高坂弾正率いる武田軍別働隊一万二千。
夜陰と霧に紛れて上杉本陣の裏手へと回り込み、息を潜めて動き出す気を窺っていた。
朝陽が昇り、霧も失せようかという頃。
その一軍は俄に動きを見せる。
鴻飛天翔 こうひてんしょう ―剣の舞―
朝餉の支度を担当していた上杉のある兵士は、微かながらも確かな地面の揺れを感じ、何事かと首を傾げた。
同時に地鳴りのようなものも聞こえだし、それらは近づいてきているらしく段々と大きくなってくる。
これはただごとではないと悟った兵士は、事態を確かめるべく周囲に視線を走らせ。
山上から、馬煙を立てながら駆け下り迫り来る一団を発見した。
「て……敵襲っ!!」
奇襲軍到来の旨は、ほぼ同時期にそれに気付いた者達のおらびによって、上杉軍全体に瞬く間に伝わった。
また別の兵士は、敵軍の先頭に赤い装束を纏った若者の姿を認め、
「あれはっ……真田幸村!?」
烈声を上げ巧みに馬を駈る姿に、怯懦の声を上げる。
音に聞こえた真田幸村の武勇は、普段鋤や鍬を握る農民である雑兵にとっては脅威である。
伝え聞く雄姿と実際に目にした彼の気迫に、雑兵らは怯みを見せた。
「怯むな!武器を構え敵を迎え撃て!!」
兵達が完全に崩れる前に統制を立て直そうと、上杉軍武将甘粕景持が声を張る。
武田信玄との戦を、そして勝利を望む己が主君上杉謙信の為にも、このような所で崩れる訳にはいかない。
「我らは上杉の兵よ!毘沙門天の加護がついておるぞ、何ぞ武田の虎若子如きに怯む事がある!!」
そうして甘粕氏が兵達を奮い立たせている一方で、じっと佇み奇襲軍を見据える者があった。
朝を迎えてなお夜を留めた装束を纏う忍、かすがである。
彼女の横を幾つもの影が疾風の如く駆け抜けていく。
前もって与えられていた「本陣に難あらば食い止めよ」との命を実行に移す、上杉の忍であった。
手に手に武器を持ち、先頭で馬を操る幸村へと飛びかかるも、
「うおおお無駄無駄ァッ!!」
勇ましく振るわれた二槍に尽く散っていく。
かすがの目が細められた。
幸村が馬より僅かに遅れながらも、徒で追従する一つの姿を見つけたからだ。
袖先が黒く染め抜かれた白い着物と濃藍の袴。
片手には唐紅の房がついた刀を携え、ひたと正面を見据える、人の姿をした死の鳥。
「来たか……『鴻飛幽冥』」
白い鳥の姿を認めたかすがの面に、忍の顔が降りた。
おかしい
上杉本陣へと降り立ったは、そこで覚えた奇妙な違和感に眉を顰めた。
幸村に続き先陣切って上杉本陣に突入し、混乱のままに斬りかかってきた数人を返り討ちにした後の事である。
の姿を見た雑兵らが何故かざわめきと共に退き始めたので、その隙に周囲をざっと顧みる。
上杉の白と武田の赤、双方の鎧の色が占める割合は、目に映る限りで武田の赤の方が明らかに多い。
妻女山へと攻め入った武田軍別働隊の全戦力は一万二千。
対する上杉方の戦力は一万三千であるから、同数程に目に映るべきなのに。
絶望的な声を上げ駆け寄せてきた一人を、一足避けざまに斬り伏せる。
武田の奇襲に、上杉の雑兵らは確かに恐慌を来していたが、が予想していた程ではなかった。
彼らの上に立つ者が、意外な程冷静に指示を飛ばして皆を奮い立たせているからだろう。
その冷静さが気になった。
木の幹を叩く音に驚いて出てきた虫を食らう啄木鳥が如く、上杉を妻女山から追い出し叩く。
「啄木鳥戦法」の決断から動き出すまでにさほど時間は置かなかったが、もしやその短い間に上杉に悟られたのだろうか。
そうであったら拙いと、続いて刀を振りかぶった兵を地に沈めながら思う。
気付かれてしまえば、奇襲は最早奇襲ではなくなる。
雪崩れ込んできた武田軍に対する備えを幾らでもしておく事が出来る為、どんな罠を仕掛けてくるか分からない。
これが杞憂であればいい。
そう願いながらも、生じた不安を幸村に伝えるべく、その姿を探し、
振り返った視界の正面に、黒く光る刃が迫っていた。
「何っ……!?」
一瞬の判断で咄嗟にかざした刀に重い衝撃が走る。
火花さえ見えたのではないかと思う程の激しさで繰り出されたのは、黒い短刀。
佐助が道具の手入れをしている時によく見る、それは忍の間で苦無と呼ばれる暗器だった。
掲げられた刀に進行を阻まれた苦無の切っ先が向いているのは、の喉元。
真っ直ぐ急所を狙ってきたのだという事がそれで分かり、表情を引き締める。
