「終わったぜ」
告げた声と共に離れていく気配を感じながら、はそっと目を開けた。
両側には高くそびえ立つビルの壁面。
その合間の狭い道に、は座り込んでいた。
目を開けて正面に見えたのは、黒服の青年。
学生帽に学ランを来ているので、恐らくは学生という事で間違いはない。
子供程の目線の高さで見上げるこちらに対して、高い身長で佇んだままの青年の眼差しはなかなかの迫力であったが、
それに対して怖い、恐ろしいという感情は今この時に於いては湧いてこなかった。
頭がぼんやりとしていて重い。
この感覚は朝起き抜けの、思考が働かない時に似ていた。
青年の鋭い眼差しに思うものがないのも、恐らくはそれが原因だ。
こめかみに手を当てて軽く頭を振っている傍に、誰かが膝をついた。
先程の青年ではない。
ローブを纏った、浅黒い肌の男だった。
「その手で触ると汚れてしまうぞ。手当をさせてもらっても良いだろうか?」
答えるよりも先に、男がの手を取った。
一回りは大きく武骨な手に乗せられて初めて気が付いたが、自分の手の甲に小さな穴が開いていた。
傷口は真新しく、流れ続ける鮮やかな血で濡れている。
自覚した途端、それまで何ともなかった傷口が疼くように痛み出し、つい眉を顰めた。
その間に、男が取り出した布で傷口を清め血を拭っていく。
手当はてきぱきとしたもので、数分の後には両手の包帯を巻き終え解放された。
「血が止まるまではこのまま我慢してくれ。きつすぎないか?」
問われて、何度か手を握って具合を確かめる。
動かしにくくはあったが、必要以上の締め付けはない。
「大丈夫そう、です」
「そうか。それなら良かった」
「ありがとうございます……」
男に手当の礼を述べつつ、釈然としない思いがの胸に湧く。
傷は浅くはない。痛みもある。
こんな妙な怪我を手に負ったら、すぐに気付くだろうに。
「私、何でこんな怪我したんです?」
「それは……」
「それは名誉の負傷というやつかのう」
ローブの男に尋ねたつもりだったが、別の声が帰ってきた。
男の背後から、更に別の男が進み出てきていた。
白髪頭に帽子をかぶり、髭をたくわえた老人である。
背筋は伸び声にも張りがあり、老人と評するには躊躇う程に矍鑠とした人だった。
この場で見かけた中では一番の年長者だ。
「何が起きたのかこっちも完璧に把握した訳ではないが、君は肉の芽の支配に抗ったんだ。そしてその傷を手に受けた」
ローブの男が老人の為に少しスペースを空ける。
対面した老人の背は高く、その目を見上げながら、は少し首を傾げた。
「にくのめの……触手?」
「肉の芽の支配に抗った人間の話は今まで聞いた事がない。
単なる偶然か、それとも君の精神力が余程強靭だったのか……あー、君、名前を教えてくれないか?」
「……です。」
「おお、アジア系の顔立ちだとは思っていたが、もしかするとくんは日本人かね?」
「ええ……」
「そうかそうか。わしはジョセフ・ジョースターという。
わしらの仲間にも日本人がおってな、彼も君と同じく、肉の芽に洗脳された経験があるんじゃが……」
老人はジョースターと名乗り、背後に目を向ける。
視線を追うと、少し離れた所に、アシンメトリーの髪型をした学生服の青年がいた。
彼がジョースターのいう日本人だろうか。
目が合った青年に軽い会釈をされ、もつられて会釈を返す。
「わしらは訳あって、そこにいる花京院やくんに肉の芽を植え付けたDIOという男を探している。
もし君がDIOについて知っている事があったらどんな情報でもいい、教えてくれんか?」
ジョースターの僅かな声質の変化を感じ取り、は視線を戻す。
それまでの親しみやすい雰囲気の中に、真剣の色を帯び始めていた。
近くにいるローブの男、それから少し離れてこちらを見る学生服の青年二人の目にも、同じ色がある。
皆が一様に、に何かを求めている。
その事が分かって少しだけ怯んだが、それでもは、自分が今分かっている事を正直に告げた。
「ごめんなさい……ディオなんて人、私は知りません」