少しずつ後ずさった男が、やがて踵を返し路地へと姿を消す。
掲げた手の向こうにその一部始終を見送ったは、知らず詰めていた息を吐き出した。
開けた視界に、遠巻きに眺める人の姿を見ながら、引き戻した手に握られているものを眺める。
黒くずしりとした重みのある、手のひらに収まるサイズの鉄の塊。
記憶を失うより前から所持していた、一丁の拳銃だ。
一度はジョースターにより回収されたが、スタンドの使い方を思い出せない間の護身用にと、旅への同行が決まった際にの手へと戻された。
渡されたところで自分に扱えるだろうか。
ポケットに忍ばせた拳銃の重さを感じながら、漠然とした不安と疑心を覚えたものだが。
今この時、それが杞憂であったと分かった。
人が血を流して倒れているのを気にも留めず、憐れみの皮を被って近付いてきた男。
戸惑いや警戒心を自覚するより早く、奇妙な程滑らかに体が動いていた。
地面を踏み締めた足に力を込め、正した姿勢から男の眉間へ狙いを定め、
『近付かないで』
放った一言は、自分でも驚くほどに冷静で。
掲げた手の先にあった重さが、その瞬間すっと馴染むような感覚すらあった。
記憶はなくとも体は覚えている。
シンガポールのホテルでジョースターに言われた言葉を思い出す。
この手に重さが馴染む程に、記憶を失う前の自分は拳銃の扱いに慣れていたということか。
「一体……私は何をしていたの?」
問い掛けは、忘却の彼方にいる自分へのもの。
勿論答える相手はなく、はただ唇を引き結ぶしかない。
しばらく拳銃を眺めていただったが、やがて元あったようにポケットへ押し込む。
ぐっと唇を引き結ぶと、傍らへ視線を落とした。
今は取り戻す糸口の掴めない記憶よりも急を要する事態が立ちはだかっている。
血溜まりの中にはアヴドゥルの体が横たわったまま。
身動ぎひとつしない彼をじっと見下ろし、そして。
は腹を決め、行動を起こした。
どこかで起きた騒ぎの気配に、一度は張り詰めた空気を漂わせたが。
ただの喧嘩のようだと噂に聞くや、カルカッタの街は普段の喧騒を取り戻していった。
雑踏を担う人々のほぼ全てが、『喧嘩』で片付けたその騒ぎの正体を知らない。
彼らはスタンドの音を、姿を、聞くことが出来ないのだ。
「あースマン、通してくれ。急いでるんだ」
普段通りの生活へ戻ったカルカッタの人々へ声をかけ、ジョースターは前へ進む。
譲ってもらった道へ恵まれた体躯を捩じ込んでいくので、振り返る人は一様にジョースターへ好奇の目を向けてきた。
邪険にする眼差しで睨んでくる者は、高い位置からちらりと見下ろせばすぐに視線を逸らせて横へ引いてくれた。
とんでもない所に来てしまったと思ったが、街には善意ある人々が沢山いるようだ。
彼らが自主的に道を開けてくれたのだ。
こちらから強制した訳ではない、決して。
そんなやり取りを繰り返しながら、ジョースターはきょろきょろと視線を彷徨わせる。
「ムウ……くん、もうどこにいるか分からなくなってしまったわい」
外国人が喧嘩をしていると聞くや、一足早く駆け出した。
すぐに追いかけた背中は、しばらく人ごみの中に垣間見ることが出来ていたのだが、ある時を境に見失ってしまった。
自分達と比べれば、そもそもが小柄な体格である。
人ごみを抜けるコツを得たのか、にわかにスピードを上げ、あっという間に見えなくなってしまったのだ。
とはいえ見失ったことに関しては、向かう先が分かっているのでそれ程問題にはしていない。
危惧するべきは向かった先で、DIOの刺客と鉢合わせしてしまうことだ。
護身用に当初から彼女が持っていた拳銃を返してある。
しかし一般人相手ならともかく、スタンド能力如何によっては銃弾など何の役にも立たない。
は分かっているのだろうか。
相手はこちらの命を狙って来る輩。
