【2】
通りの先には広場がある。
一角には小振りだが美しい噴水が設けられ、人々の憩いの場として機能していた。
そういう場所に人が集まれば、自然とニーズに応える移動販売も集まり賑わいを見せる。
楽しげな笑い声、車の行き交う音に、雑踏。
賑々しい気配に満ちるその場所に至り、達は足を止めた。
「さて、どっちに行こうか」
ぐるりと視線を経巡らせながら、ドゥイリオが呟く。
広場には幾つかの道が合流している。
向かう方角が異なるだけで、構造としてはが今来た道とあまり変わらない。
人海戦術で場当たり的に動くしかない現状、次にどの道を選んでも大差ないと、は思うのだが。
「ん。あいつら同じチームの奴らだな」
人々が憩う光景の中に見知った顔を見つけ、
「話聞いてくるから、ちょっと待っててくれ」
情報共有の為、ドゥイリオが一人広場へと足を向けるのを、言われた通りにその場で見守る。
ドゥイリオが向かっていったのは、ベンチに陣取り飲み物を酌み交わす二人の男のもとだった。
遠目でも分かる赤ら顔から察するに、手にしているのは酒だろう。
上体をふらつかせて楽しそうに笑っている男達は、ドゥイリオが近付くのに気付くと、
まるで旧友と出会ったかのように一際明るい声を上げて迎え入れた。
その後の会話は、この距離では聞き取ることができない。
けれど、きっと聞こえたとしても、事情を知らない者の耳にはただの世間話程度にしか受け取られないだろう。
そういう言葉と態度を選んでいるからだ。
先程のカフェでのやりとりもそうだ。
街で見かけるごく普通の光景の中に、本題を忍び込ませる。
自分達の生業は、事情を知らない者の目を引かぬようカモフラージュする必要のある仕事だった。
ドゥイリオが小さな瓶を手渡され、酒盛りに招かれたように見えた所で視線を外し、
抱いたままの紙袋を覗き込み、道中摘んだスフォリアテッラとは分けて包まれた小袋へ、は手を伸ばす。
片手だけで器用に小袋の口を開け、指先で摘んで取り出したのは、アマレットが仄かに香る小さな焼き菓子。
それを口元へ運びつつは、視線を紙袋から広場へ合流する道に向ける。
ドゥイリオが話を聞いている間、通行人の中に目当ての人物はいないか見ておくのだ。
広く視野を持ち、些細なものも見逃さないように意識を集中させて。
「……ん」
知覚するよりも早く目が動いた。
から見て一本隣の道、斜向かいに確認できる建物の間。
人がぎりぎりすれ違えるかどうかという狭い路地から、黒く小さな塊が飛び出すのを見た。
黒一色の短毛、遠目で把握できた体格からして、それはまだ若い一匹の猫。
小さなものの動きに自分は反応したのだと遅れて気付く。
猫はのいる広場の方向とは反対へ駆け、通行人の老爺の横をしなやかにすり抜ける。
気付いた老爺が何事か声を荒げていたが、の位置からはいささか距離がある為に、その内容までは聞き取れない。
けれど、その声質から、あまり耳障りのいいものではないことは分かった。
黒い毛並みの猫に対する、乱暴な響きを含む老人の声。
あれは罵倒だ。
今にも追いかけていきそうな様子であったが、猫のスピードは老爺などに到底追い付けるものではなく。
猫は人の通れない建物の隙間へと体を滑り込ませ、やがて見えなくなった。
苛立ちも露わに荒い足取りで歩き始める老爺を見送り、は視線を移す。
捉えるのは、猫が飛び出してきた路地。
今いる位置からでは、路地の奥の構造までは窺えない。
「……」
口元に運んだまま忘れていたアマレッティに歯を立てる。
軽い抵抗の後に転がり込んだ欠片は、の口内にアーモンドの風味を伝えた。
ごく狭い路地、石畳の階段を下りきった先。
積み上げられた荷物の上で背を丸めていた黒猫が、ありありと警戒の色を浮かべた目で、
階上にいるこちらを素早く振り仰いだ。
四肢に込められる力、すぐにでも駆け出せる準備をする様を見せる。
気にせずに近付いていくと案の定、一定の距離を越えた所で、猫は放たれた矢の如く飛び出した。
