鴻飛天翔 こうひてんしょう  第二十三話










 連日、鬨の声が一帯を支配し、両軍多数の犠牲を払ったが、戦況は日を追う毎に武田の優勢へと傾いていた。


勝利が目前に迫り、武田軍兵士らの刀にも歓喜を叫びたい内心が現れ始めている。


そしてふと響き渡る、敵軍総大将を討ち取ったことを知らせる合図に。
押し込めていた思いは勝ち鬨となって爆発し、全てを掻き消す轟音となった。


もその場にいた最後の敵兵を屠った丁度その時に合図を聞き、遠く離れた自軍の方を見やる。





「勝った………のか…………」





自軍から少し離れていた為、風に乗って届いた鬨の声を耳にしながら、ほっと息を吐く。


終わった。
そういう安堵にも似たものが胸の内を満たした。


刀に付着した血を振り払い鞘に収めようとした所で、ふとは己の手が震えていることに気が付く。


手が震えているせいで切っ先が定まらず、刀が鞘に上手く収まらない。
過ぎる精神の昂ぶりに苦笑し、は陣へ戻る味方の列を追う。

















味方の列に合流し、陣に戻ろうとする道程の途中で名が呼ばれる。
幾百幾千の兵達のとどろに響く足音の中でその声を聞いたが周囲を見渡す。


ふと目を留めた一本の木。
その枝の上に佐助の姿を見つけた。
が気付くと軽い身のこなしで枝から地に降り立つや、忍であるのに忍ばぬ様子で、片手を上げることで挨拶に代え歩み寄ってきた。


変わらぬ態度の佐助に、は微笑にて出迎えようとして………不意にその表情を曇らせた。
曇った理由は佐助の出で立ち。


頭から血を浴びたような有様で、装束の元の色が分からない程なのだ。





「もう少し考えて戦ったらどう?その格好」

「いやぁ、戦に出たらこれぐらいが普通っしょ。が綺麗すぎるんだよ」





眉を顰めるに答えながら、彼女のほぼ真っ新な着物に目をやる。


一日とて欠かさず戦場に出ていたにも関わらず、その着物は出兵前と殆ど変わっていなかった。
裾が破けていたり、跳ねた血が数滴散っている程度である。








血による汚れが何故ここまで少ないのか、幾度か彼女の戦う姿を見かけた佐助は知っていた。


避ける、からである。
鮮やかな速さで、潔癖なまでに。





「ね、何でそこまで血を避けんの?」

「…………避ける?」

「何、ひょっとして自覚無い?完璧なまでに避けてたぜ」





自分と他の兵の格好を見比べれば分かるだろうに、と佐助は付け足す。


問われて初めはきょとんとしていたは、やがて合点のいった顔をした。





「あぁ………意識してなかったよ。最近じゃ慣れたものだから」

「理由でもある?」

「単純に、血がかかるのが嫌なんだ」





口調はごく軽かった。
しかし、顔には口調に伴う表情が浮かんではいない。





「血を浴びると、浴びた分だけ着物が重くなって動きにくい。それに、斬った奴らが体にまとわりついてる気がして厭だ」





の脳裏に、対峙した敵が死ぬ間際に遺す眼差しが鮮やかに蘇る。








斬られたなどと思いもせず、或いはその考えに行き着いて、何故か至近距離にいる小さな者を見る。
自分が今どうなっているのかと確認しようとして。


そのまま焦点が合わなくなり、死ぬ。








無数の死に顔が一時の頭を支配し、血を浴びるのに等しい嫌悪感を生じさせる。










何か思い出しているのか、唇を引き結んで目を伏せたを見ていて、佐助はふとその手が震えていることに気が付いた。
袖から伸びる白い手が、はっきりと分かる程に震えている。





