鴻飛天翔 こうひてんしょう ―剣の舞―
勘助の視線の先で、「山本勘助」に変じていた猿飛佐助が、敵の刃を喰らった。
あれが誰であるかとのの問いに答えていた最中であったので、二人の目は丁度彼の方を向いていた。
二人は、攻撃を受けて落馬する、丁度その瞬間を目にした事になる。
勘助は一瞬、疾走している為に常に流れていた己の周りの空気が、凝り固まったように感じた。
馬の背から崩れ落ちる、佐助の「勘助」。
凝然とし、思わず馬の足を止めた勘助は。
同時に、進行方向を変えて佐助の許へ向かわんと走り出すの姿も、捉えていた。
思いもよらず、更にぎょっとする。
「ま、待たれよ殿!!」
反射的に転び出た制止の声は、最早には届いていない。
届かない距離であった。
走り出したのを認めてから声を掛けるまで、そんなに時間は空かなかったのに、の背は群れいる敵味方の兵の向こうにある。
戦場でのが速いという話は常々耳にしていた。
が、勘助が、彼女の全力での走りを直に目にしたのは、これが初めてである。
戦には不向きに思える長い袖が、風を孕んで鳥の羽のように広がる様や、その速さ。
『鴻飛幽冥』。
走る姿を見て、まさに「鳥」の二つ名を冠するに相応しいと感じた。
兜を弾かれ、衝撃で落馬した男へと、かすがは馬から下りて歩み寄る。
命までは届かなかったこの刃を、確実に相手へ届ける為に。
「この姿」でいるからか、群がっていた上杉勢は遠巻きにして様子を見守っている。
道が開けて、歩み寄る手間が省けて都合が良い。
そして、男の傍へ立った。
と、見下ろした所で、男に何と無い違和感を覚える。
確認の為に、俯せた男の顔をつと持ち上げ、見つめる。
「っ!!」
「……両目がある。山本勘助ではありませんね?」
持ち上げて眺めた顔の目鼻立ちは、山本勘助そのものではあったが、「隻眼」という一番の特徴が、この男には無い。
本人に見紛う程よく似てはいるけれど、両の目があるという事は、この男は全くの別人だ。
影武者。
だとしても、顔立ちまでそっくりな人間をつれて来るのはなかなか難しい。
とすれば こいつは
忍が化けたもの、と考えられる。
かすがは顔を歪ませた。
武田に仕える忍で、ここまで高度に変化の術が使える忍は数える程度。
その中の誰とも分からなかったが、かすがにはこの「山本勘助」に、ある種の予感めいたものを感じていた。
「………無様だな、猿飛」
声色を元に戻し、「彼」に接する時の常のように言い放つ。
恐らく頭が揺れていて、満足に喋る事も出来ないだろう「山本勘助」が、ぴくりと反応を見せた。
どうやら思った通りであったらしい。
これは、猿飛佐助だ。
本当に 無様だ
里でも一、二を争う使い手であった男が、こうして自分の足許に伏している。
佐助の事をを認めた訳ではなかったが、それでも彼の忍としての腕には一目を置いている。
そんな男が、自分の、何の細工もない一刀に不覚を取られるなど。
佐助を倒した嬉しさなど何処にもない。
あるのは不甲斐ない男への、言いようのない怒り。
知った相手であっても、見逃す気は無かった。
山本勘助ではなかったが、この男を討ってこそ得られる物もある。
「長光」を、握り直す。
一陣の白い風が、突如として視界に飛び込んできた。
「!?」
咄嗟に、男に切っ先を定めていた長光を眼前に立てる。
刹那、火花が散るかという程の激しい剣の響みが、瞬きの間に起こり。
その向こうで、鬼気迫る目をした一羽の「鳥」が、こちらを見据えてきていた。
速い
「それ」が視界に入ってから、刃が届くまでの時間はごく僅か。
それ程の速さに全体重を乗せて、鳥は渾身の突きを放ってきたのだ。
かすがが構えていた以上にその攻撃は大きく、重い。
「くっ……!」
たまらず大きく後ろへ下がり、衝撃に痺れる手で長光を構え直した。
迎撃の体勢を整えてから、かすがは改めて相手を見直す。
白い着物、黒い袖、濃藍の袴に、髪を高く一つに結った姿。
手にする刀の唐紅の房からも、その鳥は妻女山で相見えた『鴻飛幽冥』に間違いなかった。
もう下りてきたのか
そう思い、軽く舌打ちするのと同時、鳥の息が随分と荒い事にも気付く。
