しとしとと雨が降り続いている。
かの男が現れて一昼夜経った今も、雨は止む気配を見せない。
ひたすらに、止めどなく。
まるで今のの心がそのまま天候として具現しているようだ。
現在の空模様の如き思いを胸に抱く娘のいる部屋のドアの前で立ち止まる。
憂う気持ちのままに表情を曇らせたテスタメントは、じっと空を見上げていた。
雫
控えめにノックをすると、中にいる気配が動くのを感じた。
僅かな音に驚くような……怯えるような。
前者の理由ならば苦笑の1つでも零して済まそうが、今の場合は十中八九後者。
テスタメントの眉間に苦しげに皺が寄るも、ここで引く気はない。
進めば何かが変わる訳ではないが、少なくとも動かなければ何も変わらないのだから。
「……入るぞ」
相手を刺激せぬよう、かける声もドアを開く音にさえも細心の注意を払い、中に足を踏み入れる。
そして、見つけた。
ベッドの上で膝を抱え、顔を伏せ小さくなるの姿を。
彼女の服の下には痛々しくも包帯が巻かれている。
ソルに受けた傷の手当てをした結果だ。
テスタメントは微かに憂いの表情を見せ、そっと歩み寄る。
「そんな体勢では傷に響く。ちゃんと寝ているんだ………」
静かに諭そうとする声音に、初めて僅かにが顔を上げた。
先日まで顔の右半分を覆っていた長い前髪がない。
傷の手当てをする際に理由を聞いたが、分からないのだとか細い声で返ってきたきりだ。
恐らく、の意識がない間にソルが切ったのだろう。
……理由など分からないし、分かりたくもないが。
ただ1つはっきりしているのは、がギアである事を示すたった1つの証拠を隠すものが失われてしまったという事。
の目は、すぐ横にいるテスタメントには向けられることなく、ベッドのただ一点に固定されている。
「………母さん達の願いの証が、なくなっちゃった」
ぽつりとこぼされた一言に、それがどうしたのかとテスタメントは心の中で問う。
意識を取り戻した直後にも同じような事を言っていた。
ソルに奪われたのだと、テスタメントは既に承知している。
なのに、何故今再び口にするのか。
テスタメントの抱く疑問の答えは、次の瞬間みるみるの目に溢れた涙と共に示された。
堪えきれずこぼれ落ちた一筋の涙をきっかけにして、次々と涙の雫が零れ始める。
「あれがあったから私は今まで生きてこれたのに………!!」
周りの者が歳を取って死んでいく中、自分だけはその全てを老いぬまま見守り続ける。
それは永遠に近い孤独。
責め苦。
大事なものを得ても必ずまた失っていく。
決して自分は強くない。
その中で行き続ける事のどれほど辛く苦しい事か。
それでも今まで死のうと思わなかったのは、両親との約束があったからだ。
生きろと、その願いがあるだけで、単純にも生きて行けた。
生きろと、その言葉と共に与えられたあの銃に、両親が自分を守ってくれているという絶大な安心を得ていたから。
その生きる力とも呼べるものがなくなって、これから過ごす時に耐えられるとは到底思えない。
「あの人達の意思が形として残っていたから、私は生きてこれたのに……」
噛み殺した嗚咽が悲しい微笑に変わる。
話を黙って全て聞いていたテスタメントは、諦念がありありと浮かぶの表情に、胸が締め付けられるようになった。
親の思いを失って、生きる事への執着を放棄した。
このまま放っておけばきっと、はひっそりとここを離れ、死ぬ場所を探しに行くだろう。
何故そんな事を言うのだ。
お前が生きる事を望んでいるのは親だけだと、本気で思っているのか。
に抱くその思いは怒りにも似ていた。
そして刹那、テスタメントの心に、彼女の言葉に猛然と抵抗の意志が芽生える。
「……っ、テスタメント………?」
「お前は………間違っている、」
気付けば頭で思うより早く、の体を抱きしめていた。
腕に易々と収まる小さな体は、衰弱しているせいもあってか折れそうなほど儚く感じた。
鼓膜を打つ優しい声が悲しむ心を宥めていくのを感じながら、しかしはその言葉の意味が分からない。
何が間違っているのだろう。
問いかけは声にはならなかった。
