鴻飛天翔 こうひてんしょう  第二十五話










お館様の首を取ると宣言し、走り出した私の前に佐助が立ちはだかった時。
展開が望んでいた方向に向かうのを感じて、不思議と安心した。


望まぬ事をしないで、望む最期を迎えられそうだと。


その気持ちを知られれば、きっと佐助の刃は鈍るだろうから、本気で相手を討とうとする気概は消さない。


斬撃の鋭さはいつものまま、しかし一刀毎に大きく隙を作り、佐助が私を討ちやすいように。


なのに避けてばかりでなかなか刃を向けようとしない佐助に、内心焦りを覚えた。


時間がかかったら他の者に気付かれ、人が来てしまう。
人が集まれば、それだけ佐助に討たれるという望みが叶う可能性は低くなる。








ようやく佐助が得物を振るい、腕を切られたのを感じた時には、思わず微笑んでしまったものだ。





「……そう………避けてばかりいないで、そうすれば良いんだ。でないと楽しくない」





戦いの最中にそんな表情を見せる不自然さ。
それをごまかすように、言い添える。


それは限りなく本心に近かった。
佐助は強い。
強い相手と刃を交えて、何を楽しくないことがあろうか。


敵意を向ける相手が佐助というのは不本意な所ではあったが、それすらも呑み込む程、心は安らいでいた。








なのにそれを佐助の一言が波立たせた。








「本当は………楽しくなんてないんだろ?」

「……………何言ってんだ?」





楽しくないなどと。
どうしてそういう発想が生まれるのか、意味の酌み取れない言葉であった筈だった。


実際意味が分からなかったので問い返す。








その途端、震えだす手。








己の体が起こした思いも寄らぬ反応に、凪いでいた心に俄に波紋が生じる。





「楽しいなら、どうしてそんな動揺してんの?」

「……違う………」

「違わない。違いなら笑い飛ばせば良いよ。でも出来ないでしょ?」

「違う…………」





否定の言葉を返す度に、無慈悲なまでに畳みかけるように佐助の冷静な声が投げられる。


佐助の言葉が返ってくる都度、体は戦慄きを増した。


心拍が上がる。
目が霞む。








まるで人を斬っている時のように。








今のこの状況は決して楽しくない。
なのに何故こんな反応が現れる?





