鴻飛天翔 こうひてんしょう ―剣の舞―










 合戦場を包み込んでいた独特の熱気が、すっと冷めた心地がした。
実際に気温が下がった訳ではなく、ただ一人の将の登場に、兵が発していた熱気がそれぞれの内へ戻ったといった方が、感覚的には正しいかも知れない。

背に「山本勘助」の佐助をかばうは、呆然とその将に見入った。


「かすが、ご苦労でしたね」
「け、謙信様……っ!」


今まで対峙していた者と、突如として馬に跨り現れた者。
双方、同じ姿をした二人が言葉を交わしている。

見た目には何ら違いはない二人の姿に、どちらがどちらなのか一瞬戸惑ったが、呼び合う名前が違った事で何とか平静を保つ。
そして、その呼び合った名前の片方に、は反応を示した。


      謙信


「上杉……謙信か」


神速聖将、越後の龍。
甲斐武田と過去三度にわたり、この川中島の地で合戦を繰り広げてきた、宿命の相手。
馬で現れた方の将が、その名で呼ばれていた。

動物の耳にも見える頭巾を被り、青と白の二色で統一された戦装束、細身の体に整った面立ち。
馬上と徒歩かちとで並び、言葉を交わす二人の姿形は、全く見分けがつかなかったけれど。

はすぐに、後から来た「謙信」こそが、本物であると悟った。


      存在感が違いすぎる


現れた途端、その存在の強さに、たちまちに目を奪われてしまった。
総大将ともなる者だけが持ち得る気配、とでもいうのだろうか。
それは、戦場で雄々しく軍配を振るう信玄と同種の印象を覚えさせられた。

体躯も、何もかも似ていないというのに。


「……申し訳ございません、謙信様。山本勘助が首、討ち取れませんでした」


引き寄せられてしまった眼差しの向こうで、今までと対峙していた方の「謙信」が、馬で現れた「謙信」に向かい詫びる。
その直後、先にいた「謙信」が不意にその場で回転し出し、一拍の間の後、その姿が全く別のものに変わっている。