驚いていた状態から気を引き締め直すまでの僅かな間に、互角の力で押し合っていた相手の苦無がふと退いた。
押し返していた自分の刀が、対抗していた力の喪失に伴いぶれるのを感じる。
完全に構えが崩れては忍の凶刀の餌食になるばかり。
刀のぶれに意識を取られた一瞬を見逃すことなく苦無が振るわれる。
構えの崩れかけた刀を引き戻すも、それで弾き返そうとするには間に合わず、やむなくは身を右へ逸らし切っ先を避けた。
忍が故の速攻、正確無比に繰り出される苦無。
速さには自信があったが、こればかりは振るわれた時機が悪く、喉を掻き切られずにかわすのが精一杯である。
しかもその回避すら完全ではなく、かわしきれなかった切っ先が、顎の左下を掠めて行った。
振り抜かれた苦無が返り、再び襲いかかってくる前に、後方へと飛び退り忍と距離を取る。
「謙信さまはここにはおられない」
忍はを追っては来なかった。
刃の代わりに追いかけて来たのは凛とした声で、は顎の下を伝う血を拭いながら聞く。
「あのお方が仰った通り、お前達が現れた。ならば私の役目は、お前をここで止めることだ」
星くずが鏤められた深更の空のような装束。
胸元と腰の辺りが大きく肌蹴られ、そこから覗く肌は白く滑らか。
の首を狙ってきたのは、月光にも似た髪を揺らす美貌のくノ一であった。
きっと睨み据えてくる眼はこちらを射殺さんとする程に強い。
その眼差しと先程の暗器の扱いで、彼女が十分有能なくノ一である事は分かった。
だからといってその程度で怯むようなではない。
寧ろ挑むような目を向けて、鋭い眼差しを静かに受け止める。
合戦場におけるくノ一という存在の異質さ、その敵意よりも、今気になるのは上杉謙信の行方である。
彼女は「上杉謙信はここにはいない」と言った。
総大将の不在となれば、先程感じた紅白の比率の違和感にも納得がいく理由付けが出来る。
上杉謙信は何らかの方法でこちらの奇襲を知り、足止めの為の僅かな兵を残して、他の大半を連れ本陣を離れたのだ。
一体どこに向かったというのか。
答えは、の頭が弾き出すよりも先に何処からか聞こえてきた。
「う……上杉本隊、八幡原に布陣中!!」
夜が明け、霧が晴れる。
そうして明らかになった八幡原の全容を上杉陣から見下ろした武田の兵が、見つけた。
白地に「毘」の字を染め抜いた旗がたなびき、陣容を整える様を。
上杉本隊の戦力はほぼ全力、対して海津城に残る武田本隊の戦力は八千と、全力の半分以下。
およそ五割増しの数を相手にするのでは、幾ら信玄と言えどそう長くは持つまい。
上杉軍に対抗するには、のいる武田軍別働隊が一刻でも早く本隊と合流しなければならない。
それが叶わず時ばかり過ぎゆけば、いずれは敗走へと追い込まれるだろう。
「甘粕景持を討ち取れ!早く本隊と合流するのだ!!」
これもどこからか上がった号令に、鬨の声が上がりにわかに剣戟の音が激しさを増す。
もまたこれに応じるように、刀を脇に構え腰を落とした。
上杉が八幡原に布陣していると聞いた時に沸き上がった焦燥を、今この時だけは抑える。
見えるはくノ一の姿ばかり。
否、くノ一のみを見る事に集中する。
『私の役目は、お前をここで止めることだ』
これだけ乱戦状態のなかにありながら、彼女の標的は自分のみ、らしい。
ならば、とはそれに応えてやろうと思った。
そもそもこの刀は、向かってきた相手のみを斬ってきたものである。
刃を突き付けてくる相手と対峙するのに何を躊躇う事があろう。
妻女山での戦は数の上では武田が有利。
自分がくノ一一人を相手している間、上杉の雑兵は他の武田武将や雑兵に任せてしまっても構わないだろう。
今、越えてゆくべきはこのくノ一。
だからこそ視界に、その姿ただ一つを映し込む。
本陣にいる信玄の安否を確認するのは、この眼前の障害を越えてからである。
しかし 女人を斬るのはこれが初めてだな
今更ながら、そんな事が脳裏を去来した。
「止めるというなら…押し通るまで」
拭った筈の血が、いつの間にか首筋を伝い襟元を汚している。
新たな血の玉が出来、先に零れた血が描いた軌跡を辿ろうとした時、の足は地を蹴っていた。
川中島の戦い、開戦。
戯
2007.11.10
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