荷物の上からから音もなく飛び降り、路地の出口に向け俊敏な動作で真っ直ぐに駆けていく。
向こうに見える大きな通りに出るや角を曲がり、すぐに見えなくなってしまった猫の背をぼんやりと見送る。
そのまま階段を下りきると、それまで猫が陣取っていた荷物の上へ代わりに腰を下ろした。
後ろ手に腰のポーチをまさぐり、手にしたのはボックスの煙草とライター。
蓋を開け煙草を取り出そうとして、男はふと目を瞬かせる。
振ればボックスの中で煙草がコロコロと踊る音。
空いてしまったスペースが、手持ちの煙草が残り一本であることを教えていた。
「……チッ」
舌打ち一つ、男は最後の一本を引き出して、空になった箱を脇へ投げ捨てる。
かつん、と石畳を転がる軽い音を聞きながら、煙草を銜え点火したライターを近づけた。
一息吸い込む。
じりじりと巻紙の焼ける音と共に、独特の味わいが肺を満たす。
煙草を扱う店など、少し歩けばすぐに見つかるだろうが、今は買いに行けない。
買いに行けない理由がある。
故に吸い始めたこの一本が終わり次第、しばらくの間強制的に禁煙をしなければならなかった。
期間は未定。
先の見えない禁煙生活を思うと、この束の間の安らぎすら半減してしまいそうだ。
胸に溜めた紫煙を吐き出し、男は路地を見回す。
一方は自分が下りてきた階段、もう一方は黒猫が走り去っていった狭い道。
そのどちらにも人影はない。
喧騒は遠く、風が緩く肌を撫でていく。
世はかくものどかなものか。
ともすれば夢なのではないかとさえ思えてくる、穏やかな時の流れる町から、
自分だけ切り離されてしまったような孤独が忍び寄る気配に、男は軽く頭を振る。
拍子に、立ち上がるようにセットした髪からほつれた一房が、動きに合わせて軽く額を掠めた。
そのくすぐったさに眉をひそめ、元の位置に戻すように髪を撫で付ける。
本当ならスタイリング剤を使って完璧に仕上げたいところだがそうもいかない。
今はあるべき所に収められたとしても、また落ちてくるのは時間の問題だろう。
「ハンサムが台無しだな、こんな有様じゃあ」
自嘲を帯びた声音が鼓膜を震わせるのに、思わず苦い笑いが込み上げる。
あまり性質のいい笑いとは思えなかったが、少しでも休んだことで笑えるだけの余裕は生まれたようだ。
煙と共にその笑みを飲み込み、そして煙だけを空へ向かって吐き出す。
頭上ほど深みを増す碧空に紫煙がかかり、視界が一瞬白む。
やがて時間の経過と共に拡散していく様を見届けて、男は立ち上がる。
休憩は終わりだ。
そろそろ行こう。
早く動いた所で状況が変わる訳でもなく、行く当てすらもないのだが、
こうしてじっとしていると、それだけで『奴ら』の手が迫るようで焦燥に駆られるのだ。
長く伸びた灰を振り落とし、反比例して短くなった煙草を口の端に銜える。
最後の一本を惜しむ気持ちもあった。
ゆっくりと味わうつもりで残りを吸いながら、これから向かおうとしている大通りの方へと視線を向け……ぎょっとした。
男のいる位置と、大通りに合流する路地の終わり、そのちょうど中間の辺り。
いつの間にか女が一人、紙袋を抱えた姿勢で佇んでいたのだ。
じっと向けられる黒の瞳に視線を絡め取られ、男は凝然と立ち尽くしたまま、女としばし見つめ合う。
「……黒猫が、ここから逃げていくのを見かけたの」
先に口を開いた女の、良く通るアルトの声。
それが耳に届いて初めて、女が現れてから周囲の音が遠のいていたことに男は気が付いた。
路地に緩く吹き込んだ風が、大通りから喧騒を運び入れ、ついでのように女の髪を吹き上げていく。
瞳と同じ、黒く艶のある長い髪だった。
伸ばしたまま背中に流していた髪が顔にかかり、それを除ける為に、女の視線が一瞬外される。
ひゅ、と自分の喉が鳴るのを聞いた。
女に見つめられている間、知らずに呼吸を忘れていたらしい。
知らぬ内に襲われていた息苦しさから解放される感覚を、舌先に感じる煙草の苦みと共に味わう。