刀を下段に構え、低くした姿勢で、肩で息をしている。
余程下山を急いできたのか、または何か別の理由か分からないが、ともかく、鳥が極度に疲労している事だけは確かである。
「随分と疲れているようですね……その状態で、わたくしに刀を向けるおつもりですか?」
鳥は荒く呼吸を繰り返すだけで答えようとはしない。
答える余裕も無いのかも知れない。
その時、一人の上杉軍兵士が、手柄に逸ったか、喚声を上げて鳥へ向かって走り出した。
「かすが」が「山本勘助」に手を下せなかったのを見て、ならば自分が、とでも思ったか。
「勘助」の前に現れたいきなりの乱入者に、まず狙いを定め、駆け寄せ。
風のような一刀で、斬り伏せられた。
一瞬、場が凍り付く。
ただし、斬り付けられた兵はまだ命があった。
袈裟懸けに斬られ、地面を転がり絶叫する男へ、鳥のもう一刀が落とされる。
突き立てた刃の下で男が事切れたのを確認すると、鳥は大きく息を吐いた。
「生憎……走りすぎて疲れていてな」
屍を下敷きに突き立てられた刀に、縋るように立つ姿に、勝機を見いだしたか。
目の前で味方が斬られている事も忘れ、再び数人が鳥へと向かう。
鳥は、有無をも言わさずこれを斬り捨てた。
それも、それぞれ二度ずつ。
初撃で兵の動きを止め、次の一刀で刃は命へ。
「一度で黄泉路へ送ってやれないんだ……許せよ」
的確な攻撃をしていてなお、疲れているので調子が出ないのだという。
これが『鴻飛幽冥』、戦場にて死を導く白い鳥か。
かすがだけでなく、取り巻いていた兵の全てが、その太刀筋に飲まれ、息を呑む。
「それでも良いなら、来い。……ただし、この男には指一本触れる事許さない」
体躯は小さい。
けれど、この存在感は何だ。
力のこもらない、重々しさもない響きの宣言に気圧され、兵はおろか自分さえ前に足を踏み出せないでいる。
先程刃を交えた時と今の「彼」とでは、何かが違う。
近付く事すら許されない、近付いたら知らぬ間に呑み込まれてしまいそうな、どこか虚ろで、しかし圧倒的な迫力がある。
妻女山では感じられなかったその迫力は、一体どこから来たものか。
あいつを
守っているからか。
前回との違いを挙げるなら、それぐらいしか考えつかない。
疲労の色は濃く出ているが、それでも敢然として男の前に立っているのは、退けない理由がそこにあるからだ。
彼の存在がある限り、鳥が膝を屈する事はないだろう。
たとえどんなに自分が傷つこうと、男が自分の背にいる間は、死そうとも立ち続ける。
そんな気迫があるように思えた。
何故そこまであの男を守ろうとするのか、かすがには分からない。
けれど。
その姿は、どこか自分と似ている気がした。
近付かせる隙は見せてこないが、しかし鳥の許まで近付かなければならない。
じり、と足を僅かに前へ。
一瞬で良い
疲労で注意が疎かになるのでも、天変地異が起こるのでも構わない。
僅かな隙さえ出来れば、刹那の間に距離を詰め、長光を振る事が出来る。
もし鳥には届かなくとも、未だ回復しきっていないあの男なら、討てる。
合戦の声がどこか遠くに聞こえる。
自分と、鳥と、男と、取り巻く兵達と。
それだけが戦場から離れ、別の境地に来てしまったかのような心地の中での、睨み合い。
無限の刻が続くかと思われたのを破ったのは、
「かすが、もう宜しい。剣を引きなさい」
不意に意識へ入り込んできた蹄の音と共に現れた、凛として穏やかな声。
背後から聞こえたその声に、かすがは振り返るよりも先に、胸が締め付けられるような思いがした。
姿を見ずとも分かる、その麗しき姿を、振り返って視界に収める。
それはかすがにとって、麗しく高貴な己が主。
上杉軍総大将、神速聖将・上杉謙信であった。
あれ?やっぱり短い。段々一話毎の長さが分かんなくなってきましたよどうしたもんだ。
今回のお話はかすが目線がメイン。
かすがの目から、危機に駆けつける格好いい漢前ヒロインを書きたかったのでした。
2008.3.10
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