ぴったりとした、胸元と腰の辺りが大きく明いている、黒い装束。
日の光も透けるような薄い色の髪。

妻女山で刃を交えた、あのくノ一である。
忍の術で、上杉謙信に姿を変じていたのだ。

その変装の見事さに、あのくノ一であると気づけなかった。
驚きにが小さく声を上げると、それを聞き留めたか、くノ一の目がちらりとこちらを向いた。


「良いのです。この戦、そなたは十分、働いてくれているのですから……」
「謙信様……」


「謙信」が、馬上からそっと手を差しのべ、くノ一の顎へ添える。
手の動きに促されるまま上向いたくノ一の視線は、陶然と「謙信」を見つめている。

距離は離れていたが、一連の流れを目の前で見ていたは思わずたじろいだ。

未知との遭遇である。
あの二人の周囲だけ妙にきらきらと輝いているように見える。


      何だあそこに漂う雰囲気は


理解の範疇をゆうに超えていったものを、凝然としてみつめていると、


「……そこな者は、もしや……」


不意に、謙信の目がを捉えた。
二人の世界に入っているものとばかり思っていたは、声をかけられていることに気付かず、反応が遅れてしまった。


「……『鳥』に、ございます。謙信様」
「ほう、やはり……。話に聞く通りですね。服も、得物も」
「…………!!」


くノ一の答えを聞くや、馬を下りる謙信に、我を取り戻したが警戒を強める。
謙信は悠然とした足取りながら、まっすぐこちらに向かってきている。

刀を、交える事になるのだろうか。
一軍の総大将であり、甲斐武田と並び立つ程の相手と。

太刀筋は知らぬ、けれど強いという事だけは確実に分かる。

そんな相手に切っ先を向けられて、果たして自分は耐えうるのか。
分からなかった。
が、背後には、未だ起き上がる気配のない佐助がいる。
ここから退く事は許されない。

じり、と地を踏みしめる足の力が増す。

ゆったりと、歩いてくる謙信は、




ふ、と姿を消した。




否、消えた訳ではない。
目に止まらない速度で移動しただけだ。

不意を突かれたが、驚いている暇はない。
風を切る烈しい音と共に、目がそれを認めた時には、謙信の姿は、彼の刀の間合いに入っていたからだ。

驚異的な速さは、まさに「神速」。
更に、それよりもなお速い一撃が繰り出されるのを感じ、は咄嗟に、刀を縦に構えて体の正面に立てた。

刹那、今までに聞いた事のないような甲高い金属音が耳に届き、
信じられないくらい重い衝撃が、の腕を襲った。


「………っっ!!!」


歯を食い縛り、足を踏ん張る。
腕に喰らった衝撃で、ともすれば吹き飛ばされそうになるのを必死に耐える。

刃が噛み合った音の余韻が失せ、一瞬の空白。


「……よくぞ受け止めました。良い目をお持ちですね、白き鳥よ」
「………勘だ」


穏やかで柔らかな、謙信の声。
間近で、囁かれるように言われたは、食い縛った歯の隙間から絞り出すようにしてしか答えられなかった。


居合。


謙信の一撃を受け止めて、初めてその技が何であったのか知った。

助走をつけただけの、純粋な居合抜きだ。
ただし、の目で認める事は不可能な、人知を超える速さで繰り出されたもの。

刀を縦にして正面に構えたのは、防御の為などではなく、全くの偶然であった。
刀を抜き放つ手元の動きが全く見えなかったのだから、対処の取りようが無かった。

もし繰り出されていたのが居合ではなく、突きなど、他のものだったら。
その刃は間違いなく、この体を引き裂いていっただろう。


「……っは……」


極度の緊張。
鎮まりかけていた呼吸が、自然、再び荒くなる。
重すぎる一撃に手が痺れて、刀を握っている感覚が分からない。

次の一手が、この至近距離で繰り出されたとしたら、おそらくは防ぎきれない。

は固唾を呑んだ。
目の前にある端正な顔が、ひどく恐ろしく思えた。


「……此度は、この一合で止めておきましょう」
「…………は…?」


だが、意外な事に、謙信がそこで刀を収めてしまうではないか。

刀身にかかっていた力が失せ、刃先が前へと押し出た時、は次に来る一撃を覚悟して身構えていた。
しかし、声に出したように、謙信はそれ以上刀を向けて来ようとはしない。

何が起きたのか、一瞬分からなかった。


「わたくしの剣に、似ていますね、貴方」
「……?」


呆然としていた所へ、謙信から微笑が向けられる。
緊張と疲労とで、呼吸音ばかりが出てくる喉は、問いかけるのに役立たない。

だから目で、何が、と。
何に似ているのか、剣とは何かと、問う。

答えは無かった。
代わりに、ふと空に視線を投げながら、小さく呟く。


「…あの方と剣を交うる事もままならぬ内に、引き上げなければならないようです」


謙信の眼差しが外れて、ようやく体が自由を取り戻す。
その時になって認識したものは、遠くから響く法螺と陣太鼓の音。

の目に生気が宿る。

両陣営の喚声をかいくぐって、何者かが喚く声も聞こえてくる。

武田軍別働隊が、妻女山より到着したと、その声らは言っていた。

それとほぼ同時に、足許でも物音。
はっとして、視線だけでそこを確かめ、目を丸くした。


「佐助……!!」


先程まで倒れ伏していた佐助が身を起こし、膝をつきながらではあるが、武器を構えていた。
変化は解け、顔色は幾分か青白く、額からは少し出血している。
しかし大事は無さそうなのは見て取れ、は静かに、安堵の息を漏らしていた。


「そこの忍が、大事ですか」
「!!」
「ふふ……ならば、貴女が剣となってその者を守りなさい、美しき鳥よ」


思わぬ事を言われ、視線を前に戻す。
謙信は、殺気のない背を向けて、この場を去ろうとしていた。

殺気はない、が、隙もない。
その背にすら、大将格の威とも言おうか、自分には及ばない位置にある何かを感じさせられる。
斬りかかる事は叶わないだろう。

は一時、刀の柄を握る手の力を強くし、切っ先を振るわせたが、やがてゆっくりと下ろした。


くノ一が控え、その傍に待つ馬に跨るや、謙信は、


「挟撃される前に退きます!全軍、わたくしに続けぇっ!!」


丸みを帯びた、よく通る声で、撤退の令を布いた。
真っ先に、らの周囲を取り囲んでいた上杉の兵らが動き出す。
脇を通り過ぎていく時、彼らの強い視線がの身に突き刺さっていった。

