鴻飛天翔 こうひてんしょう ―剣の舞―
「どうしました、かすが?」
川中島、八幡平から撤退する道中。
謙信は馬上で振り返り、後に従っているかすがへと視線を送る。
はっとしたかすがの目が、謙信へと向けられる。
その直前まで、彼女は自分の背後を何度も振り返っていた。
馬上で前は向いていたものの、謙信はそれに気がついており、だからこそ、何がそんなに気になるのかと思い、声を掛けたのだ。
謙信の意識が自分へ向いていたとは知らなかったらしいかすがの頬が、少し赤らむ。
だが、すぐに表情を改め、見上げていた視線を落とす。
「…あの者は……私に、似ていますか……?」
紡がれたのは問いかけ。
内にあった思いを、そうして音にしていく間に、かすがの眉間に段々としわが寄ってきた。
何か釈然としないものがあるようだ。
かすがの表情の変化を、身を捻ったまま見守っていた謙信が、正面へ姿勢を正した。
先刻の、鳥…『鴻飛幽冥』との対峙。
その時に、つい謙信の口から漏れた事。
『わたくしの剣に、似ていますね、貴方』
それがかすがの耳に届いていたらしい。
かすがにはそう言われる理由が分からず、ただ、背後に置いてきた鳥の姿を追って、何度も振り返っていたものらしい。
謙信は鳥との対峙に思いを馳せた。
武将の姿に変じ、倒れ伏す忍を背に。
上杉総大将の、この自分を前に。
僅かな怯みは見せたものの、決して退こうとはしなかった。
謙信の居合を受けた際、避けずに衝撃の全てを、その華奢な一身で受け止めた。
背に動けない忍を庇っていたからだ。
退いては、その忍を謙信の前にさらす事になるからだ。
怯んでも退こうとしなかったのは忍の為。
己が身を省みず、衝撃を全て受け止めたのもまた、忍の為。
そうして、忍の前に立ちはだかる鳥の姿が、里を裏切ってまで、謙信の為に働くかすがと重なって見えた。
それを感じた途端、刀を持つ者としての興味でしか捉えていなかった鳥へ、一気に好感が生じた。
故に、あの場でそれ以上長光を振るう気が起きず、斬る事は止めたのだ。
「来なさい、かすが」
馬を進める速度を緩め、再び状態を捻り、背後のかすがへ横に並ぶよう誘う。
少しためらうような素振りを見せた後、従って、馬の横へ来たかすがは、依然として腑に落ちないような顔をしている。
似ていると、言われた理由。
戦忍のかすがと言えど、その事に関しては気づけないらしい。
そんなかすがを見て、謙信は微笑む。
腕を伸ばした。
かすがの目が、謙信のその行動を捉え、動揺したように揺れる。
だが、その手がかすがの手を取り、馬上へ導いても、抵抗の素振りは見せない。
かすがの体はすんなりと馬上へと引き上げられ、謙信の前に横抱きに座らせられた。
自分より下に位置する彼女の目を覗き込むと、雰囲気に酔ったかのように、その瞳が潤んでいる。
「わたくしの美しき剣……」
「は、い……謙信様……」
「…お前が、わたくしの為に働く理由と同じものを、鳥は、あの忍に抱いているのかも知れませんね」
謙信が見ている先で、かすがの顔がまず赤くなり、次いでさっと青くなった。
一瞬前までの甘やかな雰囲気など、微塵も無くなってしまっている。
かすがから視線を外し前を向くと、謙信は馬の速度を上げる。
馬蹄の音が大きくなり、それ以外の音が掻き消されがちになる中で、
「…お、男同士……!?いやっ、そんなの美しくない……!!」
先程までの甘やかな雰囲気を忘れ去ってしまったような蒼白の顔で、かすがが何やら呟いている。
まさか聞こえているとは思っていないのだろう。
頭の中の内容がだだ漏れである。
男同士 ですか 。
謙信が、遠くを見る目つきになる。
似ていると言われた理由へ、あまりにも辿り着かないものだから、答えへ辿り着けるきっかけを与えたつもりだったのだが。
どうやら、謙信が意図したものとは違うように解釈してしまったものらしい。
訂正をしてやろうかとも思ったが、迷った末に止めておいた。
鳥は、そう思われている方が良いだろうと、勝手にも判断したからだ。
合戦場を飛び回る鳥、『鴻飛幽冥』は、「雄」で良い。
「女」である時は、それは鳥ではなく一人の人間だ。
川中島での一戦も終息し、戦後処理も一息ついた。
上杉が越後へ引き上げたのと同じように、武田の面々も甲斐へと戻ってきていた。
信玄の館の庭に降り立ち、勘助は一人空を見上げている。
『あんたにここで死なれちゃ、武田としては困るんだよね』
川中島の地で、白く染まった視界の中、佐助の声が聞こえた。
それこそが、生きたまま甲斐の地へ帰って来られた最大の理由であると、勘助は考えていた。
自身の右肩に触れる。
服の下には、手当てを施された矢傷が、まだ傷痕も生々しく残っている。
