【1】





 通りに面したカフェのテラス席で、膝上丈のスカートから伸びる足を組みかえる。
背もたれに体を預け、膝の上に置いた文庫本のページを繰る。
白い紙面に太陽光はいささか目に痛いものだが、張り出した屋根が良い具合に影を作り、眩しさを軽減してくれた。

読み進めるのは見覚えのない作家の書いた私小説。
時間潰しに何かないかと、道中ふらりと立ち寄った書店で目に留まったものを適当に買ったものだ。

家族に愛された幼少期、思い悩んだ青春時代、それらを経て形作られた現在の自分という存在。
内容としてはありきたりではあったが、流れるような文体がとても読みやすく、先へ先へと目が進んだ。

順調に既読のページを増やし、章の区切りがついた所で、テーブルへ手を伸ばす。
カプチーノを淹れたカップがそこにある。
運ばれてきた時に一口飲んだだけのそれを手に取り口をつけて、唇に触れた、消えかけたミルクの泡の冷たさに、
反射的に眉間に皺を寄せた。

本に没頭している内に、すっかり冷めてしまっていたようだ。
コーヒー豆の香りが弱まったカプチーノを、一口、二口。
自業自得とはいえ、温かい内に飲みたかったと少しだけ落胆する。

残念に思う気持ちを小さな溜息に乗せて吐き出し、カップを元のようにテーブルへ戻した。
その手元へ、ふと影が落ちる。

「難しい顔してどうした、?」

おもむろに頭上から降る声へ、動じもせずに顔を上げる。

「綺麗な女性に眉間の皺は似合わないぜ」

短く刈り込んだ黒髪に、細身の長身。
彫りの深い顔立ちに収まるブラウンの瞳。
こちら……本から目を上げたを見つめる男が、そこにいた。

優男のような笑顔を浮かべていた彼は、ふと表情を改める。

「……いや、いやいやいや違うな」

否定の言葉を連呼して、訝しむの顔を覗き込む。

「美人なら眉間に皺寄せても美人なんだよな。これ、あんたの国のことわざなんだろ」

僅かに声のトーンを落としながら、本を押さえたままだったの手に手を重ねる。

傍からは一人でいた女性に男が声をかけたように見えたことだろう。
実際、この『ナンパ』の行く末を見守っているらしい通りすがりの姿が遠巻きに確認できる。

はそちらをちらりと一瞥して、それから男へ視線を戻すと、

「何を勘違いしたのか知らないけど、そんなことわざ聞いたことないわ、私」

おどけたように肩を竦めながら、笑った。

軽く首を傾げた拍子に、長い黒髪がさらりと揺れる。
その動きを追って男の目が逸れたタイミングを見計らい、は本を閉じる動作で、重ねられていた手を払った。

「カプチーノが冷めちゃうぐらい待たされた私に、何か言うべき言葉があるんじゃないの?」
「会えなかった時間の分だけ、俺に会えた嬉しさが増しただろ?」
「ふざけないで」
「ふざけてないさ。女性に対しては俺はいつでも本気だ」
「もう……」

手を払われたことに、男がショックを受けた様子はない。
そうされることがごく当たり前だとでもいうように、を覗き込んでいた姿勢をあっさりと正す。

元の高い位置に戻った男の顔には、意味ありげな笑みが浮かべられていた。
はそれをじっと見つめた後、手元に目を落とす。

閉じた本の上に添えられた己の手。
緩く握ったその手の中に、いつの間にか一枚の小さく折り畳まれた紙片がある。

「今度ドルチェ奢りなさいよ」
「デートのお誘いか?」
「遅刻したペナルティよ」

流れるように叩きあう軽口は止めずに、指先で紙片を丁寧に広げる。
全ての折り目を伸ばしきっても手のひらの半分ほどにしかならない。
その限られたスペースに、男のものであろう文字が書き込まれていた。
遠巻きにする野次馬達には、連絡先を書いたメモを渡したようにしか見えていないはずだ。
しかし、の手元にあるものは、数字の羅列などではない。

