鴻飛天翔 こうひてんしょう ―剣の舞―










 とどろと天地に響き渡っていた行軍の音が、余韻を残し緩やかに消えていく。
停止した人の波は次の指示を待つ様に沈黙し続けている。

その長く広く連なる集団の先頭、騎乗した者ばかりが並ぶ中で、地に足をつく者が一人。


「こうしてお主と再び相まみえること叶った。これはいかなる縁か…のう、軍神よ」


陣も敷かれていない土地に馬上から視線を投げ、甲斐の虎は独りごちる。

未だまみえざる白き軍神の姿をそこに幻視しているのだろうか。
常になく静かで烈しい闘志をその姿に感じ、彼を見上げる目をわずかに細める。

壮年、老いてますます盛んの士、武田信玄。
彼の傍へ馬を寄せるのは虎若子。
こちらは若さ故の勢いを身の内に宿し、意気を蓄えている己が主君に共感の意を示す。


「お館様、今再び訪れた決戦の時。此度こそ必ずや勝利をお館様の手に!」


どこまでもお館様ありきの姿勢を崩さない武田家臣、真田幸村。
二人の間に会話が生まれたのをきっかけに、彼らのすぐ傍にあった身をさりげなく遠ざける。
そしてさほど時を置かず勃発したのは、拳で語り合う師弟関係。

武田に仕えるようにはなったが、他の家臣達に比べればまだまだ弱年の新米。
その自分ですら予想できる、毎度お馴染みのこの展開。
もはや日課であるので驚くこともなくなってしまったが、周囲を巻き込みかねないのだから、出来ればもう少し加減してもらいたいものだ。
こう、骨に決まったような固い音や鈍い音がすると、こちらに拳が飛んできた訳でもないのに顔をしかめてしまう。

拳と技の応酬が始まって、騎乗した者ばかりだった集団の中に地に足をつけた人間がやや増えた。
その中で、最初から地を踏んでいた娘、は、吹いてきた風にたなびく黒く染め抜かれた長い袖を押さえながら、此度の決戦の地を見渡す。


「川中島……」


噂に聞く、過去にも同じくこの場所で信玄とまみえたという武将。
毘沙門天の「毘」の字を軍旗に掲げる神速聖将、上杉謙信。

因縁を持つ二者の合戦の幕が、今切って落とされようとしていた。















 足袋を脱ぎ素足になると、袴の裾や長い袖が水に浸からないよう注意しながら川に足を進める。
夜空に瞬く幾多の星と、煌々と照る小望月が視界を確保するのに十分な光源となり、夜の川辺を歩くのに危険ということはない。
水深がくるぶし程の所まで来て、はそこから川の流れに沿って歩き始めた。

かたや武田、こなた上杉のそれぞれの陣幕が、松明に照らされの左右に確認できる。

分かる範囲で、今武田の陣幕の中では、信玄を初め名だたる武将が軍議を開いている頃だろう。
世に名を馳せる武将は数多くおれど、此度の相手は信玄にとっては特別な意味を孕んでいる。
戦場において友として讃えられるような相手と出会うのはそう無いことであり、出会えたのならそれは誇っても良いことだ。

上杉とは信玄が誇れる相手なのだ。
自然軍議も家臣を巻き込んで過熱し、明日の開戦に向けて意気も上り調子に違いない。

もその場に参加する許可は得ていたが、武田に仕える以前より単独行動で戦場を駆け回っていた質。
策を聞かされても馬耳東風だと自覚しているし、まだ他の者に比べ戦果を挙げていない自分が軍議に参加するのもどうかという思いがあるのも確か。
他武将への遠慮と、やや自己中心的な都合で、は軍議の席をそっと抜け出してきたのだった。


「上杉の陣は……遠いな」


武田の軍で繰り広げられているのと同様に、上杉方でも軍議が開かれている。
川原に並行して進めていた足を止めて、武田のものではない陣幕と明かりに目を向ける。

あそこには敵方の情報収集の為に、武田の戦忍、猿飛佐助が潜んでいる筈だ。
彼と顔を合わせるのは早くても明日、信玄に報告を終えた後だろう。
それまではどうあっても、上杉方にいる佐助の無事を川の対岸から祈る位しか出来ない。


