで強張った顔に出くわした。


予想すらしていなかったとでも言うかのような幸村の顔色。





その瞬間、佐助は結論を得た。





細かい経緯などは知らない。
ただ、今どのような事態が起こっているのかを、尋常ならざる幸村の様子を見て、察知した。








「まさか……たった一人で迎え撃ちに………!?」








呆然と口から零れ出る呟きが確信させる。


奇襲『軍』という位なのだから、相当な数の兵を相手に、は。










風に乗って、刀のぶつかり合う音が微かに聞こえ始めていた。




















一を聞いて十を知るのが忍。

ヒロインの呼びかけを、佐助は覚えていません。
その声が目覚めるきっかけになったのは確かですが。



2006.6.18
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