エジプトへの旅の同行を決めた時点で、自分も狙われる側にまわることを。
「こんなに向こう見ずな子だとは思わんかったぞ!」
ぼやきながらも足を進めるジョースターの目が、ふと見慣れた姿を捉えた。
、ではない。
自分に匹敵する体躯に、黒い学ランの。
「じじい!」
「承太郎!」
人ごみを掻き分けて、承太郎が合流してきた。
周囲に声をかけることもなく強引に突き進んでくるので、向けられる邪険にする眼差しはジョースターの比ではなかったが、
精悍で迫力のある姿にその多くが何も言えず黙り込んだ。
買い物に来ていたらしい女性などは、見上げた承太郎の顔を目で追ったままぼんやりとその場に立ち尽くしている。
若くて顔の良い奴は得だ、ワシだってもう20年若ければ。
ちらりとそんな僻みを覚えつつ、ジョースターは承太郎と並んで駆ける。
「あの女はどうした」
「くんか。騒ぎの場所が分かった途端走っていってしまってな……見失った」
「……やれやれだぜ」
一拍の間の内に嘆息して、吐き出されたいつもの口癖。
承太郎の胸にも自分と同じ、の向こう見ずな行動に頭を抱える思いが満ちているのだろう。
ポルナレフを皮切りに、アヴドゥル、そして。
今回の件で勝手な行動を取った3人には、後できつく言っておかなければ。
年長者としての決意を胸に秘め、いなくなった3人の名を呼びながら人の行き交う街路を男2人で突き進み。
やがて、視界が開けた。
今来た道よりもずっと広い通り。
人影はまばらで、かつ通りに立つ人々の顔には一様にひきつるような恐怖の色が浮かんでいる。
彼らの多くが見つめるのはある一点。
ジョースターはその視線を追って、『それ』を見つけた。
「……アヴドゥル」
名を呼んだ声音に、少なからぬ絶望の色が混じっているのを知る。
「お前……」
地面に投げ出された手足、見慣れた衣服は雨上がりの泥水ではないものを吸い上げ、暗い色に染まっている。
アヴドゥルがそこにいた。
ポルナレフを捜す途中でDIOの刺客と出くわし、敗れた。
その顛末が、誰に教えられなくとも分かる、痛ましい姿で。
そして、もう一人。
「くん……」
アヴドゥルを抱きかかえるようにして項垂れるの背中を見つける。
丸められた背に痛ましさすら覚える。
ジョースターがちらりと隣を見ると、承太郎と目が合った。
元々寡黙な性格ではあるが、今ばかりは親譲りの緑の目が、言葉にはならないものを訴えているように思えた。
一度頷き返し、歩を進める。
の背へ、かける言葉もなく近付き。
「……新くんッ!?」
ふとおかしなことに気付き、ジョースターは思わず叫ぶように彼女の名を呼んでいた。
「なんちゅーカッコをしとるんじゃ君はッ!?」
近寄ってみて初めて分かった。
遠目では長い黒髪に隠されていた背中は素肌が見えている。
見失う前まで確かに着ていた上衣を、今のは何故か着ていない。
上半身は下着一枚で、アヴドゥルを抱きかかえるように覆いかぶさっていたのだ。
言葉を失うジョースターへ、肩越しに振り返ったの鋭い視線が飛ぶ。
「ジョースターさん!空条さん!救急車呼んでください!」
「っ……何じゃと?」
有無を言わさぬ強さを持った声に我に返り、咄嗟に訊き返したジョースターの目に、アヴドゥルを抱きかかえるの手元が映る。
くしゃりと丸められた布のようなものを手に持ち、アヴドゥルの背中に押し付けているように見える。
すっかりと血に染まってしまっていたが、辛うじて残る元の生地の色から、それがが着ていた上衣だと分かった。
そんなものをアヴドゥルの背中に当てて何をしているのか。
「……まさか」
はたと、ジョースターが瞠目する。
脳裏によぎるひとつの可能性。
それを口に出すより早く、はまた強く声を上げ、
「アヴドゥルさんは、まだ生きてる!!」
ジョースターの中に生まれた仮説を、正しいものと裏付けた。