肩に矢傷を負い、握りが甘くなった刀を、弾き飛ばされた。
上杉の兵の刃が、無防備となった勘助に迫り来たあの時に、本当なら討死を果たしていた筈だ。
それを回避せしめたのが、突如として生じた煙幕と、先の佐助の声である。
白く染まった視界は、斬られたからではなく煙幕によるものだった。
死の痛みを覚悟して瞑った目を、佐助の声が耳に届いたのを機に開けて、辺りを窺う。
「勘助」が、もう一人、騎乗した状態で傍に立っていて、勘助は思わず我が目を疑った。
動揺が隠せずにいる勘助を見て、新たに現れた「勘助」は笑い、
「こんな所で死ぬ覚悟を固める前に、あっちを見てみな」
姿は違えど佐助らしさの残る口調で、ある一方を指し示す。
彼が何故「勘助」の姿をして出て来たのか判断が付けられず、唖然としながらも、その示す先へと目を向ける。
煙幕の中心地からやや離れており、向こうの景色が霞んで見える。
そこに、上杉の一団を相手に勇躍するの姿を、小さく捉えたのだ。
多数の兵を一人で迎え撃つその姿が、勘助の目にはただの無謀にしか映らなかった。
「無茶を……!!」
助けに行かなければ、と。
にわかにそんな思いが湧き、押し殺したような声が転び出ていた。
川中島の地に散ろうとしていた決意は、この一時は忘れていた。
吾子にも思っている者の無謀な行為を見て、止めなければという決然たる意志の方が、勘助の心を占めていた。
得物も持たず、身一つで走り向かおうとする所へ、
「軍師さん」
佐助に呼び止められ、振り返る。
長い物が放物線を描いて投げ渡され、受け取って、それが先程弾かれた自分の刀だと気付く。
刀を拾われていた事に驚き、再び目を向ける勘助の視線の先で、佐助は小さく笑みを見せ、
「さあ、山本勘助が首はここぞ!!我こそはと思う者はかかって来い!!」
我から大音声を上げ、馬を駆り煙幕から飛び出して行くではないか。
すると、勘助を包囲していた上杉の兵が、佐助の声と姿につられ、勘助のもとから離れていく。
しばらくの間、集団とそれを引き連れ先頭を行く騎馬武者の姿とを、勘助の目が見送る。
だが、やがて馬首を返し、こちらも煙幕から飛び出した。
佐助が声を上げ走り出したのは、自ら敵の目を引き寄せ勘助から遠ざけたからだ。
死に囚われた勘助の意識がに向けられたのを知り、行動を起こしやすくする為に。
そうして佐助が作ってくれた機をみすみす逃す事はない。
思いも掛けない事に窮地を脱した勘助は、こうして、上杉本隊を攪乱していたとの合流を果たしたのである。
「全く……死に損のうてしまったではないか……」
と共に武田の本陣へ戻る途中で、両軍の撤退となり、勘助の討死する覚悟は行き場を失った。
こうして生きて戻った事に、空を見上げる勘助は不満げな様子であるが、しかしその表情は暗くない。
確かに、武士としての覚悟は空振りとなってしまったが、生きて帰った事が悪い訳ではないと思っている。
軍師だというのに軍を放り、単身戦地へ向かった勘助を、信玄は厳しく叱責したが、その後で、
「おぬしは、我が武田に必要な人間じゃ」
合戦場から生きて帰ってきた事を、心から喜んでくれた。
上杉に策を読まれた事については、
「うむ…流石はわしが認めた相手よ。次に見える時は、こうは行かぬぞ」
寧ろ上機嫌となり、叱責はされたものの、より一層の精進を心がけよと言い渡されるに留まった。
失策により無駄に散らせた兵の事も、その責の重さも重々承知している。
故に、腹を切る事も覚悟の上だったのだが、信玄は死を言いつける事はなかった。
責を感じるというならば、生きて失態を雪げと言うのだ。
信玄のその対応に、勘助は感じ入りもしたし、より忠勤に尽くそうと心に決めた。
それが、勘助の表情を明るいものにさせている理由の一つである。
もう一つは、合戦前に交わした約束の存在。
「まあ、礼を言いに行きがてら……歌を教えに行こうかの」
この戦が終わったら、へ歌を教えると、約束した。
一度は諦めたその約束を叶えられるのが、ひどく嬉しかったのだ。
勘助の足が、の居室へ向かう。
ゆったりとした足取りで、行く先を見据える勘助の顔は、穏やかに笑んでいる。
武田信玄が館の一角、の居室。
先刻から不規則に、ごそごそと物音がする。
「離せって、佐助……っ」
「何で?手当てしなきゃダメでしょ」
「そんな手当てなら要らんっ!」
「まーたそんな昔と同じような事言っちゃって。遠慮しない遠慮しない」
「遠慮じゃないっ!!」
「あんまり声が大きいと、誰か来るかもよ?」
「…………!!」
声を荒らげたは、はっとして口を噤んでから、自分が佐助の口車に乗せられた事に気付いた。
場所は自室、障子や襖はぴったりと閉められて、完全な密室。
