【3】
銀髪碧眼、フランス国籍の男。
戦闘技術に長けて、接触する際には十分な警戒が必要。
発見、及び捕獲時の功績に応じ報酬を与える。
生け捕りが望ましいが、それが困難な場合、生死は問わないものとする。
名を、ジャン=ピエール・ポルナレフ。
我らが『組織』に関し、知り過ぎた男である――。
道中ドゥイリオから聞かされた『任務』の概要を脳裏で反芻しながら、は男を前に、会心の笑みを浮かべる。
黒猫が路地から飛び出してきたのを見た時、何か心に引っかかるものがあったので、
「ここで待っていろ」との言い付けを一時忘れたことにして、心のままに行動した結果巡り合ったのは、
後で小言を食らうだろうというデメリットを補って余りあるもの。
黒猫は悪運をもたらすと言われている。
先の老爺が吐き出した罵倒も、恐らくはそれを忌んだものだ。
何の根拠もない迷信だが、世の中にはその迷信を信じる者も多い。
けれど、今のに関してのみ言うならば、迷信はやはり迷信だと断言出来た。
黒猫はの元へ、迷信とは逆に幸運を運んできた。
『探し人』ジャン・ピエール・ポルナレフその人と引き合わせたのだから。
「出来れば撃ちたくはないの。少しの間、じっとしていてくれるかしら?」
目前に迫る手柄に、は密かに心躍らせつつ、表面上は冷静を装う。
一人でポルナレフを確保できるとは思っていない。
今すべきなのは栄光の独占ではなく、がいなくなっていると気付いたドゥイリオがこの場に合流するまで、
ポルナレフを留め続けることだ。
時間稼ぎをしていると悟られたが最後、ポルナレフは即座に行方を眩ますだろう。
逃げられ、見失い、ネアポリスの街中を再び当てどなく探し歩くのは御免だ。
いつでも引けるように引き金に指を添え、銃口を向けて牽制する。
その視界の中、ふと、ポルナレフの口から短くなった煙草がこぼれ落ちた。
重力に従い落ちていく、その動線を目で追い……自身の油断に気付く。
敵意を向けた者を前にして意識を逸らした、その事実に、一気に総毛立った。
戦闘技術に長けているという触れ込みの者であれば、この一瞬の隙を見逃すはずがない。
脳裏でけたたましく警鐘が鳴る中、は瞬きの内に、相手の出方次第で刺し違える覚悟を決めた。
弾けるように視線を戻し、気を抜いた自身への叱責は一旦腹の底へと押し込め、事態の打開に集中する。
逃走か、攻撃か。
不意打ちのダメージに備え、きつく奥歯を噛み締めて。
引き金に添えた指に力を入れ、ポルナレフの顔を睨み据えた時、
「お前……何でこんな所にいるんだ?」
静かだがはっきりとした声が、の耳を打った。
直後、構えた拳銃ごとの手を掴み、引き寄せる。
「連絡も寄越さねえで!今までおれがどれだけ……!」
打って変わって荒らげられた声と近付いた距離に、反射的に身を仰け反らせる。
間近でひたと見据えてくる青の双眸を、は戸惑いながら見返した。
敵意も害意もなく、ただまっすぐに向けてくる目に宿るのは、今にも泣きだしそうな感情の揺らぎ。
こちらの敵意も意に介さず、向けた銃ごと間合いに引き込む、戦闘技術に長けているという前情報に反する迂闊な行動。
その表情と、荒げた声で吐き出された、理解を超えた言葉。
この男、何か思い違いをしているのではないかとは察した。
存在さえ先程ドゥイリオに聞かされた『任務』で初めて知った程度で、自分とポルナレフは顔を合わせたことはない。
なのにその言葉には、長らく音沙汰のなかった既知の者へ向ける懐かしさや親しみすら込められているように聞こえた。
自分を、誰かと勘違いしている。
それに気付くと、ポルナレフの言葉に混乱しかけていた頭が、すっと冷静になった。
それならそれで良い。
勘違いしてくれているなら、その『誰か』になりすませば、ドゥイリオが合流するまでの時間稼ぎくらいは出来るはずだ。
あまり会話を重ねると別人だとばれてしまうので、ここからは言葉少なに。
口数少なくなった不自然さを誤魔化す為に、意味ありげな表情を作って目を伏せた、
「……」
視界の外で呟かれた、たった一語。
「……え?」
は思わず、演技も忘れてポルナレフを見返した。
戻した視線、その先では変わらず青の瞳が向けられている。
その中に映り込む自分の表情は、何かに動揺し、揺れていた。
「……?」
青と黒の視線が絡む一瞬、呼びかける者があった。
ポルナレフの目に意識すら絡め取られた状態から我に返り、ぱっと声のした背後を振り返る。
路地の入口、ついさっき自分が入ってきた場所。
そこには、ポルナレフと対峙した時からずっと、早く来いと待ち続けていた姿が立っていた。
「ドゥイリオ!」
約束していた訳ではない。
行き先も告げず、突発的に動いたのは自分だ。
それでもドゥイリオは、行き先を言わずいなくなった自分を探しに来てくれた。
過たず見つけ出してくれた。
こちらの勝手な期待に応えてくれたことに、ポルナレフの発言に揺らいでいた心がたちまち安堵に満たされていく。
「そいつ、まさか……」
の向こうに見える影に動揺を見せるドゥイリオのもとへ戻る為、掴まれた手を振り解く。
が、振り解くどころか逆に強く掴まれる感覚がして、は少し驚いてポルナレフへ目を向けた。
先程とは違い、彼の青の目はノヴムを映さない。
