手から滑り落ちた水差しが大きな音を立てて台に衝突する。
硬質な響きと共に、内部で水の跳ねる音がしてぐらりと傾いたそれを、は慌てて両手で支えた。

満ち満ちた水が揺れる感覚が手の平に伝わってくる。
台一面を水浸しにする大惨事は避けられたようだ。

ほう、と安堵の息を吐きつつ、は首を巡らしてアンに視線を投げる。

「……アンちゃん、今何て?」

努めて冷静であろうと声のトーンを押さえながら、訊き返す。

つい動揺してしまったが、きっと自分の聞き間違いか何かだ。
まさかこんな、幼気いたいけな少女がそんな台詞を吐く訳がない。

むしろ聞き間違いであって欲しいと、アンの言葉を待つへ、

「何も全部脱がなくても良いのよ。ちょーっとTシャツの裾たくし上げて思わせぶりなポーズでもしてみせれば、
大抵の男はコロッといくから!」

返されたのはしたり顔の笑みと、の耳が利き留めた言葉を肯定する補足説明だった。

何ともストレートな物言いの子だ。
父親に会う為とはいえ、この歳で香港からシンガポールまで一人旅をしようというぐらいだから、
元々早熟の気はあろうと思っていた、けれど。

早熟にも程があるこのアイディアは少々いただけない。

「……過激派ね……」
「そおかしら?案外誰でもやってるんじゃない?」
「誰でもやってはいないと思うよ、絶対」
「そおかしら」

それだけ言うのが精一杯で戸惑うを、アンはベッドに寝そべって眺めていたが、唐突にその目がきらりと輝いた。

ぱっと身を起こすとベッドから降り、つかつかと歩み寄ってくる。

「あたしちょっと不思議だったの。シンガポールに着いて、おじいちゃん達をほんの少し見失った間にがいたから。
あんな短時間でどうやって皆に近づいたんだろうって」

悪戯げで何とも表現しようのない表情を見せて、じりじりと距離を詰めるアンに、何故だか嫌な予感が湧いてくる。
自分の中に小さく響き始めた警鐘に従い、水差しから手を離し怪しい少女と真正面から向き合う。

「思うに」

手の届く距離で立ち止まったアンに、ぐっと見上げられ。

「既に色仕掛け実践してたんでしょー!もう、大人しそうな顔して抜かりないんだからっ!」
「してません!」

ぴっと突き付けられた人差し指を押し退けて、自信満々に告げられた予想を間髪いれずに否定した。

何だ、色仕掛けって。
思春期の少女とはいえとんだ言いがかりだ。

にべなく一蹴されたアンの顔に期待外れの色が浮かんでいるが、子供の戯言に付き合ってやる義理はない。

「そんなきっぱり言わなくたっていいじゃん、つまんないの」
「つまるつまらないの問題じゃあなくて!そんなこと言ったらジョースターさんに失礼よ」
「本人がいないんだから大丈夫よ。って真面目ねえ」
「真面目っていうか……」

アンがフランクに過ぎるのであって、自分の考え方は至って普通だと思うのだが。

暖簾に腕押し、糠に釘。
アンとの間には、価値観に大きな違いがあるようだ。

あっけらかんと悪びれる様子もなかったアンが、ふと一点をじっと見つめ出す。

の中の警戒スイッチは未だ入ったままだ。
今はアンの視線一つ取っても、ジョースター一行に取り囲まれていた時以上の強い警戒心が働いている。

彼女が見るのは、の胸元の辺り。

「……何?」
「……ぐらい育ってたら、色仕掛けする方もされる方もきっと楽しいんじゃあないかしら」
「何。育つって何」
「それ言わせちゃう?ねえねえサイズ幾つ?ちょっと触らせてみなさいよ」
「待って待って待って待って」

警戒して然るべきであったとは心底思った。
わきわきと蠢き忍び寄る小さな手を、一回り大きな手で押さえ込む。

「いいじゃん、減るもんじゃなし!あたしの将来の為にあやからせなさい!」
「触っただけで育つなら牛乳なんていらないでしょ!!」

年下相手に全力で抵抗するのも大人気ないが、手加減してもいられない遠慮なしの猛攻だ。
傍から見ればじゃれ合っているだけの押し相撲は、やっている本人達からすれば一進一退の攻防である。

ジョースターへの返礼を考えていた筈なのに、どこでどうしてこうなってしまったのか。
胸に迫り来る魔の手を阻みながらでは、それを振り返ることも難しい。

いつしかの意識は、目の前の真剣勝負に注がれていき。

互いに体力を使い果たし、息切れと共に引き分けで勝負を終え床に崩れ落ちるのだった。












2015.3.11
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