鴻飛天翔 こうひてんしょう ―剣の舞―










 川中島に進軍してから二十日余りが経過した。
その間、武田方は八幡原の一角に陣を構えていたが、退路等の関係から近くにある海津城へと本陣を移動。
上杉方は布陣当初から妻女山を動かず、武田の様子を窺っているというのが双方の状況であった。


「上杉はなかなか動きをみせませんね」
「地の利は向こうにあるからのう。幾度も決着のつかなんだ相手に、慎重になっておるのじゃろう」


場所は海津城本丸の一室、布陣図を目の前にして、は信玄と共に茶を啜っていた。
今日の軍議も解散し、上杉の動きも無い為、合戦のまっただ中において束の間の小休止である。
とは言うものの正面には布陣図が広げられているので、意識と会話は自然と合戦に関するものになるのだが。

布陣図を見つめる信玄の横顔。
そこに総大将としての気質を感じながら、も信玄に倣うように布陣図へと視線を落とす。

軍略には疎いが、個人で参加してきた合戦の経験から、地形の優劣なら多少は読める。
信玄が言う所の「上杉の地の利」を読み取ろうと、布陣図の上に視線を滑らせた。

戦において、相手より上の位置を取った方が、攻守共に有利である。
攻め上ってくる敵の侵攻は食い止めやすく、逆に上方から攻め下ればその勢いは易々とは止まらない。

武田は、地の利を手に入れた上杉を警戒し。
上杉は、手に入れた地の利を存分に生かすべく。

双方共に戦に長けているからこその、互いの動向を探り合っての膠着状態と言えた。


「しかしこのまま睨み合いが続けば、いずれ退かねばならんの……剣を交えず、決着も付けず」


湯呑みを口に運びながら独りごちる信玄に、応じるようにも首肯した。
頷きざま、開け放たれた窓の外へと視線を流す。
窓の外、そこから敷地内を見下ろせば、今は刀を手に取り兵として待機している農民がいる。

このまま戦が長引けば、彼らの手が最も必要となる刈り入れ時が、武田領内に訪れるだろう。
そうなれば、どんなに武田の要職に就いている者達が合戦の継続を主張しようと、兵を退かねばならなくなる。
国を動かすのは一部の限られた人間であっても、彼ら農民が食料を作らなければ国を動かすのもままならなくなるのだから。
信玄はその事を言い差していた。

信玄の表情からは、軍を退かねばならない時期が迫っている事を憂える色があった。
膠着したまま最大の宿敵と対峙出来ないかも知れない事を惜しむ色があった。

は未だその姿を見た事がない、軍神と名高き越後の龍、上杉謙信。
その男と信玄を結びつける因縁の糸のようなものを、は垣間見たような気がした。


「良い敵をお持ちなのですね」
「うん?」
「あ、いえ…敵なのに『良い』とは、少しおかしな言い回しでしょうか」


自分から見た信玄から上杉への印象の素直な所を口に出してみて、その言い回しのおかしさに照れたように笑う。
けれどそれが正直な所であるのだから、訂正しようという気は起きない。


「今までのどの戦よりも、一人の武将として活き活きとしてらっしゃるように見えます」


これまで武田方として参列してきた合戦中に見た信玄の武田軍総大将たる風格と覇気は、どの合戦でも変わらなかった。
他の将達に比べ武田に仕えている期間は短いが、信玄に対するその印象は確かなものである。
自分の目で戦場に立つ彼の姿を実際に見てきて、その上で生じたものであるから。

しかしその印象も、此度の戦を控えた信玄の今の姿を見てしまっては、随分と色褪せてしまう。

今まで見てきた彼は、まだまだ本領を発揮していなかったのか。
そう驚いてしまうことさえ不思議ではない程、信玄から感じられるものは桁違いに強くなっていた。

これも恐らくは、此度の戦の相手が上杉謙信である為。

刃を交える敵同士でありながら、「友」と呼び合う相手である為であろう。


「ふむ…活き活きと…して見えるか?」
「ええ、少なくとも私はそう感じます」


これまでに謙信と幾度この地でぶつかり合ってきたのか。
「友と呼び合っている」という話さえ人から聞いた話である為、自分にはそれらの情報と自らの印象でしか推し量る事が出来ない。
だから信玄の確認の言葉に、自分の印象だとするしかないのだが。

湯呑みを口に運ぶ信玄の、その口元に宿った確かな笑み。

言葉は無くともその笑みこそが、信玄が抱く謙信への心。
何よりも雄弁な回答であった。






「お館様」


どこからか呼びかける声に、と信玄は揃って顔を上げた。
声のした方を見遣れば、自由に進言出来るようにと開かれた襖の陰に何者か控えているようである。

入室の許可が出るのを待っているらしい。
今は姿を窺えない相手に「律儀なものだ」と思うの傍らで、信玄の入室を許可する声があがる。

控えていた者は、一拍の間を開けて、襖の陰から姿を現した。

敷居を跨ぐ前に居住まいを正し、信玄に向かい一礼する。
それはが武田に仕える上で幾度か見た事のある、米神の辺りに白髪の混じる壮年の男。

上げられた男の目と視線が合うと、信玄の顔から笑みが失せ、代わりに真摯な表情が現れる。


「おお、勘助か。何用じゃ?」


立ち上がり、敷居を跨いで近づいてくる男の面持ちから、軍に関する話を持ってきたのだと悟ったのか。
信玄も彼に応えるように、総大将としての顔で用を問う。

その信玄の口から紡がれた男の名は、勘助。
武田軍軍師、山本勘助その人である。

問いかけに、布陣図を挟んで信玄の正面に座った勘助は「は、」と再び頭を下げてから、口を開く。


「現在、上杉との睨み合いが続いておりまするが、このまま動きがなくば我らが武田軍は兵を退かなければなりますまい」
「応、ワシも今その事をと話しておった所よ。兵を退かなければならぬのは上杉とて同じ事、しかし…何とかならぬものか」


