それは、ある種の希望にも似た瞬間。
鴻飛天翔 こうひてんしょう 第二十四話
夜陰に激しい火花が散った。
凄絶なる一刀は、信玄に届く寸前で止められていた。
と信玄の間に走り込んだ佐助が構える、手裏剣によって。
ちりちりと鉄同士の擦れる音が鳴り、刀に加えられている力の強さに佐助が瞠目する。
「…………!?」
「お、お館様、ご無事でございますか!!?」
は佐助越しに、驚愕する信玄に駆け寄る幸村を確認し、目を細めて後方に跳び退った。
抑止すべき力が離れたことで、構えを守りから攻めのものに変えつつ、佐助は未だ状況が信じ切れずにいる。
幸村の怒号が響く。
「殿……っ貴様、間者かっ!!」
その声には、激しすぎる程の真正の怒りがこもっていた。
つい今し方まで和やかに言葉をかわしていた相手の裏切りと、その兆しを見つけられなかった己。
それらの思いが綯い交ぜとなって怒りという一つの形になり、幸村に二槍を握らせる。
幸村が走る。
佐助の横を抜けた際制止の声が聞こえたが、構わずとの距離を縮め、槍を突き込んだ。
受ける側のは、その軌道を刀で撫でるように変え、滑らかな動きで避ける。
槍を突き込んで伸びきった腕は、本体に隙が生じたことを意味する。
はそれを狙っていた。
機を見逃さず切り込んでくるの刀を、幸村は素早く槍を引き戻し、防ぐ。
先程と同じように火花が散り、刀と槍が競り合った。
ちりちりと刃が鳴る向こうにの顔を見ながら、幸村は顔を歪ませる。
一度は共に笑いあえる仲間になった相手と、こうして刃を交えていることが辛かった。
屋敷で見せていたあの笑顔は、全て自分たちを騙す為の芝居だったのかと。
衝動に任せて叫びたくなるのを、歯を噛み締めて必死に耐える。
感情の片鱗も見せぬ眼差しが競り合う得物の向こうから送られ、
「そんな顔をなさらないで下さい………幸村殿」
不意に耳に届いた、優しげとさえ言える声に、思わず瞠目した。
囁いたのは目の前で刀を向ける娘である。
こめられた力は緩む気配がない。
けれど。
「私は今まで………幸村殿の前で騙ったことなど、一度としてありません」
「………殿…………?」
「大丈夫……幸村殿が悲しむような結果には決してしません…………だから」
私を、信じて下さい。
そう言って笑ったの顔は、今まで見てきたものと同じ裏のないものだった。
ただほんの少し、寂しげなな色合いを含ませて。
刹那、刀から力が抜ける。
不意のの言葉に気を取られた為に、唐突な力の消失に対応出来ず踏鞴を踏む幸村の横を、風が抜けるような軽い動きでが抜ける。
走り迫る先は、手裏剣を構え信玄の前に立つ、佐助。
再びの刀が間近に迫り、佐助は辛酸を嘗める心地でそれを紙一重で躱した。
振り抜かれ、一瞬無防備となったに反射的に刃を向けかけ、慌ててそれを堪える。
二度三度と立て続けに刀が振るわれ、その全てを受け止めず躱しながら、佐助は顔を歪めた。
「…っ何でこんな事してるんだ………!!」
「………佐助が退かないからだろ。退けといった所で退く訳はないし……これは、必然なんだ」
「そういう事じゃない!!」
何故今更になって信玄を討とうとするのか訊きたかった。
今まで首を取ろうと思えば幾らでも狙える機会はあった筈。
肩を揉むと言い出したに、信玄が無防備にも背を預けた事さえあるのだ。
その時ではなく、何故止める者も大勢いる今なのか。
それらの言葉は、狂おしい程に悲痛の叫びを上げる己が心に乱されて、声にはならなかった。
いつしか避けきれなかった刃が顔や首を掠め、血の筋を生じさせている。
初めて相対した「敵」としてのは、とてもこの世の者とは思えなかった。
殺伐たる戦いの気配に呑まれもせず、ただ口の端に微笑を湛え斬り付ける。
ここが実際の合戦場で、昼間見ていたが如き血に染まぬ白い姿をしていたら、その浮世離れの度合いはいや増すだろう。
「鴻飛幽冥」という言葉は、その姿を喩えたものでもあるのかも知れない。
その眼差しが、今や自分に向けられているのだと思うと、言い知れぬ感情で押し潰されそうになった。
忍として伏せていた心が、図らずもざわめきだしている。
何度目か刀を振り抜いて無防備となったの姿に、感情のまま得物を構え、振るう。
その時、佐助はある物を見た。
手裏剣の刃がの二の腕を浅く通り抜ける。
斬られた箇所を手で押さえながら、は数歩後退した。
その顔には、刀を振るっていた時よりも更に鮮やかになった微笑。
「……そう………避けてばかりいないで、そうすれば良いんだ。でないと楽しくない」
言ってのけるに対し、その時佐助の中では激しい否定の思いが生じていた。
彼女を斬り付ける寸前に垣間見た物の為である。
それさえ目にしなかったなら、こうまで強い否定の意志など抱かなかっただろう。
見た物と、聞いた言葉。
二つの事柄が佐助の内で反発し混ざり合い、やがて疑問に対し一つの明確な答えを形成していく。
何故信玄を討つのかという事に対してではない。
昼間感じた違和感に対する、答えである。
顔や首を伝う血を拭うこともなく、佐助は静かに手裏剣を構える。
俄に様子の変わった佐助に、怪訝そうなの視線が投げられる。
そこへ、真っ向から視線を受け止め、己の内に宿った答えの一片を声に出す。
「本当は………楽しくなんてないんだろ?」
「……………何言ってんだ?」
刀を握るの手が急に強張った。
顔から笑みが消え失せる。
ほんの少しの反応。
それだけで、言葉よりも有言な確証を得たと感じた。
「人を斬ることが楽しいなんて………の場合、それは思い込みだ」
「……意味が分からない………」
「本当に?そんなに手が震えてるのに?」
「違う………これはっ…………!!」
必死に言い募ろうとするの手が、見ていて分かる程に震えだしていた。
篝火に照らされる顔もいつしか蒼白で、戦慄くように目が見開かれている。
背を向けられている幸村にも、間にいる佐助に遮られて声しか聞けない信玄にも、彼女の変わり様は分かる筈だ。
「楽しいなら、どうしてそんな動揺してんの?」
「……違う………」
「違わない。違うなら笑い飛ばせば良いよ。でも出来ないでしょ?」
「違う…………」
「人斬りなんて楽しんじゃいない。本当は、怖くて恐くて堪らないんだ………だから」
「違う!!!」
突如が声を荒らげ、刀を掲げた。
突きの構えを取るのを見て、佐助も迎え撃つ姿勢を取る。
刹那、が地を蹴った。
二人の距離は十歩もないのに、まさかの速度である。
佐助の目から見ても速かった。
しかし、恐慌に陥った人間の刀筋など、読むのは簡単で。
佐助も同じように、相手に向かい踏み込んだ。
目瞬きの間に、お互いの姿が眼前へと迫り。
刃が、相手の身を貫いた。
武田の皆のことが、とても好きだから。
裏切る事なんてしたくなかった。
戯
2006.5.21
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