鴻飛天翔 こうひてんしょう ―剣の舞―










 地を蹴り、川を越え、武田の陣営までの道のりをひた走る。
時刻は明け方、日もまだ顔を出さず、東の空がようやくうっすらと白み始めた頃。

藍と朱を混ぜたような色の空がやがて昼間の様相を呈せば、いつ上杉との戦が開かれてもおかしくない。
それに間に合うよう出来るだけ早く、上杉方から集めてきた情報を届けなければ。
その一心で佐助は、両陣の間で複雑に入り組んだ支流の、武田に至る最後の一つを越える。


「…武田は良い駒を手に入れたな」


川原を抜け、陣まで一本道である途中でかけられた声に、佐助は足を止めた。
武田へと向けられていた意識を瞬時に切り替え、ほぼ条件反射で振り返りざまに武器を構える。
しかし既に風に流された声を思い返してみて、聞き覚えがあることに気が付く。
おや、と思うのと同時に、振り返った視界に見慣れた姿が映り込む。

いくら馴染みがあったとて、敵方であるのは違いないから警戒は解かない。
だが珍しく向こうから声をかけてきたという事実には、ついつい顔を綻ばせてしまう。

自分の目に十分適う容姿の相手を前にして心躍らせてしまうのは、男として仕方のない事だ。
自身の心境において都合の良い言い訳を展開して、頭に浮かぶとある娘の姿から一時だけ目を背ける。


「この刻にまだこんなトコにいるなんて、もしかして俺を待っててくれた?なんちゃって」


来た道に戻した目に映る、道の傍らに生えていた木に背を預けて立つ姿。
吐いた軽口に慌てるでも怒るでもなく、ただ冷めた目で佐助を見る女。
明け方にあって深更の空のような装束をまとったかすががそこにいた。

女性にとって理想的であろうその体躯は、男に限らず目を奪われるのではないだろうか。
彼女に比べると、武田で待っているであろうは、容姿はともかくやや背丈が足りないな、などと場違いな事を考える。

そんな事に思考を巡らせている内にも何か言葉が返ってくる訳ではなく、挨拶代わりの軽口は時と共にその存在を希薄にする。
広がるのは何とも言えない焦燥すら孕む手持ち無沙汰さ。
その状況を打破すべく、佐助は仕切り直すように再びかすがに声をかけた。


「…んで、良い駒ってどういう事よ?今回目新しい将はいない筈だが」


甲斐周辺の情勢は膠着状態が続いており、他国の大名が武田に帰順したという話は無い。
隣国である越後も似たような状況であるから、特に隠すような事もない。
かすがが言い指すような将というのに見当がつかなかったのもあり、正直に答えてみたのだが。

……何故だか、澄んでいながら強い憤りが込められた目で睨み付けられた。


「……何?」
「答える気がないならそれでも良い。お前にわざわざ確認するまでもない事だ」
「いや、かすがが何の事を言ってるのかさっぱり分かんないんですけど?」
「白々しい」


にべもなく一刀両断された。
どうやら真実を語ったこちらの答えが、情報漏洩を懸念して知らぬふりをしたものと思われたらしい。
かすがが佐助に持っている信頼というものが限りなく薄い為のこの反応である。

敵方の言葉を鵜呑みにするなど戦忍としては失格であるから、その点においてかすがの反応は限りなく正しいものであろう。
佐助から情報が得られないと解釈したかずがは、あからさまに失望した溜息をつく。
そこまではっきりと態度で「役立たず」と言われてしまえば、軽く傷心する一方で妙に清々しい。


「戻るの?戻ったら軍神によろしく言っといて頂戴」
「誰がお前の言葉など!」
「おー怖い」


気安く謙信さまを呼ぶな、と怒られた。
殊謙信がからんでくると、こちらへの冷遇の仕方もあっという間に熱を帯びる。
鋭い一瞥を肩越しに向けられて、おどけたように怖がってみせると、気分を害したらしく眉を寄せていた。

佐助の態度に呆れたのか諦めたのか、もう関わるまいというようにかすがの身体が上杉方を向く。
今は敵とはいえ元は同郷、彼女が行くのを見送ろうと、向けられた背に視線を遣る。
果たしてその眼差しを感じ取ったのか、僅かに首を動かし佐助に気をやる素振りを見せたかすがは、一言、