そこでは、楽しげに笑う佐助の下敷きにされて、身動きが取れなくなっていた。
のし掛かってくる彼の体で足の自由は封じられ、抵抗が出来る腕でも、男一人を押しのけるだけの力は無い。
一瞥しただけでも不穏な状況だと分かる。
その体勢で行おうとしているのが「手当て」だと佐助は言うのだが。
まともな意味を持っているものだとは、到底には思えなかった。
「うっ……」
温かく湿った感触が顎の下を這っていき、は身を震わす。
妻女山にて、「かすが」と呼ばれたくノ一につけられた切り傷を、佐助の舌が何度も舐め辿っていくのだ。
川中島の本陣に帰還して、この傷を見咎めた佐助が問うてきたので、何の気もなく正直に答えたのだが。
その時は何もなかったものの、今になってこんな事態に進展してしまっているのを見る限り、間違った選択をしてしまったらしい。
体の自由を奪われている事と、傷口を舐める舌の動きに羞恥の心が沸き起こり、顔が紅潮してくる。
佐助がの首筋に顔を伏せている為、赤くなった顔を見られていないだけまだましだ。
「…かすがの奴、何も顔の近くに傷付けなくても良いだろうが…」
早く離れてくれる事を祈ったの耳に届く、佐助の呟き。
恥ずかしさに強く瞑っていた目が、はたと見開かれる。
ちらりと、佐助に視線を投げた。
頭は首の辺りに相変わらずあるが、舌は離れている。
何だか
胸に引っかかるものがあった。
佐助が口に乗せた、「かすが」という名前に。
他の者の名を呼ぶ時とは違う響きが含まれていたように感じるのは、自分の気のせいだろうか。
どのように、とは明言できない。
感覚的なものであったから、名言出来るような理由はないからだ。
胸の奥に、言い得ぬ蟠りが生じる。
の視線の先で、束の間、佐助の目が宙を見据える。
窺うような表情を見せていたが、それがふとへと向けられる。
「……残念だけど、ここで時間切れのようだな」
「佐助……」
「口惜しいのは分かるけど、そんな顔するなよ」
「誰が!!」
思わぬ言いがかりに声を荒げる。
そうして大きな声を出したのと同時に、抵抗の意志も甦り、脱出しようともがいていると、佐助の苦笑する音が聞こえた。
刹那、佐助の姿が何処へともなく消え、
「殿、おられるか?」
障子に影を映し、部屋の中へ向けて勘助が声をかけてきたのだった。
急に自由を得た為、抵抗していた足が空振りする。
中途半端に足を上げて、きょとんとした顔のまま、は障子へと目を移す。
こういう事だったのか
佐助の言う「時間切れ」とは。
この部屋へ近付いてくる者の気配があったから、「手当て」を切り上げて姿を消したのだろう。
人が来なければ、いつまででも続ける気があったに違いない。
は、訪問者の勘助に救われた事になる。
「…助かった……」
「殿?おられぬのか?」
「いえ、います!少し待って下さい」
心の底から勘助に感謝しながら、慌ただしく身を起こす。
鏡台の前まで這い寄り、乱れた箇所を直してから、障子を開けて勘助を迎える。
その様子を、天井裏で不満ありげに見下ろしている佐助には、気付かなかった。
了
はい、思っていたより長くなってしまった『鴻飛天翔』川中島編でしたが、無事ここに完結とあいなりました!
ここまでおつきあい下さった方ありがとうございます!
割と見切り発車の感が満々だったお話ですが、無事に終わって良かった良かった……!!
謙信公は、ヒロインが女だという事に気がつきました(何か変な言い回しだな)
でもその事実を公にはしません。「鳥」としてのヒロインを気に入ったから。
あと、色々思い悩むかすがが可愛くて仕方ないんだと思いますはははは。
勘助パートに関しては、第九話で、ピンチに瀕した勘助がヒロイン視点の時に普通に登場した部分の謎解明。
史実がああなので、せめて戯の夢では生き延びて欲しかったんです……!!大河ボロ泣き!
それはそれとして、第一部のヒロインと同じく、勘助も生きて責任を取れとお館様に言われました。
ヒロインが罪を負ったというのは秘密にされてるので、勘助は同じ処断を下された事は知りません。
それで良いんです。それがお館様クオリティ。(何だろうそれ)
そしてやっぱりうっかりやっちまいました佐助の出来心。と書いて戯の出来心とも読む。
顎の下の傷はここへの伏線でした。
傷舐めるとかお前佐助なんて破廉恥……!!とか思いながらちょっと楽しかったのは内緒。
そんな状況で、ヒロインが佐助の「ある言葉」に引っかかってましたが、これは別のお話への伏線です。
近い内に書くと思いますが、それまで思いを巡らしていて下さい。
それでは最後になりましたが、『鴻飛天翔』川中島編これにて終了でございます!
この後書きまで読んで下さった方、ありがとうございました!!
2008.4.2
戻ル×目録へ