鴻飛天翔 こうひてんしょう ―剣の舞―










 本丸の一角、今は誰もいない部屋で一人、出陣前の最後の手入れをしていた。
打ち粉をした刀身を拭い、粉が拭い切れていない箇所がないかどうか確認してから、刀油を均一に塗っていく。
数刻後には血に濡れて手入れの甲斐もなくなってしまうのだろうが、気を静めるという意味でも怠る訳にはいかない。

刀身を滑っていた拭い紙が切っ先から抜けて、一連の手入れ作業が終わる。
むらもなく刀油を施せた自らの愛刀を眺めて、は自然と口元を綻ばせた。

分解されていた刀身と柄を一つに戻すと、抜き身の刀を手にしたまま立ち上がり、部屋と外廊下とを隔てていた襖を開け放つ。

外廊下へと身を移動させて空を仰げば、見える月は半月。
景色を良く見通すには不十分だが、明かりを持たずに歩くには問題ない光量だ。
天候はこちらに味方していた。
それに加えて、敵方の目眩ましの意味でこちらからも「ある事」を行うのだから、上杉に発見されるおそれは限りなく低くなるだろう。

月を見て趣や風流を感じるより先にそんな殺伐とした事を考えてしまう。
自分は本当に、とんとそういう物に向かない質だと思えて、はまた声もなく笑った。


「乱心でもされたかな、殿。」


声をかける者がある。
風流よりも先に戦を想起させてしまう月に向けていた目を一旦外し、その声の方へと移す。

廊下の向こうから、昼間にも顔を合わせた軍師が向かってきていた。

彼の名を呼ぶ。


「勘助殿…乱心とはどういう事ですか?」
「さて、自覚がないのかな」
「自覚……」
「手に抜き身の刀、月を見て宿る笑みは幽玄。満月は人を狂わすとは聞くが、殿は半月にさえ魅入られてしまったのか」


歩み寄りながら目に映った印象を語る訪問者、勘助が言う所の、の佇まい。
指摘されてから自分の姿を見てみて、成る程、彼の言う通りだと思った。
無意識での行為ではあったが、そのまま無差別に人を襲いだしてもおかしくなさそうである。

確認した本人がそう思うのだから、端から見たら尚更怪しく見えたに違いない。

これは困ったと苦笑して考えを打ち消し、乱心を疑う勘助の言葉を否定した。


「手入れした刀を月明かりの下で見たくなっただけです。お館様の大事な戦だというのに、月に惑わされるような優柔な心じゃありません」
「知っておるよ、殿は強い志を持った御仁だ。欠けた月程度に乱されるようなら、わしは幻滅していた所だ」


きっぱりと否定してみせた所に、さらりと返ってきたのは肯定。
の手には未だ変わらず抜き身の刀が握られているにも拘わらず、気にもせずに傍まで寄ってきた勘助。
乱心したかと疑っていたのは彼なのに、打って変わった返答と行動に思わずきょとんとしたが。

それが冗談だったのだと気付いたのは、勘助が隣に並び立つに至った時だった。

ようやく矛盾が繋がった所で目を丸くするを前に、それまで無表情で通していた勘助の面に、子供のようにいたずらげな笑みが浮かぶ。


「…勘助殿……」
「はっはっは、殿は素直な御仁よの!なればこそからかう甲斐もあるというものよ」
「悪戯が過ぎます勘助殿。どれ程危なげに見えたのかと本気で心配してしまったではありませんか」
「安心されよ、月に映えて見えはしても、忘我したように見える事はない」


唇を尖らせると、子供のような笑みから今度は年相応の落ち着いた微笑へと変わる。
自分より高い位置より向けられるそれをしばらく見つめていたが、やがて耐えきれなくなり視線を外した。

ごく普通に会話しているだけの筈なのに、勘助の発言にたまに紛れ込む一言が何故か無性に恥ずかしい。
恐らくこちらが照れる事を見越して、何でもない事のように装ってそんな台詞を吐いているのだ。
悔しいし、彼の意図も分かっているのに、さらりとかわせない自分が歯痒い。

目を逸らした途端またも上がった笑い声に、は一つ嘆息した。


武田を支える重要人物であり、軍師という役職に就くのにも十分な才覚を持っている。
人品卑しからざる所も好ましいし、そもそも年長者であるので、顔を合わせた当初から勘助には敬意を払ってきているが。

佐助に対するものとはまた違った部分で、佐助に対する事と同じ感想を勘助に覚える。

人で遊ぶのはやめて頂きたい。
心から思う。それはもう。


「……おや、霧が出てきたな。月に叢雲…ではないのが残念だ」


視界からいなくなっていた内に発された勘助の呟きにつられ、視線を空へと向ける。
月に至る視界の間が、白い幕を掛けたように霞んでいた。
太陽に比べてずっと柔らかな月光は、霧に分散してなお淡く朧に揺れている。

は、勘助との会話でいつの間にか緩んでいた気を引き締めた。

霧は佐助の仕業である。
霧が生じたという事は即ち、上杉陣へと赴く別働隊の招集が掛かったというのと同義。

朧な光を見上げていた目を、傍らの軍師へと移す。
此度の策を提案した張本人である勘助に向けて、軽く一礼する。


「それでは、行って参ります」
「応、行かれるか」


辞去する旨を告げる。
勘助にもこの霧の意味は伝わっている。

武田の一兵士としての顔で頭を下げれば、軽い首肯と共に公私切り替えた口調で返ってきた。


努々ゆめゆめ、転んで膝を擦りむいたりしないよう気をつけるのだぞ」


その切り替えた口調で、道をはしゃぎ駆け回る子供に向けるような言葉をかけられてしまえば、折角入れ直した気合いも水泡に帰すというものだ。


「…勘助殿、私は子供ではありません」
「まぁ、わしから見れば吾子程の歳ではあるのだがな……どれ、吾子を戦に送り出す親の歌でも一つ詠んで進ぜようか」
「要りません。」