「…………無理することないよ」





思わず独りごちるように呟けば、が目を開けて不思議そうにこちらを見た。


の震える手をそっと持ち上げる。
自分の手についていた血がにもついてしまったが、別段嫌がる風もない。


勢い手を繋ぐ形になりながら、佐助は握った手を見つめた。





「斬るのが厭なら、言えばいい。なら大将も話聞いてくれる筈さ。こんな震えてまで堪えなくても……」

「何で、斬るのを嫌がらなくちゃならない?」

「え?」

「こんなに………震えが来る程、楽しいのに」





ひっそりと囁かれた言葉。
佐助は息を飲む。
の手から顔へ視線をあげれば、思いも寄らぬ表情と出くわした。


綺麗に、笑っている。





「嫌がるつもりもないよ。こんな………楽しいこと」





人を斬るのが楽しいのだと、笑いながら言ってのける
まさかそんな言葉が発されるなどとは思ってもみなかった佐助は、手を握ったまま唖然として足を止めた。
本気で言っているのかと、笑うを凝視して。


そこでふと、何とない違和感を覚えていた。


楽しいという割に、浮かべている笑顔がひどくぎこちないものに見えたのだ。
鮮やかではある。けれど、どこか無理しているような。


立ち止まって無言で凝視してくる佐助に、は少しだけ眉を顰めた。
手を握られている為共に立ち止まったが、いつまでもこのままでは帰還する兵達から遅れてしまう。
佐助から己の手の自由を取り戻す。


早く行こう、と短く告げて、は佐助を置いて先を行く兵達を追った。








「……何だ………?」





残された佐助は、内にわだかまるものに釈然としないものを感じていた。
確かに何かを察知しているのに、一体何に対して違和を覚えているのかが分からない。
ただ朧気に分かるのは、の何かに対して自分が「違う」と思っているという事。


佐助は去っていくの背を見つめた。




















「此度の戦、よく働いてくれたな、よ」

「お館様の兵として当然のことをしたまでです」

「ふはは……そのように畏まらずとも良い」





 簡単な勝利の宴も佳境となり、明日に控える領土への帰還に備え兵達が寝静まった頃、密やかに語り合う者達がいた。
総大将である信玄、その下で功績を挙げた幸村、表に出てきた見張り役の佐助、そしてである。


適度に酒も回り機嫌の良い信玄にが微笑を以て返す。
どこか穏やかな雰囲気の二人の間に、未だ戦の興奮冷めやらぬ様子で佐助に宥められている幸村が割り込む。





「あの訓練場での一件とは比べものにならぬ刀捌き、拙者、全く以て感服いたしたぞ!」

「私の刀は我流なんです。だから型にはめる訓練はどうにも苦手で………」

「練習よりも本番、ということじゃな」

「我流であれ程の腕前とは……!拙者もまだまだ精進せねば!!」

「旦那、声が五月蠅い………」





会話を聞くと、確かに武人を匂わせる単語が混じっている。
しかし光景だけを見れば、そこにいる四人が戦場にて人を斬ってきたばかりだとは誰も思わないだろう。
それ程までに、この一画に流れる空気は穏やかなのだ。


の心の内に宿る、冷え切ったものと裏腹に。








「武田軍での初陣で良い働きをしたには……何か、褒美を与えねばな」





その冷たいものを表面に表すきっかけを、信玄の言葉が与えた。


今まで浮かべていた微笑がすっと掻き消える。
能面のようになったの表情に、酔いの回った信玄は気付いていない。
相変わらず穏やかな笑顔で、何が欲しいかと問うている。





「……私は………領地も、金も要りません。ただ、一つだけ欲しい物が」

「ほぅ?何じゃ。言うてみるが良い」





一度、逡巡するように俯いてから、立ち上がる。
急に訪れた静寂に、思わず話から外れていた佐助らが達を見た。





その時、佐助との目が合う。


考えの読み取れない目。
なのに何かを訴えんとしている、切実な目。





ふいと、が目を逸らし、信玄を見やる。


刹那、その身から放たれるは凄まじいまでの殺気。


その思わぬ激しさに息を飲む三人を尻目に、は呟く。





「お館様…………あなたの首を、頂きたく思いますれば」





言うや、それ程なかった距離を俄に詰める。








愕然とする信玄に向け、は存分に刀を振るった。




















ヒロインから危険な香りが漂う今回の話。
眼差しで何を訴えようとしていたのか。



2006.5.14
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