鴻飛天翔 こうひてんしょう ―剣の舞―
「『鴻飛幽冥』が、甲斐の虎のもとに……」
男とも女とも取れぬ声での呟きを、かすがは跪き控える体勢で聞く。
佐助と別れてからは足を止めることなく上杉の陣営を目指し、朝陽が顔を覗かせた頃には己が主の元へと辿り着いていた。
主君の背後で今の姿勢を取り、帰ってきた胸と武田方の兵力数などを報告する。
報告の合間に謙信からの質問を幾つか受け答えしているが、その間一度も顔を上げていない。
少なくとも全ての情報を差しだしてからでなくては、彼の姿を目に入れる訳にはいかなかった。
その姿を一目見た自分がどのような状態になってしまうか理解しているから。
「それらしき姿を確認はしましたが、まだ本物と決まった訳ではありません。武田がこちらの兵の動揺を誘う策というおそれもあります」
「そうかも知れませんね…しかし、わたくしとあのお方との間にその様な策など無意味……」
「……承知しております」
「軍単位でその策の効果を論じてもまた然り…戦は勝つべきものが勝つ。我らに毘沙門天の加護がある限り、負けることはありません」
常の如き淡々とした声音の中に、絶対の自信を感じ取る。
それにはっとして、報告を終えるまでは上げるまいと思っていた目線が、つい彼の姿を捉えてしまう。
今日の快晴を告げる眩い朝陽に照らされる、白の戦装束。
腰から足下にかけて広がる裾が陽光を受けなお白く染まり、精緻な雪の結晶のようだ。
兵に支給している数打ちより長い刀身を持つ刀の柄に手を添えた姿勢で、結晶の中心に咲いた花のような容貌が向いているのは武田方の陣方向。
かすがの位置から窺える横顔に、静かながら烈気をみなぎらせている主君。
上杉軍総大将にして居合術の達人、『神速聖将』上杉謙信。
かすがはその横顔から目を離せずにいる自分を認識した。
染まる頬、逸らせない視線、声の出し方を忘れてしまった喉。
こうなってしまうことが分かっていたから、区切りがつくまで謙信の姿を見ないように努力していたのだ。
いつどんな時何をしていても、ひとたび視界に映してしまえばこうして魅入ってしまい、先の事が続けられなくなる。
何をしようとしていたのかさえも、どんなに急ぐ事柄もその時だけは忘れてしまう。
正確に武田の兵力を伝えなければならないこの時も、武田の事はかすがの頭から弾き出されてしまっている。
謙信の姿を目に入れないようにしていた理由とその努力さえも。
ただ、今のかすがにとっては目の前にいる謙信だけがこの世に存在している全て。
「わたくしとあのお方、どちらが相手を上回れるか。今気に留めるべきはただそれのみ……そうでしょう、わたくしのうつくしきつるぎ」
「は、はいっ……!」
男女どちらともとれる白皙の面立ちに魅せられている内に、いつの間にかそれを見つめる目線が低くなっている。
謙信の目が武田からかすがへと移り、現実の時間感覚を失った彼女の前へと膝を折っていた。
そのまま同じく白く滑らかな謙信の手がかすがの頬を優しく包み込む。
急な接近に緊張し身を強張らせるも、表情は陶然としてとろけきったかすがへ、謙信は告げる。
「その『鳥』と思われる者への対処は、かすが、おまえに任せます」
「私に…ですか…?」
「その者が正しく鳥なのか否か……おまえの美しき眼で見極め、そして破りなさい。
……ただし、無理はしないように。勝てないようなら退きなさい」
わたくしはおまえが傷つく姿を見たい訳ではないのだから。
囁くような声で身を案じられたかすがは一旦瞠目し、次いで感極まったように目を潤ませる。
謙信の為に働ける喜びが二割と、自分を心配してくれているという感激が残り全て。