信玄の表情に、先程に見せた苦い物を口にしたかのような色が浮かぶ。

先程も確認した通り、地の利の面においては武田が劣勢であり、刃を交えるたいとはいえこちらから攻め入る訳にはいかない。
信玄が上杉謙信と刃を交える為には、何とかして上杉方を妻女山から下山させる事が条件となるのである。
その条件こそが対上杉戦で唯一の条件にして、また達成するのが至難の条件であった。
こちらが考え得る事は、軍神という二つ名が飾りではない上杉にもとうに考えついているからだ。

この状況を打破するにはどうしたら良いか。

信玄の目が、それにつられての目も、布陣図の向こうに座る軍師へと向けられる。

僅かながらも確かな期待の混じった二つの眼差しを向けられて、勘助は、


「…一つ、提案したき策がございます」


それを申し上げる為に参ったのです。

策があると聞かされて、ほう、と期待を寄せた声を上げる信玄と、その隣で僅かに目を丸くするを交互に見比べて。

力強く、笑って見せた。















 口に運びかけていた盃が、唇に触れる前にぴたりと止められた。
そのまましばらく動かずにいたのは、目に映ったある物を注視していた為。
ややあって、口に運んでいた時と同じ軌道を辿って盃が戻され、酒を含む事の無かった唇が一つの名前を紡ぐ。


「かすが、いますか。」
「ここに」


当然のように返ってきた答え。
それまで何も、誰もいなかった背後に、いつの間にか跪いたかすがの姿があった。
その姿を肩越しに僅か振り返っただけで、彼女を呼んだ謙信は再び同じ物へと視線を戻す。
何処かに控えている事は分かっていたので、大して気を向けることもなく存在を受け入れる。

今はかすがにばかり向けていられる目を持ち合わせてはいなかった。

盃を傾けながら眺めていた、妻女山から一望できる風景。
薄暮に沈む山脈やまなみ、川を挟んだ向こう側に窺える八幡原。
東の方にぽつりと小さく見えるのは、八幡原から移動した武田軍が本陣を置き直した海津城。

それらの景色の中に覚えた一種の違和感を、勘違いだったのではないかとじっと観察し続ける。


「武田の動向はどうなっていますか」
「は…武田方に潜入している忍の報告では、未だ動く様子は見られないとの事ですが…」


ここ二十日余り毎日見ている景色の中で、謙信が注目したのは海津城である。
今は丁度夕餉の時刻、武田も今頃は夕餉の支度で、戦とは別の活気に賑わっている頃だろう。
この時間帯に見る海津城からはいつも煮炊きの煙が上がっていた。

謙信が目を留めたのは、その煮炊きの煙である。

ほんの僅かな差異なれど、それこそが謙信の目には見過ごせない異常として映った。


「今日、動くようですね」


囁かれた内容を耳にしたかすがは、その確信めいた声音に瞠目した。

何を以て、武田が今日動くなどという予想を立てるに至ったのだろうか。
相手方の動きを主君よりも先に知る事の出来る忍すら未だ知らぬ事を、謙信が断言した事が信じられない。

だからといって、「かすが」としての内心と、主君に使える忠実な「忍」としての役割とは全くの別物である。
武田が動くと聞かされて驚きはしたものの、すぐさま顔を忍の物に切り替えたかすがに、ちらりと視線を送る。
『美しき剣』としての姿を見て微笑し、謙信はすぐに視線を海津城に向けた。


「いかがなさいますか」
「動くにしても、今からなら夜陰に乗じての奇襲、と言った所でしょう…」


この二十日間に目にしてきた、海津城から上がる煮炊きの煙。
これまでは見る度に変わらぬ様子であったが、今日に限ってはその煙の量が常よりも多いように映った。
謙信が断言したのは、ただそれだけの事があったからである。

煮炊きの煙程度で判断してしまうのは、石橋は崩れないと信じて確かめもせず歩を進めるようなもの。
家臣らに相談しようものなら「早計だ」と諫められてしまうだろうが。

今の謙信には、確証となるものを必要としない確信があった。
形としては現れる事のない、しかし信ずるに足る何かが謙信の中にはあり、それに従ったのである。

自分が掲げる毘沙門天の導きか。
それとも神的要素を含まない、ただ人と人の、上杉謙信と武田信玄の宿縁がそれを引き寄せたのか。


「奇襲ではなくとも、一計を案じようとしているのは明白……なれば、我らはその先を行きましょうか」




そして、煮炊きの煙という目に見える僅かな差違と、目に見えない直感とも言うべきものは、

確かに当たっていたのである。





















一話の間に大分日にちがぶっ飛びました。既に海津城へと移動してます。
そして当サイト版・山本勘助氏初お目見え。
ざかざかっとデザイン画を描いてみたんですが「松永久秀−邪気」というぱっと見普通の人でワタクシ非常に残念です。
もっと漢前が良いのに!!!いやでも案外普通が良いのか。
BASARAは皆が皆キャラ濃いし。普通の人とか佐助とかが胃を痛めてる位が丁度良いのか。(良くないよ

「謙信は煮炊きの煙で武田の動きを察知した」ってのは実際言われてる話だそうです。
長野行って色々学んできました。
ただ、煮炊きの煙の「多い少ない」で判断したのかどうかまでは記憶があやふやなので、その辺は戯の捏造という事で。

そして佐助が一片たりとも出ていない。



2007.10.13
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