鴻飛天翔 こうひてんしょう  第二十七話










 はその時、懐に入れ持ってきていた簪の存在を強く感じていた。


出立の時に及んでも意識の戻らなかった佐助は、遙か後方の戦利品などを運ぶ荷車の一つに、まるで荷物のように寝かされている。


彼の傍にいると、後悔の念に苛まれ、先へ進ませるべき足取りを鈍らせてしまうだろう。


だから今、敢えて幸村の隣について歩く事を許して貰っている。
彼と話している事で、暗い方向に向かいがちな己の思考を少しでも引き戻したくて。





「足は大丈夫か?辛くなったらいつでも言って下され。拙者の馬を貸そう」

「ふふ………勝ち武将が軍行で馬に乗らなくては、兵達に示しがつかないじゃありませんか。それに、腰の辺りが軽い分、行きより楽です」





己の腰に手をやる。
いつもそこに差していた刀が、今は無かった。


表面上、間者が信玄の命を狙い、佐助を刺した凶器として押収されているのだ。





おどけたように肩を竦めて言うに、幸村はちょっと表情を曇らせ、そして苦笑する。





「………左様か。では、万が一辛くなった時には言って下され」





過ぎると言える程に気にかけてくれる幸村は望んでいた通り、必要以上に考え込んでしまうのを防いでくれた。


幸村は優しい。
その優しさに触れ、の意識は一時だけだが、後悔の念から徐々に離されていく。


ここには先日の己の凶行を思い出させる物は何一つ無い。
信玄と幸村の計らいで、刀を含め、佐助すらも、の傍から離されていた。


そのことに、は薄々勘付いている。
勘付いてみれば、己の命を、主君の命を狙った相手に対する二人の心遣いが、申し訳なくも思い嬉しくもあった。







その中で、は懐に収められている簪を意識する。


今置かれている状況で、唯一佐助と自分を間接的に繋げる物。
その存在が、に後悔を感じさせる原因であり、また希望を与える物だった。




















 それは、山道に足を踏み入れた日の誰そ彼刻に訪れた。








「………残党が奇襲をかけて来よるか………」





信玄が静かに呟いた言葉に、は思わず耳をそばだてた。


周囲の様子を偵察しに言っていた隠密からの報告である。
武田軍が山に入る時機を見計らったかのように、突如として無数の兵が音もなく山を取り囲んだのだ。


報告によれば、数は武田軍の約半数。


数字の上では武田軍が有利だが、しかしここは未だ合戦相手の領内。
地の利は相手に分がある。





「今日中に山を越えねば危険じゃが………そうやすやすと抜かせてくれそうにはないのぅ」

「いかが致しますか、お館様」

「迎え撃った所で場所が山では些か分が悪い。奇襲される前にこちらから少数精鋭を送り込み、叩こう」

「はっ!」

「その間残りの者は予定通り山を越える。その旨を各隊へ伝達せよ!」





切れの良い返事を合図に、幾人かが並列の後方へと走り去って行く。


その様を、幸村と共に傍で話を聞いていたが見送る。










「お館様、此度の奇襲戦、拙者をお使い下され!」





信玄と隠密の会話が終わるや否や、幸村はすぐさま駆け寄り、勇みながら名乗りを上げた。
真っ直ぐ目を見て請う姿に気概を見て取り、信玄は穏やかな笑みを浮かべる。


密やかに行動するには、彼の生来の気質は少々不向きだ。
しかし、それを補って余りある戦いの才覚と信頼がある。


承諾の意を込めて、信玄は大きく頷いた。


そして、ある事を指摘する。





「ところで幸村よ、はどうしておる?姿が見えぬようじゃが………」

「は…………あ?先程まで拙者の隣に……む、殿?」





信玄に言い指され、幸村が漸くそのことに気付き辺りを見回す。


の姿。
つい今し方まで見えていた姿がどこにも見当たらない。


一瞬の内に消えた


幸村は大いに驚き慌てるのだった。




















 幸村が慌てていたその頃、は兵の列の後方に向かっていた。


山道を軽い足取りで逆走し、自分とは反対の方向へ歩みを進める兵達の横を通り過ぎていく。


やがて見えてきた、目的の物。
速度を緩めながら近づき、それを引く兵に声をかける。





「ご苦労様。佐助の様子は………?」

「おぉ、殿。見ての通り、変わりませぬよ」





苦い表情をして与えられた返答に、は内心の落胆を抑えられない。
せめて表に出すことだけは避けようと努めながら、兵に促された方を見やる。








兵が引くのは荷車。
その上に、佐助が横たえられていた。
面頬が外され露わになった顔は血の気が失せ、僅かに眉を顰めているようだ。





苦しいのか。





内心で問い、その額に手を乗せる。


この手を、いつかの自分のように、佐助の手が握ることを祈る。


その祈りは、当然叶う訳もなく。


突き付けられた現実に、の表情が辛さに歪む。





「………すまない」

「……殿が謝られる事はなかろう。佐助殿を刺したのは………」

「私の刀だ。………私がやった」





慰めの言葉を遮ってまで告白するに、兵は沈痛な面持ちで目を伏せ彼女から視線を外した。








が口にしたことは紛れもない事実。
しかし兵は、その言葉を発した本人が意図していたようには取らなかった。


刀が自分のであるなら、自分が刺したようなもの   そう、解釈した。
信玄が咄嗟に口にした虚偽の『事実』が広まっていたからだ。








間者が陣中に侵入し、の刀を奪いその刀で佐助を刺した。








外された視線を再び向けさせる為、が兵を呼ぶ。





「頼みがある。一時、刀を貸して貰えないか?」

「刀を………?また何故」

「伝令はもう届いている筈だろう?………敵を、斬りに行く為だ」








せめてもの贖罪に。
これで命を落とすなら、それこそ業の深き己に与えられた天罰。


命を賭け、死すら甘受する心が定まるのを感じながら、の目が兵を捉える。


真っ向から見据えられた兵は、驚きに息を飲んだ。
黒の双眸から向けられる眼差しの、意外な程の強さに驚いた。


そして悟る。
彼女の、導き出した答えを享受する、揺るぎなき意志の強さを。








しばしの間その目を見返してから、兵は無言で刀を鞘ごと手渡した。





「ご武運を」

「……ありがとう」





微笑み礼を言い、眼差しを一時佐助に戻す。
そして、額に置いていた手を頬にかけて滑らせる。


生きているのかと疑いたくなる程に、その頬は冷たかった。








痛切に胸に満ちるは、生きていて欲しいと願う強い想い。








「行って来る………佐助。」








   お前が目覚めた時に 傍にいてやりたかった








ただ一言、近場に出かけてくる時のような軽い調子で告げる。
そこには兵が想像しうる以上の思いがこめられていたが、それらの思いをぴたりと胸の内に収め、そっと手を離す。


そして見つめる、視線の先。


山林。
既に存在を察知された奇襲軍が襲来するであろう方角。


見据える目には、屹然とした光が宿っていた。










胸元に簪の存在。
ひどく小さい物ではあるが、確かに感じられる存在。


瞬きの間、その簪に思いを向けると、は着物の裾を翻し、風を切る鳥のように木々の向こうへと姿を消した。




















死ぬな。
私が、願いを叶えるよりも先に。



2006.6.11
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