「宿命の相手に心理的策を弄するとは何と姑息な」と、『鴻飛幽冥』らしき姿を見つけた時に生じたの憤りや武田を責める感情。
里を裏切り彼の為に命を捧げるとまで誓った己の決意。
それらの全てが、今この瞬間に昇華し報われた。
気分は乙女、至近距離にある謙信の顔の周囲に花すら幻視しながら、かすがは与えられた任を受けた。
「承知致しました、謙信さま…すべてはあなたさまの為に」
上杉の偵察に行っていた忍の情報から、この場所に布陣しては双方の退路を断つ事になることが判明した。
その事態を避ける為、動きのない今の内に近くに築かれた海津城へ本拠を移動する。
昨夜の軍議でそう決まったと、信玄幸村の拳の師弟関係を止めて早々に寝入ってしまったは朝餉の時に聞かされた。
昨日布陣したばかりでの急な決定である。
今日すぐに出立という訳ではないものの、下に多くの兵を抱える家臣達は移動の為の準備に時間がかかる。
その為僅かな時間も惜しむように、朝餉を食べ終えるや家臣らは慌ただしく立ち去ってしまった。
そうして誰もいなくなった朝餉の席で、一人ゆっくりとしていたはやはりゆっくりと立ち上がる。
指示をするような部下もなく、自分がすることと言えば身支度と刀一つを腰に携えるだけ。
食後の時間も惜しんで駆け回る家臣らに比べ、随分と良い身分だと自覚している。
そんな自分に出来ることと言えば、駆け回る彼らに労いの言葉をかける程度だ。
今も周囲に声をかけるような者がいないので、心の中で同じように労いながら陣幕に向かい歩き、潜って外に出る。
正面、片手に手拭いを携えた佐助が立ち塞がり、見下ろしてくる姿と出くわした。
「お、朝飯終わった?」
「っ……佐助……」
あまりに近すぎて、驚くにもきょとんとするぐらいしか反応が出来ず。
僅かな空白の後ようやく追いついてきた動揺に、何とか名だけを呟いて溜息をついた。
こちらの動揺が知れたのか、佐助の顔にはしてやったりの笑顔が浮かべられている。
その表情に反応してちらちらと燃え出したのは、何とない反発心。
「急に目の前にいるな。いるならいるって言っとけ、敵じゃないんだから」
「出会い頭じゃその要求には答えらんないなぁ。今気配立ってた訳じゃないしー?あ、足音がしないのは忍の性だから許してね」
ってば気配に鈍感だもんねぇ。
悪びれる素振りもなくこちらの要求を笑って却下し、あまつさえこちらの不得手な点を指摘する佐助の返答に無言を貫き通す。
返事に窮したと言うのが正しい所だが、そんな不名誉な事など表に出す筈が無い。
代わりに、随分と機嫌の良さそうな佐助の手から手拭いを奪い取った。
どうやらつい今し方、川で身体を流していたようで、髪が濡れている。
水滴が毛先からひっきりなしにぽたぽたと垂れていく程に。
つまりはよく水気が拭き取れていない。
上衣は脇に抱えられ、帷子を羽織っただけの姿。
手拭いを急に奪われ呆気に取られている佐助の防具をつけていない肩に手をかけ押さえつけ、無理矢理中腰にさせる。
抵抗も少なく低くなった頭は丁度の目の前に来た。
その明るい色の頭を、手拭い越しにしっかりと掴み。
がしがしと、強い力で水気を拭き取り始める。
「あだだだだだだっっ!!?」
「全然拭けてないじゃないか佐助ー。この頭で戦に出るつもりだったのかー?」
「ちょっ拭いてくれるのは嬉しいけど力強すぎ!はげるっはげますさんっ!何事!?」
「ただの親切心。……という名の衣をかぶせた仕返し。」
「本心言っちゃってるよ!?」
「私が驚いて喜んだのを詫びたら許してやろう」
ちょっとした仕返しのつもりだったので、元々それほど怒っていた訳ではない。
簡単な条件を提示して、将来が危ぶまれる責め苦から解放される道を提示した。