「私、今人を探していてね。連れを待ってる間、ちょっと覗くくらいならいいかなって、来てみたんだけど」
男は心拍が僅かに上がるのを自覚する。
髪をかき上げ、細めた目をこちらに向ける女に注意を払いながら、いつでも飛び出せるように足に力を溜める。
ただの通りすがりならば、少し会釈をして横を抜けるだけでいい話だ。
けれどこの女はそれをしない。
警戒せよと自身の本能が叫んでいる。
女は小首を傾げてうっすらと笑い、
「私の探し人は、貴方かしら?」
「……ッ!」
訊ねる声を振り払うように、男は自身の能力を発現する。
体から分離するように現れたものが、女に向けて手にした武器を構え、振るう。
風を切る激しい音と共に、武器の切っ先が石畳を削り砂塵を巻き上げる。
能力の姿か、砂塵か。
どちらでもいい、女が怯んだ隙に、姿を眩ましてしまおうと思っていた。
直接攻撃を当てるつもりはない。
むしろ、攻撃すること自体に躊躇いがあった。
まとう気配と口ぶりから、女が十中八九追手であろうことは察せられた。
敵であると分かっているのに攻撃を躊躇うのは、相手が女性だからとかそういう理由では断じてない。
ただ、女への攻撃を決意しかける度に、記憶の片隅にちらつくものがある。
それが行動を押し止めるのだ。
女が砂塵を避けるように身をかわした。
一瞬こちらへの注意が逸れたのをチャンスと取り、背にしていた階段へ向かおうと身を翻しかけた、その目に。
只人のそれとは思えないスピードで、女が迫るのが見えた。
「何…!」
抱えていた紙袋を捨て、姿勢を低く、走り寄る姿。
翻るスカートの中、大腿に取り付けていたベルトに手を伸ばし、黒い塊を引き抜く。
それが拳銃だと分かったのは、至近距離で立ち止まり、眉間に銃口が向けられた時だった。
紙袋が地面に落ちた音を聞いた時には、既に逃げるには手遅れ。
想定外のスピードに驚かされた間に、女の射程範囲に捉えられてしまっていた。
「どうやら、当たりのようね」
男の胸辺りまでしかない身長で、不敵に笑う。
その背中から、ゆらりと陽炎のように影が立ち上る。
目線よりもさらに上、急速に輪郭を取り、現れたのは人の姿。
薄桃色のゆったりとした服を羽織る、女性。
人の形をしているが、うっすらと向こうの景色が透けて見えることから、それが人ならざるものであることはすぐに分かった。
男は察する。
これは、たった今自分が現したのと同じもの。
女が持つ能力、その
眼前に立ちはだかる女を凝視する男の胸中を、驚愕と動揺が駆け巡った。
女が追っ手だったことに対してではない。
追い詰められてしまったことに対してでもない。
よく似ているのだ。
女自身の容姿も、声も、雰囲気も、能力の姿形さえも、何もかもが。
記憶の片隅に押しやられた、けれど決して忘れることのない者に。
「こんな所にいるはずがない」という否定と、「何故こんな所に」という僅かな期待が綯交ぜとなり、
銃口を向けられている現実すら一時忘れる程に、男は惑乱する。
これは夢か、現か。
判断しあぐね、呆然とする男を正面に捉え、
「出来れば殺すなと言われているの。
大人しくしてくれると、嬉しいんだけど」
控えめな言葉に否を許さない響きを含ませて、女は一つの名前を口にする。
「ジャン=ピエール・ポルナレフ」
その名を呼んだ、声音を聞いて。
男……ジャン=ピエール・ポルナレフの中に渦巻いていた動揺は、確信へと形を変えた。
「猫に対する罵倒」
不吉という迷信を信じている人によって今でも黒猫が殺されているのだとか。特にイタリアで顕著なのだとか。
「只人のそれとは思えないスピード」
ポル夢本編30でも似たような描写。
そこでもここでも今説明入れるのは蛇足だなーと思ったので省いてますが、
スタンドを足に纏うと速く走れたり高く跳べたりする能力がこっそりあります。
正義戦辺りで思い出す予定です。
戯
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