それ以上の思考は続かなかった。





「人斬りなんて楽しんじゃいない。本当は、怖くて恐くて堪らないんだ………だから」

「違う!!!」





己の大音声で耳を塞ぎ、刀を突きの形に構えて一気に駆け寄せる。


そこから先の言葉を聞きたくなかった。
聞いたら、今の自分を形作ってる「何か」が音を立てて崩れてしまうような気がした。


衝動のままに走る。


佐助も武器を構えこちらに向かい走るのを一刹那の間に見た。





あぁ、どうかこのまま殺してくれ。


その先の言葉を聞くことがないように。








一瞬の内に無数の思いが去来し、思考を真っ白に染め上げ。










皮を裂き、体を抉る小気味よくも恐ろしい音が耳を突いた。






























ぱたり。


地面に血が落ちては吸い込まれ、見る間に黒い染みになっていく。
刃の表面を、体内から流れ出した血が滑り、手を赤く濡らす。





「……だから………血を浴びるのが、嫌なんでしょ?」





耳元で囁く佐助の言葉を、凝立して目を見開きながら聞く。
呼吸が上手く出来ない。
血の匂いが鼻について息を塞ぐ。


瞠目しているの目は、一箇所に固定されていた。








佐助の腹に吸い込まれた己の刀。
それを伝い、手を濡らし袖を染める鮮血。








の突きが、佐助の鎧を穿ち、体を貫いていた。


彼の手に握られた手裏剣の刃はに届く寸前で彼自身の手によって止められている。








鼓動が激しく鳴り、咄嗟に柄から放そうとするの手を、佐助が掴み止める。





「………ぁ…………」

「……っ分かる………?これを教えたかった………」

「な……なん………避けられただろ………!?」





ぎこちなく上げられたの顔は、今までに無いくらい蒼白だった。
握った手は抑えられない程に震え、今や全身にまで及んでいる。


大丈夫だと笑って見せたが、果たしてに意図は伝わっただろうか。


視界が霞んできていて、どんな表情をしているのかも分からない。
幸村や信玄が自分の名を呼ぶ声も、一枚膜を隔てたように明瞭に聞き取れなくなってくる。


足に力が入らなくなり頽れた体が、暖かい何かに抱き留められ支えられた。
だが、支えきれなかったのか、そのまま一緒に地面に座り込む。





「教えたかったんだ………」





動かすのも億劫な腕を必死に持ち上げ、佐助は自分を支えてくる相手の背に回す。


この小ささを佐助はよく知っていた。
こんなに小さく細い体で、よく戦場を渡り歩いてきたものだと思ったが。


何のことはない。
その重さを知らなかったのだ、、、、、、、、、、、、、








「今までが逃げ続けてきた……命ってやつを……………さ」








視界が暗転していく。
腹の傷の痛みが段々感じられなくなり、体温が傷口から流れ出ていくような感覚に襲われる。





ただ、の肩に預けた己の頬に伝わる温もりだけを感じ。







佐助の意識は黒く染まっていった。






























 力の抜けた佐助の体を支えたまま、は呆然とする。


凭れる彼のその口から、今にも言葉が発されるのを、像を結ばない思考で必死に祈る。
だが、今や感じたことのない重さが、の腕の中で生じていた。


佐助から片手を放して目の高さまで持ち上げると、肌の色が分からない程に真っ赤だった。
戦の只中で兵を斬り続けて尚白さを失わなかった着物の袖も、しとどに赤く濡れている。


ずしりと、空気が急に重みを増したようにを圧迫した。


佐助を刺した………人を斬ったという認識が、心の内で爆ぜるように急速に広がっていく。





「さ……すけ…………?」





もたれかかる佐助を何度か揺する。


目を覚ましてくれるのではないかという微かな希望の下での行為は、しかし呆気なく裏切られる。


腕の震えは、次第に体全体へと伝播し、歯の根も噛み合わなくなってくる。





「………違う……私が望んだのはこんな結末じゃない…………私が………!!」





望んだのは。





武田の敵となった自分が、佐助と刃を交え攻防し。
振るった腕が相手自身止められない瞬間を見て構えを解き、斬られる。


自分の意志で斬られたことに満足し、至福さえ感じる中で目を閉じる。








そうなることを望んでいた。
にとっては甘美な理想である。


なのに何故、自分はこうして無事で、佐助は腕の中で動かない?








自分は一体、佐助に何をしたのか?





「………嫌だ…………」





視界がぼやけ、全ての光と色の輪郭が朧になる。


今まさにの中で、真実が耐え難く抗いきれない大きな衝撃となって襲いかかっていた。


血に濡れた手が燃えるように熱い。
実際はどんどん冷えていっている筈なのにそう感じるのは、今まで自分が逃げて来た物の存在が急に意識されたからだ。





佐助の言う通りだった。


自分は、この存在を知り、己の罪深さを知る事になる「血を浴びる」事が恐ろしく、今までひたすらに逃げていたのだ。


自分では気付く事さえ出来なかっただろうその真実を、佐助は身を以て教えた。


重さを知らぬままに屠ってきた、命という存在を。





涙が、堰を切ったように両の眼から溢れ出す。










「…………っ佐助ぇぇぇええぇぇえっっ!!!」










は、咆哮するが如くその名を絶叫した。


それはまさしく慟哭であった。





命を幽冥へと送るその行為の重さを知った鳥の、悲痛な啼き声であった。





















「お館様、何事で………」





 陣地いっぱいに響き渡るの叫び声を聞き駆けつけた兵が、そこにあった光景を目にして唖然とした。
一箇所を除けば、そこは奇妙な程に静かな空間であった。
信玄は手を伸ばしかけたまま、幸村は二槍を手に。
それぞれ凝立し、二人の中間辺りで蹲る者を呆然と眺めている。