こんな些細な事で髪を犠牲にさせるのは哀れという他にあろうか。
かくして救済策を即座に飲んだ佐助がすぐさま謝罪したのを聞き届けて、ようやく頭を解放する。
「くぅー…容赦ないなぁ」
労るように頭をさする佐助の姿に、つい笑いを誘われる。
恨みがましい目を向けられたが、自業自得だと言って批難を切って捨てた。
そうは言えど、やはり頭皮を傷めたまま放り出すのはあまりに哀れというもの。
自分が彼に与えたことではあるが、多少の同情は覚える。
邪魔にならない端の方に移動して、の動きを目で追っていた佐助を手招きした。
呼ばれた理由をはかりかねている様子だが、素直に寄ってきた佐助を自分の正面に座るよう促す。
「何?」
「良いからここ座りなさい。立ってたら届かないから」
何をするかという部分を抜いた催促の目的を、佐助は悟ったらしい。
少しだけ照れくさそうにして、しかし確かに嬉しげな面持ちも見せて、の前に腰を下ろす。
「まさか本腰入れて俺様の頭痛めつけようって訳じゃないよね?」
「…期待されると応えたくなるな」
「すみませんでした。」
交わす軽口にほんの少しだけ本気を加えてみれば、すぐに推論を取り下げた。
その変わり身の速さにくすりと笑いを零して、奪ったままであった手拭いを先程と同じように佐助の頭にかぶせる。
それから動かし始めた手は、本来の目的通りに佐助の髪の水気を拭き取っていく。
先程とは打って変わった手の力に、ほうと思わず息を吐き、佐助は目を閉じる。
「うっかりお仕事中だってこと忘れちゃいそうだね…」
合戦の陣中にあって、離れた所から届く兵達の声は今も相変わらず続いている。
それでも今二人がいるこの場だけは、戦場から幕一つ隔てたかのような雰囲気の中にいた。
その雰囲気を作り出す一因であるの意識に、良い身分だと自覚した先程の事が思い出される。
「忘れられるなら今だけ忘れておきな。今が過ぎたらすぐに思い出すんだから」
合戦に生き残る事や人を斬る事、命を張る事に対する覚悟は出来ている。
だが武田に仕え、「軍」というまとまりを支えてきた歴戦の者達に比べれば、大分緩い心構えである自分。
軍を崩さぬよう常に気を張り続けなければならない彼らに、自分はそれぐらいの事しか言えないが。
一時だけでも気を緩めようとしている佐助が僅かな思考の後頷いてくれた。
ただそれだけの事だが、多分自分はこれで良いのだと納得した。
「さんが優しい今この瞬間をよーく噛みしめておきます」
「言いがかりはよしてくれないか佐助君。私がいつ優しくなかったかな?」
髪と頭と手拭いが擦れる音が小さく断続的に続く。
遠くに兵達の声を聞きながら、水気を拭き取る僅かな時間を穏やかに過ごした。
上杉のカッポー(カップル)と武田のカッポー(カップル)話。
上杉の薔薇が飛ぶ程に耽美な世界が良い。
そんないちゃこいてる上杉とは裏腹に頭皮を痛めつけられてる武田方カッポー佐助に幸あれ。
この話を書いてる現在、長野の武田・真田ツアーから帰ってきたばっかりでございます。
川中島古戦場で得てきた知識と熱意をフル活用して、そろそろまったりモードから脱却してお話を進めていこうという段階。
次回からは陣を海津城へ移動。BASARAのモブ将もちょくちょく出てくる予感。
大河見てないんですけど勘助どうしよう。
ついでにお気づきかも知れませんが、背景が川中島合戦簡易布陣図です。戯作。
経緯が分かればOKなので地図にしろ何にしろ適当にも程がある件ですが、動向を知って貰えれば幸い。
戯
2007.9.22
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