「死を喚ぶ鳥など、謙信さまの前には無意味だ」


言い残して、今度こそ佐助の前から姿を消した。

かすがを見送るという当初の目的を達成した佐助は、そのままの体勢で目を瞬かせる。
姿を消す間際のかすがが言い残した事の意味がすぐには飲み込めなかったからだ。


「死を喚ぶ鳥……?」


告げられた単語を反芻し、次いで顎に手を添える。
信玄に上杉方の情報を届けるのもそっちのけで、その言葉が何を指していたのか考えた。


「死を喚ぶ鳥……鳥っていったら」















 の事しか思い浮かばないのだが。

信玄へ上杉方の勢力を報告し終えた佐助は、当のを目の前にして眉間に皺を寄せていた。
佐助が傍にいるとも知らず、褥に身を横たえて静かに眠り続ける姿。
寝ているからといって表情が緩みきる事はないが、戦場であっても穏やかな寝顔の
それを見ている内に僅かに緩んできた口元を、佐助は自覚する。


出会ってから武田に正式に属するようになるまでがどうあれ、ここ最近が平穏すぎて忘れかけていた。

ひとたび姿を現せば、その背後には屍山が築かれる。
血河の直中において無垢の身が赤く染まる事はなく、黄泉路を切り開き兵士を誘う白い鳥。

ただ一個で無数の死を喚ぶ無名の浪人。
密やかに流れ出した噂の主を兵達は恐れ、名も無きその者を『鴻飛幽冥』と呼ぶようになった。

その名で呼ばれているのが、一見戦場に似つかわしくない見目を持つなのである。


「考えてみれば、確かに良い『駒』ではあるか……」


彼女の存在がどういったものかを考え、かすがの発言を思い返し、佐助は納得したように小さく呟く。
自分の顎に添えていた手を外し、しゃがみこんでの前髪を掻き上げた。

名のある将ならともかく、一般兵にならば『鴻飛幽冥』の存在が敵方に与したという情報は少なからぬ衝撃となるに違いない。
恐れは伝播も速く、一般兵の混乱はそのまま軍全体の戦力低下に繋がる。




額の辺りにやった手をそこから離さず、親指で白い肌を何度も撫でた。




上杉ほどの軍ともなれば、一般兵の混乱を収めるのもそう時間のかかることではないだろう。
佐助ら武田軍としては、立ち直るまでの僅かな時間こそが狙い目である。

によって得られる上杉の混乱を上手く利用し、隙を突けるような策を立てられたなら。


あまりにも自然に信玄や幸村の輪の中に入っていたから、意識に上ることも少なかった。


敵には畏怖を、味方には意気を。

かすがの言う通り、は既に存在自体が戦局に影響する実用的な『駒』なのだ。




一時、忍としての表情が佐助の面に宿る。
瞬き一つの間に、佐助は今の考えを打ち消した。

駒として利用できる可能性があっても、信玄に駒として使う気がなければ、それはもう駒として成立しない。
へ実の娘のように接していて、どうして駒などと考える事が出来ようか。
今は彼女を利用してなる策など信玄の頭の中にはないし、進言されても受け入れる気はないだろう。

武田の勝利の為に最善の働きをするのが佐助らの仕事だが、こればかりは佐助自身提案も実行もしようとは思わなかった。




撫でられている額の感覚と、瞼越しに感じる朝陽に促され、が小さく身動いだ。
掛布から滑らかな首筋が零れ、小さく息を吐いたがうっすらと目を開ける。
起き抜けで活動の鈍い頭が正面にいる誰かに気付き、緩慢な動きで瞳が佐助を捉える。


「…佐助……?」
「おはよ、。」


覚醒しきっていない目を向けてくるに、悪戯っぽい笑顔を見せて朝の挨拶。
反射的に同じ挨拶が返されたが、寝起きの為か語尾がはっきりしない。
いつも武士然としているの何とも無防備な様子に、佐助は笑みを深くさせる。




戦局が追い詰められている訳ではないのに。

何を好き好んで、自分の想い人を戦の犠牲に差し出さなくてはならないのか。




仰向いて未だ微睡みにたゆたっているの、薄く開いた口。

先程脳裏を過ぎった戦忍としての思考は、今やへの想いの前に奥深い所へと沈められている。
そうして表層に上がった想いのままに、佐助は身を乗り出し、淡く色づいた唇に自分のものを重ねた。




















佐助夢のはずなのに前話で一度も姿を見せなかった佐助は上杉軍に偵察に行っていたのでしたー。
今回のお話が対上杉って事で、かすがとの出会い頭にどんなに佐助→かすがっぷりをフィーチャーしようと思った事か。
認めませぬが。少なくともこの夢の中で二股は許さぬぞー!!
という訳で、ほんのりかすがに悩殺されるぐらいで留めました(悩殺?)。譲歩譲歩。

ここで言いたかった事は、「このあと佐助は平手打ちを食らう」という事です。



2007.8.20
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