が女であるという話は瞬く間に広がり、辺りが明るくなり日が高く昇る頃にはほぼ全員の知る所となった。
ある者は驚き、ある者は佐助との間に立っていた噂について納得する。
その内の多くが本人を見て改めて納得したいと思い、の所を訪れたが。
蹲り、外界との接触を完全に拒んだような悲愴な姿に、誰もが声をかけるのを躊躇い、遠巻きに眺めるのだった。
鴻飛天翔 こうひてんしょう 第二十六話
「……おや、どうしました?」
振り向いた光秀の体の前面は、赤くない所などない位に血に濡れていた。
その足下には、家臣………であった物が、切り刻まれた肉塊と化し転がっている。
光秀に仕えるようになって幾日か。
初めて見たその光景に、足の力が入らずへたり込み、動かなくなった物体を凝視する。
目が離せない。
あそこで転がっている「物」は、一体何だ。
「おやおや、こんなに震えて………これは世の理そのものでしょう?」
近付いてくる光秀を見上げる。
日の光を背にを見下ろすその顔は陰になりよく見えない。
血に染まった毛の先から雫が垂れ、の足の甲へと落ちる。
熱を失った筈のそれは、しかし重い衝撃と共にを幻の熱で襲った。
「世の、ことわり………?」
「そうです…………来なさい、」
血塗れの手が伸ばされた。
立ち上がらせようという手なのだろう。
主君である故それに従おうとは手を伸ばすも、しかしその手を掴み返す事が出来なかった。
今一歩の所で、その手を握る事を拒む自分がいる。
そうして躊躇っている内に、焦れた光秀の方から手を掴んできて、立てないでいるを無理矢理に引き上げた。
ぬるりとした感触が手の中で生じる。
その感触に声を上げる間もなく、は腕を引かれ光秀に連れて行かれた。
辿り着く先は、赤い肉塊の転がる、今し方まで光秀が立っていた場所。
意思を失い眼窩そのもののようになった目が、虚ろにを捉えている。
至近距離で目にするそれに、は強い拒絶感を覚えた。
心拍が速くなり、目も霞んでくる。
ここにはいたくない。
そう思うのに、光秀が放してくれない。
手に堅い物が触れた。
霞んだ目を向けると、触れていたのは刀の柄。
光秀がに刀の柄を握らせ、その上から覆うように自らも手を重ねている。
今や両手を光秀に操られ、気付けば操られた手は刃を下にして掲げていた。
「やってご覧なさい………あなたなら、分かるでしょう……………」
耳元で囁きざま、の意見など聞かぬ内に刃を肉塊に突き立てる。
手に伝わる、恐ろしいまでに生々しい手応え。
衝撃が総身を侵し、はその場に頽れた。
しかし手が拘束されている為完全に意識を手放す事は出来ず、ただ血溜まりに膝を浸した感覚だけが鮮烈に記憶される。
心拍は痛い程に強く打ち、目は霞み息が上がり、体を支えている膝も手も震え出す。
逃げ出したいと、そう思うのに逃げられない。
そのせい、だったのだろう。
「それが、楽しいという感情なのです」
力なく俯くの耳に光秀が口を寄せ、
囁いた言葉を、は希望すら持って受け入れた。
閉じていた目を静かに開ける。
「……そうか…………」
帰還の準備で忙しなく走り回る兵達を、隅の方でぼんやりと眺めながらが呟いた。
今、ほんの少しだけ眠り、夢を見た。
起こす者もおらず自然と得る事が出来た緩やかな目覚めは、の中に夢の内容をしっかりと刻みつける。
「殿、少しは落ち着かれたか?」
「幸村殿………」
準備の合間を縫ってやってきた幸村が、信玄の命を狙った謀反人である筈の自分に、気遣わしげではありながらも今尚笑顔を向けてくる。
彼のその姿に、は少し笑んで、はいと短くいらえをした。
「佐助は………どうですか」
「処置は施したが…………後は意識が戻るかどうか……」
些か表情を曇らせる幸村に、申し訳ない気持ちがの胸に満ちる。
彼の忍を生死の境まで導いたのはこの自分なのだ。