蹲るのはだった。
抑えきれぬ様子で時折声を漏らしながら泣き崩れ、その腕には佐助を抱いている。








抱かれた佐助は眠ったように動かない。








その腹に………の物である刀が突き立っていた。





「………っ救護班を呼べ!急げっ!!」





いち早く我に返った信玄が、兵に向け怒鳴るように命じた。
その余裕の感じられない様を不思議に思いながらも、兵は命に従い救護班を呼びに慌てて駆けていく。


いつの間にか多くの兵が叫びを聞きつけ集まっていた。


その内の一人が現状に困惑し、





「お館様………これは一体何事ですか?何故佐助殿に殿の刀が………?」





問えば、信玄は表情を歪めてを見据え、重々しく口を開く。





「………儂の首を狙い間者が侵入し、、、、、、刀を奪い、、、、………佐助を刺したのじゃ」










到着した救護班は、佐助の搬送に手間取っていた。


が佐助をしっかりと抱いたまま放そうとしないのだ。


襟首を引いて引き剥がそうとしてもびくともせず、寧ろ力ずくで引き離そうとしたせいでが暴れる。
その拍子に着物が着崩れ、肩口から胸元にかけて大きくはだける。
佐助とに空間が出来、そこからさらしに潰された胸が垣間見えた。


それは、兵達に衝撃と共にが女であると知らしめ。
打ちひしがれたようにただ泣き崩れる様子に、それ以上の力を振るう事を出来なくさせていた。





「私のせいだ……私が…………気付かなかったからっ!!」





悲痛に呟きながら咽び泣くその姿を、誰もが悄然として遠巻きに眺める。


そこに、不意に近付く者があった。








背後に立つや静かに膝を折り、佐助をかき抱く震える腕を後ろから抱えるようにして取り、外させる。
優しいとさえ言える動きに、はなされるがままに腕を佐助から放した。


泣いてぼろぼろの顔を、背後の人物に向ける。





「佐助は………まだ、死んだ訳ではござらん」

「………幸村、殿…………?」

「嘆くにはまだ早い。佐助が助かる事を願い……ここは救護班に任せるでござる」





幸村の目が真っ直ぐにを見据える。


力強くも何かを堪えたような眼差し。
それはに、不思議な心強さと心細さを同時に与え。








気付けば、また涙が零れていた。








幸村の働きによって、救護班はようやく本来の仕事に取りかかる。
運ばれていく佐助の姿を、はどこか悄然とした様子で見送った。


縋るものを失い、堪えようとしても堪えきれない涙が頬を伝う。
それでも懸命に嗚咽だけは漏らさぬようにしようとして、地面に爪を立て、戦慄く唇を噛み締める。


その、あまりに痛ましげなの姿に。


幸村は一瞬躊躇するも、の小さな体を引き寄せた。





「泣かないで………下され。殿…………」





視線は外し着崩れた着物を直してやり、宥めるように背に手を回す。
引き寄せられたは、幸村の胸に耳を当てる形でその腕に収まる。


聞こえるのは、規則正しく響く胸の鼓動。
その音と、回された腕の温かさが、の心を宥め掻き乱し、いつしか嗚咽を堪えるのも忘れ声を上げて泣いていた。


耳を打つ悲痛な泣き声。
その涙が止まるようにと祈りを込めて、幸村は腕の力を強くする。








の慟哭の声は、いつまでも木霊し続けた。




















悲しい時とか、鼓動は心を落ち着かせる効果があるそうです。
暗くて長い今回の話。
暗いままでは決して終わりませんので、最後までお付き合いの程お願いします!

戯の好きな幸村殿はそんな事も無げに女人の着物を直したりはせぬ………!!!(爆)
余程見ていられなかったんでしょうね。
純情幸村が抱き締めて宥めたりする程だから。
まごまごしてたら幸村のベクトルがヒロインに向いてしまいますぞ佐助。
此処何話か幸村との絡みが多いので書いてる戯自身焦燥に駆られる今日この頃。

命ってやつを教えたかった云々の辺りはありきたりにならないよう気をつけましたが……言葉足らずでありきたりになってる感が。

雰囲気を壊さないようにこっちは隠したけどバレバレだね!
いや、でも隠してでも言っておかないと後々禍根が……!!(どんなだ)


その手が幸村殿のものであった事が、より一層涙を誘った。
そこに彼はいないのだと知ったから。



2006.5.28
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