次第に伝令が伝わっていったのか、上杉本陣がある方向から陣太鼓の音が聞こえ、川中島の地を一万数千の足音が支配する。

の前の前で、上杉軍総大将上杉謙信は、悠然と馬首を返し走らせていく。
その後ろに、かすがと呼ばれたくノ一が従う。

上杉の総撤退。
その事実を前に、はただ二人の姿を、呆然と見送っている。















 上杉謙信らの背が遠くなり、周囲から敵の姿も失せる。
そこで初めて、佐助は構えていた武器を、脱力するように下ろした。
深い溜息も同時に吐き出している。


「っつー……効いたなぁ……」


謙信に扮したかすがが放った一撃の余韻がまだ残っていた。
膝をついた状態で、上半身がぐらぐらと左右に揺れているような心地がする。

まさか受けるとは思っていなかった攻撃。
なかなかに強烈だった。

額に手を当てて俯き、目を閉じて回復を待つ。
そうして暗く閉ざされた視界の中、何かが崩れ落ちるような音を聞いた。

片目だけ開けて様子を見、音の正体を確かめる。
途端、佐助はぎょっとして両目を開いていた。


「…っ、、大丈夫か?」


隣で、力が抜けたように座り込んでいるがいた。
彼女の目は茫洋と、謙信が去って行った方を追っている。

尋常でないその様子に心配になり、自分が負った一撃の事も忘れて、無防備な肩に手を掛けて軽く揺すれば、


「あ……」


短い、吐息のような声と共に、眼差しが佐助を捉えてくる。
視線がかちあった所でもう一度、大丈夫かと声をかけ直した。

武田信玄と過去三度に渡り争い、三度とも引き分けた相手。
それを前にして、気圧されてしまったような雰囲気だった。
刀を取り落としていない分、まだ気は保てている方だと言えよう。


「怪我は……無いな。腰でも抜けた?」


焦点の定まらない視界。
それでも、がこちらを向いている事だけは分かったから、敢えて何事もないような口調で話しかける。
しかし返事がない。
訝しく思ったのも束の間で、再び口を開くより先に、揺れる視界に白いものが近付いてきて。

それがの着物の色だと分かった時には、佐助の頭は彼女の胸に抱きとめられていた。

頭に伸ばされた腕が絡められ、抱き寄せられる。
それに合わせて佐助の体勢が崩れ、の胸に飛び込むような形になった。

顔にの体温を感じて、佐助は目を瞬く。


「佐助が……死んだかと思った……」


生きてて良かった、と、安堵の溜息混じりに耳へ吹き込まれる呟き。
腹の底から湧き出るような感慨を滲ませた、その声音。

自分から触れてくる事すら稀なのに、頭を抱えられた今のこの状況を、佐助は一時理解しかねたのだが。
その一言で、生じた疑問は一気に氷解した。

かすがの攻撃を喰らい落馬する佐助を、は何処かから見ていて。
倒れ伏す佐助の身を案じ、心配して、駆け付けてきた。

そう考えるのが、の呟きから推測できる理由としては最も妥当だ。
心配してくれたのかと確認してみた所で、否定されるのが関の山だろうが。

抱かれた腕の中、の鼓動が微かに聞こえる。
戦の喚声は既に遠い。
佐助の、戦忍としての部分も、今この一時だけは宥められていく。

目を閉じた。

佐助の頭を強く抱いて離さないの背へ、ゆっくりと手を回し、あやすように撫でる。


「ん、俺様生きてますよ。もう大丈夫だから、落ち着いて頂戴」
「私が見てる先で落馬してくれるな……胆が冷えたぞ…」
「何かすごい理不尽な気がするけど、ごめんなさい。もうしません。」
「……軍神の相手は、やっぱりお館様じゃなきゃ駄目だ…」
「ん、打ち合ってみた結論ね。それが賢明だろうね」


の腕の中で、理不尽な苦情と、軍神へ抱いた結論を聞きながら、


「…佐助が………」
「ん?」
「勘助殿のまま、討ち取られなくて良かった……」


交わす会話の中に見いだせる心情が、心地よくて。

佐助は小さく笑んだ。




















謙信と打ち合ってみて、あまりの神速聖将っぷりにもうゴメンだってな気になったヒロインでした。
うちの子は強いは強いけど最強じゃありません。
その代わりもっともっと高みを目指してくれる事を切に願います生みの親として。

油断大敵佐助。
今回は佐助とかすがとの間にレベルの差という大きな壁が立ちはだかってたんだと思います。あーあ。
そのお陰で最終的にちょっとだけ美味しい思いが出来たんですが。

2008.3.25
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