何回謝罪したとしても、その事実は消えるものではない。
それでもは詫びるように、静かに目を伏せた。
「夢を……見ました」
「夢?」
「このような結果になった原因…………昔の、記憶です」
先程の夢を、瞼の裏に投影して思い返す。
今までの自分を成り立たせていた物が全て崩れ去った今、それを回想して思う事は、自分はこれまで多大な勘違いをしていたということだ。
人を斬るということを、自分は楽しんではいなかった。
寧ろ恐れてさえいたのに、その恐れから逃れたいが為に、自分の意志を逆転させていたのだ。
それが当時幼かった自分が出来た、心を守る唯一の方法だった。
今まで気付けなかったのは、周りに気付かせてくれる人間がいなかったからで。
それを 佐助 お前が気付かせたんだ
伏せた目から、一筋だけ涙が伝った。
やがて目を開けたの胸の内には、ひどく澄んだ物だけが満ちていた。
悲しみの残滓が、その一滴で全て外へ流れ出てしまったかのように、落ち着いていた。
すっと幸村を捉えた目には、もう涙は見られない。
その眼差しから感じる意思の力は今までに無い程強く、受け止める幸村を少なからず驚かせた。
そうして見つめたまま、は幸村に向けて両の腕を差し出す。
そして冴え冴えとした微笑を浮かべながら、言った。
「縄をお打ち下さい、幸村殿」
「!?な、何を申すか!」
「私の罪を伏せて下さっているお館様と幸村殿のお心遣い、真にありがたく思います。しかし………咎人は償わねばならぬが道理」
「罪など犯してはおらぬ!お館様は無事にござるし、それに………」
「私は、佐助を刺しました」
言い募ろうとする幸村を、淡々として尚明瞭なの声が遮る。
咄嗟に言葉を詰まらせた幸村に、は目の力を緩めて、それが私の犯した罪だ、と付け加えた。
「この、どのような罪も甘んじて受ける所存」
武士の如き宣言に、幸村はの決意の固さを知った。
命を狙われた信玄も、刺された佐助の主である幸村も、この時点でを罰する気など毛頭無かった。
の人柄を知っているせいであり、信玄に刀を向けたのは彼女の意思ではないと。
また彼女の嘆きの深さも知っていたからだ。
しかしその決断では、は決して納得しないだろう。
信玄に裁かれないのならばと、自ら罰する意を込めて切腹さえしかねなかった。
両腕を差し出すを前に、幸村は必死に頭を巡らせる。
やがてある一つの結論に達すると、跪いての腕をとり、そしてそっと下げさせた。
「縄は打たぬ」
「幸村殿、しかし………」
「殿のした事についてはお館様が何らかの判断を下すであろう。だが、全ては屋敷に戻ってからでござる」
「屋敷…………何故?」
「屋敷に着く頃には、佐助の容態もはっきりしていよう。その上で改めて決めるのだ」
の顔に困惑の色が浮かんだ。
要するに罪人ではあり続ける。
ならば何故縄を打たないなどというのか。
幸村の言に納得が行かず問うに、幸村は、
「縄は罪人が逃げ出さぬように打つ物。殿は逃げる気などないだろう?」
違いましょうか、と微笑を浮かべながら逆に問い返す。
は少し瞠目し、ややあって頭を振った。
「……違いませぬ」
「だから、縄は打たぬのだ」
は沈黙する。
不満はあるも、有無を言わせぬ幸村の言葉に渋々納得せざるを得ないとでも言いたげな顔だった。
意志の強いを丸め込むことが出来た内心の達成感を隠す事が出来ず、晴れやかに笑う幸村に、は複雑そうな眼差しを送るのだった。
好青年を装っているなら、こんな分かりやすい所で人を切り刻んだりしませんよね……その辺は展開の都合で。
もしかすると私は、これが分かっていたのかも知れない。
佐助が、私にこれを教えてくれる、最初の人になる事を。
戯
2006.6.4
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