『人捜し 市内』

紙片に描き込まれたのは、ただその二語のみ。
は目だけで男を見上げた。

「君と一緒の時を過ごせるなら、ペナルティもまたご褒美、だな」

歯の浮くような台詞と共に半身を引き、席を立つように促してくる。
相変わらず優男のような笑顔を浮かべていたが、その目が決して笑ってなどいないことを、は確認した。

ふ、と小さく息を吐き、文庫本を膝からテーブルへと移動させ、チップの硬貨を数枚、本の上に乗せる。
まだ読みかけだったが、チップと共に置いていくことにした。
元々が時間潰しに買ったものだったので未練がある訳でもない。
そんな興味の薄い自分が持っているよりは、新たな出会いを願って置いていった方が本も幸せというものだろう。

もっともらしい理由をつけて、これからの行動に備えて身軽になる。
チップの下の文庫本に気付いた店員が興味を持って読んでくれるか、そのままゴミ箱行きとなるか。
それはの理解の外にあることだ。

全ては神の思し召すまま、本の運命を天に預けて、は組んでいた足を解いて立ち上がる。

「……どうすれば貴方を反省させられるのかしら」
「君から与えられるなら、俺はどんな罰も甘んじて受けよう」
「だからなおさら難しいのよ」

エスコートするように差し出された男の手を押しのけて、テラス席から通りへ出る。
ぐるりと周囲を見渡すと、慌てたように逸らされる視線が幾つもあった。
彼らは男女の駆け引きが行われているのを眺めていただけのつもりでいるのだろう。
そう見える裏で、どんなやり取りがあったかも知らずに。

呑気で不躾な視線がなくなったのを確かめて、カフェを振り返る。

「この仕事が終わるまでに、貴方がされて嫌なペナルティを考えておくわ。心しておいてね、ドゥイリオ」

後に続く男……ドゥイリオに向けて、ぴしりと言い放った。





 町に住む人々の生活の気配に溶け込むように、潮の匂いが鼻を掠める。
風の強い日は、時折こうして町の奥、海から離れた所にまで潮が香ってくるのだ。

地中海沿岸に栄える、南イタリア最大の都市、ネアポリス。
その海沿いよりやや内陸に寄った町の中を、はドゥイリオと共に一つの目的を持って動いていた。

「さぁ……記憶にないなあ」

甘く食欲をそそる匂いに満ちた焼き菓子の店。
ショーケースに陳列されたアマレッティ越しに、店主の男性が眉間に皺を寄せて答える。

「この辺は観光客も多くて、あんまり通行人を気にしてられないから」

悪いんだけど、と付け足す店主へ向け、は気にするなと言う代わりに軽く首を振る。

「大丈夫よ、ありがとう。でも、もし後で何か思い出したり、見かけたりしたら」
「勿論、すぐに知らせるさ」
「話が早くて助かるわ。お願いね」

成果は得られなかったが、今後の協力を取り付けられたことに、満足の笑みを一つ。
営業中にも関わらず時間を割いてくれた返礼に、幾つか菓子を買い求めることにした。

それとそれと、と指を差しながら商品を見繕い、いっぱいになった紙袋を、代金と引き換えに渡された。

「サービスしといたから、沢山食べて頑張るんだよ」

でも無理はしちゃあいけない、と念押しの言葉と共に、ウインク付きの朗らかな笑顔が向けられる。
返礼にサービスされては意味がないではないか。
苦笑しつつも、は店主の心配りをありがたく受け取り、