「…………まぁ、平気だろ」


これでも一応は佐助の腕を信頼している。
不測の事態がないとも限らないが、真田隊の長を務めるだけの腕を持っているならそのおそれも微少なものである。
…筈。
何故だか漠然とした不安が胸中を去来するも、その理由が分からなかったのではふるふると頭を振って不安を振り払う。

佐助との最初の邂逅で、彼が追っていた肩口の傷。
まだ『鴻飛幽冥』がだとは知らなかった頃、何の気なしにその通り名を持つ者を探していて、注意力が散漫になった僅かな隙をついて負わされたもの。
今思い返してみても呆れてしまうような理由から受けた傷だと、は今に至っても教えられていない。
それを知らないだけで「漠然とした不安」程度で抑えられているのだから幸せということだろう。


「戻るか」


言いしれぬ不安さえ消し去ってしまえば、の心に引っかかるようなことは何一つない。
明日からの合戦も重要と言えば重要だが、個人としてはいつもと変わりない行動をするのみである。

上杉陣営に背を向け川原へ上がる。
川の水は心地良いと感じられる冷たさだったが、長く足を浸けていると流石に冷えてしまって感覚が鈍い。
これ以上熱が奪われるのを避ける為、足に付いた水滴を手ぬぐいで手早く拭ってから草履を突っ掛ける。
足袋は履かず、少し湿り気の残る足を乾かしながら武田の陣営に戻る。

ほのかに照る陣営の明かりを目指して歩いていると、風に乗って何とも痛そうな音がのもとまで届いてきた。
それがいつ始まったものか、どうやら軍議の最中に信玄と幸村の拳のぶつかり合いが勃発してしまったらしい。
「お館様ぁぁぁ」「幸村ぁぁぁ」と、これまた傍迷惑な大音声も聞こえる。

一度火がついてしまえば、所構わず起きる拳で確かめる師弟関係。
武田にはそれなりに発言権を持つ古参の家臣もいるが、二人の気迫の前では制止しようという意気すら吹き消されてしまう。
故に、起きてしまった殴り合いは自然鎮火するのを待つか、唯一止めることが可能な人間が現れるのを待つのが家臣らに出来る対策である。
状況には慣れているので待ちの一手でもてんで困ることはない。

戦装束に身を包み、歴戦を駆け抜けてきた将達が、揃いも揃って手を出せずにいる。
その様子を想像して、思わず苦笑した。


「…さて、私に出来るかな」


いつも止め役にまわる佐助は只今上杉偵察の為不在。
も家臣達と同様、自然鎮火するか佐助の制止を待つ方だが、今回は何と無しに好奇心がわき上がる。

誰かが動かねばという意識が働くのと、挑戦欲を掻き立てられる止め役がいないという状況。
知らず気合いが入り、腕を肩からぐるぐると回す。

大丈夫、誰かが成し遂げた事なら他の人にだって不可能ではない。

そう自分に言い聞かせながら、は陣に戻る足を早め、嘆息しているであろう軍議の参加者達のもとへ急いだ。




 その背後。
が早足で横を通り過ぎて行った木が、不自然に揺れる。
何かに引っ張られるように軽く撓んだ枝から下りてくるのは、すらりと伸びた長い足。
ぴんと張った状態で、放物線を描きながらゆっくりと爪先が地へと向けられる。

人であった。
夜闇に紛れてしまう黒色の装束を身に纏った人が、潜んできた木陰から姿を見せる。

女性特有の柔らかな輪郭を、身体に密着する服装により惜しげもなく現している。
滑らかに曲線を描く肩口から、月光を淡く照り返す髪がこぼれ落ちた。
その髪自体がまるで月光の如く淡い色合いをしている。

手を木の枝に引っかけぶら下がった状態で静止したそれの視線の先。
月光のもと翼のように袖を翻して去って行くの小さくなっていく背を、色素の薄い目が追いかける。


「あれは………」


呟かれた声音には純粋な疑問と共に、しかしその疑問に対し何らかの答えを得ているような響きが籠もっていた。


いつからか、合戦場において囁かれるようになった、とある通り名。
間近で見た者で生還した人数が限りなく少ない為、伝聞は遠巻きにその姿を見た者からのものが大半である。
最近ようやく広まってきた外見的特徴も、その遠巻きからというやや不明瞭な伝聞のせいで随分尾鰭がくっついている。