現れた見知らぬ男へ、警戒の色を浮かべている。
は戸惑いつつ、掴まれた自分の手元へと視線を移した。
ポルナレフに掴まれているせいでやや狙いから外れた所を向いているが、銃口は未だ彼の体を向いている。
指も引き金にかかったままで、少し力を込めれば弾が発射され、彼の体を射抜くだろう。
命を取るまではいかないまでも、多少動きを止めるぐらいは出来そうだ。
引き金を、引けたなら。
「こっちだ!」
「あっ」
逡巡の間に、ポルナレフが身を転じ、背後の階段に向かって駆け出した。
掴んだ手を離してくれなかったので、必然的にも引っ張られてしまう。
「ッ!」
背に受けたドゥイリオの声に、手を引かれたまま振り返る。
見る間に見慣れた顔が遠ざかっていくことに焦り、その場に踏み止まろうとしたが、ポルナレフの引く力はの更に上をいく。
結局、引きずられるように階段を上り切り、走り、ドゥイリオの姿は見えなくなった。
人影が消えていった階上を呆然と眺める。
凝然と立ち竦む体とは反対に、ドゥイリオの頭は目まぐるしく動いていた。
「……何なんだ……?」
今しがた目の前で起きたことを反芻し、なお整理がつかず、脳内の混乱がそのまま零れ出てしまう。
身内に話を聞いている間にいなくなっていたを探しに出たのがつい先程。
通りに面したある店の者に尋ねてみると、彼女の姿を覚えていて、この路地裏に入っていったと教えてくれた。
言に従い自分も路地へ向かい、過たず目当ての後ろ姿に出会った。
同時に、と向き合う一人の男の姿も見つけ、誰だ、と思うのとほぼ同時に、口が勝手に彼女へと呼びかけていた。
二人がこちらへ顔を向け、ドゥイリオは男の正体を知る。
その外見、特徴は、『任務』を受ける際に聞いていた情報と合致していた。
恐らくは、否、ほぼ確実にあの男こそ、自分達が探していた人間。
ジャン=ピエール・ポルナレフだと、ドゥイリオは確信し、そして歓喜した。
は目的の人物を誰よりも早く探し当てていたのだ。
彼女の手柄をまずは心の中で称賛し、そして意識を切り替えて次の行動に備える。
あとは至近距離にいる彼女と連携し、ポルナレフを捕えれば、任務の報酬は自分達のもとへ転がり込む。
油断なく当たれば、決して難しいことではない。
そう、考えていたのだが。
「何で、そっちについて行くんだ……?」
は間違いなくこちらに気が付いていた。
気が付いた上で、踵を返し逃げたポルナレフに手を引かれるがまま、その後をついて行った。
が取るであろう行動として想定になかったもので、故にドゥイリオは咄嗟に身動きが取れず、
ただ二人の背を見送ることしか出来なかった。
何故。
何故は、ポルナレフについて行ったのか。
彼女の力量なら、長く隣を歩いている自分がよく分かっている。
腕力は劣るとしても、手を掴まれる程度なら身のかわし方一つで振り払うことなど造作もなかったはずだ。
けれどそうせず、は階上へと姿を消した。
取れる行動を取らなかった、その理由を考えている内、
「……いや、いやいやいや待ってくれ」
ふと嫌な予感が脳裏を掠め、ドゥイリオは反射的に否定した。
あるはずがない。
あって欲しくもない。
自分の知らない所で、があの男と密かに繋がっていたのではないか、などと。
組織に弓引く存在であったなどと。
確かに彼女は、望んで『組織』に加入した訳ではない。
それでも『組織』への貢献ぶりと仕事に向き合う誠実さには、偽りなどなかった。
……ないように見えていた。
自分が隣で見てきた身の振りが全て、或いはある時期を境に、巧妙にカモフラージュされたものであったとしたら。
今考えても、どの時期からすり替わったのか分からないことが許せなかったし、彼女への信頼を揺るがせる自分が嫌だった。
手のひらを額に当て天を仰ぐ。
脳裏に居座った『予感』を振り払いたくて取った姿勢は、忘れることは出来ないまでも、衝撃をやり過ごすには一定の効果が上がった。
詰めた息と共に、胸に蟠る不安を吐き出す。
そして、ズボンのポケットをまさぐると、携帯電話を取り出した。
慣れた動作で相手先を呼び出し、耳に当てた姿勢でしばらく。
「……ドゥイリオだ。ジャン・ピエール・ポルナレフを見つけたが、逃げられた。追い詰めるのに人手が欲しい」
相手先は同じチームの人間。
通話口の向こうで相手の声のトーンが上がるのを聞き、それから少し迷って、
「……それと、が奴に拉致された。人質に取られた。発見したらの保護を」
ポルナレフと連れ立ったを『拉致された』と伝え、通話を切る。
が寝返ったと決まった訳ではないので、チーム全体を彼女の敵とするのは得策ではないと思った。
現状、彼女の敵となり得る者は、まだ、まだ自分だけでいい。
「こりゃあ、とんだペナルティだな……」
カフェでの会話を思い出す。
こちらがされて嫌なペナルティを考えておく。
はそう言った。
その言葉が実践されたのだとすれば、自分にとってこれ程厳しい罰は他にないだろう。
ドゥイリオは携帯電話を握り締め、ふと地面を見る。
どこか見覚えのある紙袋が転がっていた。
が持っていた、焼き菓子屋の袋だ。
落ちた衝撃で袋からこぼれてしまった幾つかの菓子をぼんやりと眺めながら、呟く。
「遅刻一回にペナルティが対して重すぎるぜ、」