「仕事の後にまた買いに来るわ。ここのお菓子美味しいから」

再訪を約し、ひらりと手を振ってドアを開けた。

店を一歩出た途端に、潮の匂いを運ぶ風が強く吹き付ける。
煽られて頬を打つ髪を片手で軽く押さえながら、何気なく風上へ目を向けるの視界に、

「どうだった?」

さもずっと傍にいたかのような顔をして、ドゥイリオが歩み寄る姿が映る。

店内に充満する焼き菓子の匂いが甘ったるくて我慢できないのだと言って、何度訪れようと彼は足を踏み入れようとしない。
故に、件の店に用がある時は、専らが出向くのだ。

風上に立って風除けとなるドゥイリオに対し、は紙袋を開いて中を探る。

「収穫は、このスフォリアテッラぐらいかしら」

摘んだ指先に、パイ生地の軽い感触。
オレンジピールを混ぜ込んだクリームチーズのフィリングをパイ生地で貝殻の形に包んだ、この店自慢の一品だ。

ドゥイリオは、甘ったるい匂いが苦手だという癖に、スフォリアテッラは好んで食べる。
それを知っているから、は袋から引き出したそれを、ドゥイリオの口元へと掲げた。

「観光客も多くて、普段から意識してられないって言われたわ」
「あー……まあ、当然だな」

ドゥイリオは僅かに顔を下げ、目の前のスフォリアテッラに一口齧りついた。
さく、という歯切れの良い音が、風の合間を縫って耳に届く。
齧られた焼き菓子はドゥイリオに銜えられたまま、の手から離れて行った。

「端から目撃情報を期待してた訳じゃあない。協力してくれるよう頼んだんだろ?」
「勿論。見かけたらすぐ知らせるって」
「それだけ取り付けられれば今は十分だ」

食べかけの焼き菓子を自らの手に持ち替え、口の中にある分を咀嚼しながらドゥイリオは言うので、
一つ頷き返して、もまた自身の分の菓子を取り出し、小さく齧った。

行儀が悪いことは承知している。
けれど、香ばしさと同時にオレンジの爽やかな香りが鼻を抜ける至福の時はそれに勝るのだ。

舌に馴染む変わらぬ味に頬を緩ませつつ、どちらともなく歩みを進める。

ドゥイリオが紙片に書き記しに見せた、二つの言葉。
その内容に従い、らはこのネアポリスの街にいる何者かを探していた。

道なりに通りを進むが、行き先は決まっていない。
強いて言えば、人通りの多い方へ、だろうか。
木を隠すなら森の中ともいう。
現在の目的から考えるなら、雑踏へ向かうのが良策だと判断してのことだった。

男女二人、仲睦まじく市街をそぞろ歩きするように見える一方で、眼差しは注意深く辺りを窺う。

若い女性のグループ、家族連れ、スーツ姿のビジネスマン、バックパッカー。
目に届く範囲に人の姿は数多あれど、性別以外で探し人の特徴と合致する者はいない。
とはいえ、簡単に見つかるとも思っていなかったので、

「それらしいの、見当たらないわね」

片手に携えた菓子を齧りながら、見えている事実のみを口にする。

「戦いに慣れた奴だって話だ、それだけ身を隠すのも上手いんだろう。だが……」
「……だが?」

言葉を切ったドゥイリオを見上げる。
彼の目はさりげなく、たった今横を通り過ぎた若い男性の風貌を見定めており、に話しかけながらも決して視線は絡まない。

「ここは俺達の管轄だ。ここにそいつが潜んでいる以上、必ず俺達が見つけ出さなくちゃあならない」

その横顔に窺える、必ず成し遂げるという意志の強さ。
他の誰よりも頼もしく、冷静にことに当たるドゥイリオの姿に、は背すじの伸びる思いがする。

「……ええ、そうね。必ず」

見つけてみせる、と一つ頷く。
それはドゥイリオへの返答でありながら、自分に言い聞かせるものでもあった。










「美人なら眉間に皺寄せても美人〜」
ネタ元は中国の故事成語『顰(ひそみ)に倣(なら)う』。
アジア圏の顔同じに見えるしどこも一緒だろって感じでうろ覚えの故事成語を使って夢主の容姿を褒めた。
から夢主の生まれも故事成語の用法も間違ってる。

「美人」
イタリア男やフランス男なら全ての女性に対して挨拶のように言う。



前話×目録×次話