自分も最初の内は、あることないこと混ざり合って何が事実なのか分からない噂話など歯牙にも掛けていなかった。
所詮噂は噂、普段は農作業をしている農民達が戦場という空間に飲まれて何かを見間違えたか錯覚を起こしたりしたのだろう。
戦場に幽霊目撃談が起こるのと同じで、殺されるかも知れないという恐怖が形あるものとして見えてしまったのだろうと。

そう聞き流していた頃、いつだったか尾鰭がついた噂話の中に共通項があることに気が付いた。
自国で兵達の間に持ち上がるものや、敵国に潜入した時に小耳に挟んだもの。
それらの中に含まれる共通項は以下の二つ。

『袖の先が黒い振袖のような物を着て、走る度に翻る様が鳥のようである。』
『赤い房のついた刀を扱っている。』

勿論共通項が含まれていない噂も多くあったが、大抵のものは武勇と共にその二点が挙げられていた。
そして噂話に共通項があった所で、それが真実であるという証拠はない。
だからその点に気付いた後も、信じる事は無かったのだが。

今、噂話の共通項そのままの姿をした者が目の前を通り過ぎたなら、不動であった考えにも揺らぎが生じる。

先が黒く染め抜かれた長い袖が、走ると風に乗り翻る。
腰には刀を差しており、柄の先には夜目にも鮮やかな赤い色をした房が取り付けられていた。
武田の陣営へ足を急がせていた、およそ戦場には似つかわしくない軽装をしたあの人間が、噂に挙がる像の主であったなら。

人の死を求めて戦場を飛ぶ鳥、『鴻飛幽冥』であったとしたら。

いかに腕が立つとしても、人が群れ斬り合う戦場では一人の力量が戦局に影響する程度などたかが知れている。
だが、今や雑兵はおろか将の口の端にものぼる『鴻飛幽冥』が此度の戦に現れたと知れば。
しかもその刀を交わらせば生きて還れぬという死の代名詞になりつつある存在が、武田方にくみしたなどという話が伝われば。
「彼」が本物であれ偽物であれ、上杉方に少なからぬ動揺を生み、形勢が不利になる事も考え得る。


「これも武田の策か………」


目の前を通り過ぎた者は既に陣幕の向こうへ姿を消し、先程まで響いていた打撃音の代わりに感心するようなどよめきが聞こえてくる。
軍議らしいことを話していたのも最初の内だけで、すぐに武田信玄と真田幸村の殴り合いに発展した武田軍。
そんな暢気に構えているのも、全ては『鴻飛幽冥』の特徴を持たせたあの人間がいるからなのか。
武田軍を忌々しく思う気持ちが募る。

全ては主である上杉謙信の柳眉がひそめられる様を見たくないが故の感情である。
謙信の面が憂いに沈むなど……その様すら美しいのだろうが……彼の剣、かすがには耐えられない。


「ああ、謙信さま………」


出来るものなら貴方様の肩にかかる荷を全て代わって差し上げたいのにそれが出来ないという嘆きの思いを抱くと同時に、
姿を想像しただけで花を飛ばすような心持ちになり、頬を薄紅に染めながら。


『鴻飛幽冥』の存在が謙信の美しい心に影を落とすことを思い、かすがは吐息をこぼした。















 その日、見事信玄と幸村の拳を止めて見せた功績により、武田家臣達の間での株が一段上がった。




















えーと……なんだ、本編の最終話更新したのが去年の7月2日。
………………
まる一年以上ぶりのBASARA連載更新でございます。(「杜若」は短編なので数えませぬ
一応第一部みたいなのが終わってるから良いようなものの。
書きたい書きたいという思いがずっとあったにも関わらず、よくここまで放っておいたな自分。

今回は以前からネタとしては挙がってた(けど文として繋げられずにいた)対上杉軍編でございます。
佐助とかすがって甲賀出身?(参照:佐助の武器名、二人は同郷設定)甲賀ロミオと甲賀ジュリエット?(参照:山本風太郎「甲賀忍法帖」)
疑問符様々ありますがどの程度ネタにするかは指と戯のノリ次第。
第一部(仮)程重苦しい?話にはなりませんので軽ーい気持ちでややお楽しみにー。

でも佐助とかすがのロミジュリはスルー。佐助夢書きとしては…ね!



2007.8.10
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