これも冗談だと分かっていたので容赦なく斬って捨てれば、これは手厳しいなどと言って勘助はまた笑った。

は勘助のその笑顔が嫌いではない。
こう言えばこういう反応が返ってくるだろうと予想しているのか、どんなに可愛げなく返しても彼が怒る事はまず無い。
寧ろその反応を待っていたかのように嬉しそうに笑う顔を向けてくれる事で、彼をより近しい存在に感じていた。

勘助の笑顔に、一旦は冷たくあしらったの面にも苦笑という名の笑みが宿る。
こういったやり取りもいつもの事であって、気にする必要など無いのだが、この笑顔を見ると少しやり過ぎたかと思い直してしまう。
別段、責められている訳でもないのに自然とそう思わせるものがあるのだから、勘助の笑みとは不思議なものだ。

抜き身だった刀を収めようと、鞘を取りに部屋中央へと向かう足で、背を向けたまま勘助に告げる。


「今は要りませんが……此度の戦が終わり一段落付いた頃、私に歌を教えて下さい」
「ほう?歌の心が芽生えたかね」
「そう…なのでしょう。興味を持ったという事は」


歌に関するやり取りで、先程一人で月を見上げていた時に真っ先に思い浮かんだのが戦の事であったのを思い出した。
元々は刀を握るような家の出では無い為、月を見て自然と歌が浮かぶような教育を受けていないのが当然なのだが。
多少は自分のそう言った性を少しばかり寂しいと思わないでもない。

朱に交われば赤、周囲が歌を嗜んでいる環境に置かれれば、多少は興味を持つものである。


「今はそのような時間もないので…」
「戦が終わった頃に、か。成程。しかし、わしで良いのか?殿にはお館様の方が教えを請いやすいのでは」
「お館様と歌い合う為に、勘助殿に先に教えて頂きたいのです」


歌を習う理由に、勘助の口が再び「成程」と呟く。


「ならば殿がお館様の前に出ても恥ずかしくないように、わしも良く勉強し直さねばならんな」


振り返ったその先にあった、嬉しげな色を濃くする勘助の笑顔に承諾の意思を見て取る。
嫌いではない彼の笑顔に感化されたか、もつられるように顔を綻ばせ、


「よろしくお願いします、勘助殿」


別働隊に従軍し、帰還した後の事を指して、は再び頭を下げたのだった。















 生じさせた霧が薄れかける度に術をかけ直してどれだけになるか。
術を行使する毎に霧はより濃くなり、今や一間先も見えない。

霧隠才蔵ら真田忍隊が八幡原各所に散り、ほぼ同時期に術を行う事で効果の範囲を高めた。

八幡原全域に及ぶ、武田の動きを上杉の目から隠す事を目的とした『霧隠れの術』。
山に布陣する上杉から見たら、八幡原の光景はさながら雲海を見下ろすようなものだろう。

妻女山にも忍隊の幾人かを向かわせたので、いずれ上杉陣営も霧に飲まれる。
武田軍別働隊は今頃、山をも呑む霧に乗じて敵陣後方へと出るべく移動している頃だ。

幸村やも従軍している別働隊へと思いを馳せ、佐助は少しの間妻女山を顧みた。

自らが行使した術の為、うっすらと影しか確認できない山。
そこを忍び移動しているだろう者達に向けて、聞こえる筈のない声援を送る。


「俺様のこの頑張り、無駄にしないでよ、旦那達」


もし失敗したらおやつ抜きじゃ済ましませんからね。








 一方、妻女山の裏手へ回り上杉本陣へと迫る武田軍別働隊。


「……っ!?」
「どうされた?幸村殿」
「い……今、何やら悪寒が……」


佐助の「おやつ抜き」発言を感じ取った幸村が、言い知れぬ悪寒に身を震わせていた。
当然、声の届く距離ではない。
全く本能的な部分で、おやつの危機を感じ取ったのである。

その為、何故自分が悪寒を感じたのか分からないままではあるが。


「……殿、拙者は頑張るぞ」
「…?ええ、頑張って下さい。私も頑張りますから」


分からないなりに「失敗は許されない」という思いが沸き、この奇襲を必ずや成功させようと意気込むのであった。

幸村の唐突な宣言に隣で首を傾げているを一人置いてきぼりにして。




















我が家の山本勘助氏はヒロインとの言葉遊び?が趣味なキャラで固定したようです。
その言葉遊び?の中で風流ーな発言を混ぜ込むのが我が家の山本勘助氏。
ヒロインとの友好関係も良好なようです。たまに気疲れさせられてますが。
歌の約束を死亡フラグにするのか否かは未だ考え中……

一話振りに佐助の登場!
話数の単位で見ると短いけど、一話書くのに相当時間のかかる戯にとっては「久しゅうございます佐助殿……!!(感涙」ってな感じです。
BASARAと同じく、八幡原の霧は佐助(+α)の仕業という事にさせてもらいました。活躍活躍。
佐助の信賞必罰的な声援と本能的に感じ取った幸村とのやり取りはネタです よ 。
もっと面白く書きたい。

戦時において、本丸が軍事関係でのみ使われてたのか政務でも使えるような施設になっていたのか。
要するに天守閣なのか二条城みたいな奴なのかの差なんですが、海津城を調べてみてもちょっと分からず
ので、今の所ペターンな方で書いています。ちゃんと部屋がある感じで。
もう一度松代城行って復元模型をこの目で確認してきたら、その都度修正かけていきたいと思います。



2007.10.27
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