ふとは、自分を包む腕の暖かさに酷く安心している事に気付いた。
テスタメントの手がしっかりと頭まで抱き込んでいる為、表情は窺えない。
「私とて、お前に生きて欲しいと願っている」
「………私………」
「……お前がいるからこそ、救われた部分も多々あるんだ」
「……え……?」
静かに、テスタメントが離れていく。
部屋を出て行く後ろ姿ばかりが見え、彼がどんな顔をしているのか分からなかった。
『救われている』、その言葉の真意を訊こうと、は彼の名を呼ぶ。
足を止めたテスタメントが、肩越しに僅かに振り返り。
「………生きろ」
ごく簡潔に、それだけ口にし、以降は何も言わず部屋を出て行ってしまった。
は半ば呆然として、テスタメントの去ったドアをしばらく見つめていた。
しとしとと降り続ける雨は、時の経過を忘れさせる。
テスタメントは何かから逃れるように黙々と読書に耽っていた。
自分の言葉がにどのような、どの程度の影響を与えられるのかはまるで分からない。
それでもあの場は、ああ言わなければ気が済まなかったのだ。
そして、その行動の結果を知るのを恐れている自分がいる。
読書に集中しているのはそれが理由だ。
軋む音が雨声の隙間を縫って空間に響いた。
反射的に文字の羅列から顔を上げ、音のした方を見たテスタメントの顔に宿るのは……微かな驚き。
「………」
未だあまり自由には動けない筈のが、ドアを開けてそこに立っていた。
相当無理をしているらしい。
戸口にもたれかかって体を支えているが、全ての付加が加わる両足が小刻みに震えている。
表情にも確かに苦痛の色が見て取れた。
そんな状態で、どうしてベッドから起きてくるのか。
テスタメントは大人しく寝ていろと言おうとして立ち上がる。
が、体を支えきれなくなって座り込んでしまったに、結果的に慌てて駆け寄る事になってしまった。
「大丈夫か?」
「うん……平気」
「無理をするからだ。早くベッドに………」
「テスタメント……聞いて」
体を支え、部屋に戻そうとするテスタメントを、の意外にしっかりとした声と眼差しが止めた。
視線を交わらせると、赤と黒の瞳が微かに揺れながらテスタメントを見ている。
「これからも、テスタメントの傍にいたい……」
今にも泣き出しそうでありながら、その瞳の奥底には強い意志の光が垣間見られる。
の手が何かを求めるように宙を彷徨い、やがてテスタメントの服の裾を握った。
声音はひどく小さい。
しかし雨音に掻き消される程ではなく、全てがテスタメントに届いた。
「あなたのさっきの言葉………信じても良いでしょ?」
テスタメントは自分に、生きろと言ってくれた。
両親との絆の証でもある銃を奪われ、光差さぬ闇に放り出されたような時に与えられたかすかな希望の光。
両親の位置が大半を占める心にじわりじわりと入り込んで、確かな存在となっていた相手から、それは与えられた。
にとってテスタメントの言葉は、両親の願いと同等以上の価値があったのだ。
そして彼の言葉に縋る。
たとえただの励ましだったとしても、テスタメントの言葉は、それだけでから『死』の選択肢を綺麗に取り除いてしまった。
テスタメントをじっと見つめる目が瞬く。
拍子に、涙が一筋頬を伝った。
実際はこうしている間も怖くて仕方ないのだ。
今の自分の感情は、己の『生』の重さもかかって途轍もない重圧を与える。
それをテスタメントに拒まれれば、の『生』は行き場を無くしてしまう。
一度は再生した『生』が結局朽ちてしまうのだ。
はそれが怖かった。
そして、彼女のその思いは痛いほどテスタメントにも伝わった。
真っ直ぐ目を向けてくる、その奥に隠された怯えたような心が見えるようで、テスタメントは苦笑する。
そして杞憂だと言い聞かせるように、優しく指の腹で涙の跡を拭う。
私はお前を、拒みはしない。
「あぁ、信じろ。いつまでも、ここで、私の傍で………生きろ、」
お前が生きる為ならば、私はどんな事があっても必ずお前を守ろう。
最終話に向けてラストスパート。
後一話にて簡潔ですので、もうしばらくお付き合い下さいませ。
戯
2006.3.15
戻ル×寝室ヘ×進ム