【4】





 ネアポリスの街を駆ける。
追っ手がついていないか何度も振り返るポルナレフに手を引かれ、はその背について行く。

人目を避け、路地裏を選んで進むので、慣れた街中でも自分の現在地を把握できなくなってしまった。
そして日が陰り、景色がうっすらと赤みを帯び始めた頃、ポルナレフは、一軒の家の前でようやく足を止めた。

やや古く寂れた印象を与える佇まいだ。
鍵はかかっていなかったようで、ポルナレフが手をかけると何の抵抗もなくドアが開いた。
人一人が通れる程度に開け、その隙間へ身を滑り込ませる。

もまた引かれるがままに、室内へと足を踏み入れた。

「家主はいない。どこに行ったか知らないが、ちょうどいいんでちょっと使わせてもらってる」

ポルナレフの先導のもと辿り着いたのは、それほど広くはないワンルームだった。
ドアをくぐって申し訳程度の廊下を抜ければ、キッチンやベッド、その他こまごまとした家具が、全て視界に収まる。
窓に取り付けられたカーテンが外から差し込む夕日を和らげており、室内はやや薄暗い。
その中を、ポルナレフは慣れた足取りで進む。

「長いこと走らせちまって悪かったな。疲れたろ?そんなとこ突っ立ってないで、こっち来て座ったらどうだ?」

一人用のソファの前で振り返ると、こっちへ来いと手招きする。

「喉渇いてないか?冷えちゃいないが水ならあるぜ」

傍にはコーヒーテーブル。
その上に無造作に置かれた紙袋へ、ポルナレフは手を伸ばす。

紙袋から引き抜かれた手の、指の間に飲み口を挟んで、ミネラルウォーターの瓶を二本取り出す。
半ば背を向けた体勢から振り向いて、取り出した内の一本を差し出した。

「なあ、飲むだろ?」

要るか、と改めて問うポルナレフへ、は答えずに歩み寄る。

確かに疲れていた。
息が上がって苦しいし、荒い呼吸を繰り返すせいで喉も渇いている。

近付き、受け取るのを待って差し出されたままの瓶へ手を伸ばし……それを無視して、ポルナレフの胸倉を掴んだ。

元々不自然に体を捻った姿勢でいたせいもある。
バランスと重心を少し崩してやれば、自分よりも大きな体は思う通りに傾いた。

「うおっ!?」

受け身を取る暇も与えず、自分が勧められたソファへポルナレフを投げ込む。
ミネラルウォーターの瓶は手を離れ、重い音を立てて床へと落ちる。
座面へぶつかった衝撃で周囲の埃が舞ったが、それを気にするよりも先に立つ感情があった。

「ふざけるなっ!!」

怒声と共にポルナレフの上へ乗り上げ、掴んだ胸倉を引き寄せる。

「なんてことしてくれたのよ!何で連れて来たのよっ!組織を裏切ったって思われたら私まで追われるじゃないっ!」

呆然としてなされるがままのポルナレフに向かって、噛み付くように一息にまくし立てる。

手を引かれ走り続ける状況から解放され冷静になってみれば、自分が窮地に立たされていることに気が付いてしまった。
思惑通り探しに来てくれたドゥイリオの目の前で、ポルナレフと連れ立ち場を離れた。
あの時の行動をどう捉えただろうか。

こちらにポルナレフの手を振り払えただけの技術があることを、彼は知っている。
直前に名を呼んだので声を封じられた訳でもないと理解したはずだ。

手以外は自由に動けた中で自分は、ポルナレフから逃げもせず、ドゥイリオに助けを求めもしなかった。
それは、自らの意思でポルナレフと共に行く判断を下したと捉えられても仕方ないのではないか。

組織を、裏切ったと。

息継ぎの間に言葉を切った唇がわななく。
望まぬ状況へ追い込まれたことへの怒りを吐き出した後に感じたのは、恐怖だった。

ポルナレフの胸倉を掴んでいた手から力を抜き、自らの顔を覆う。

「絶対に追われるわ……組織は裏切りを許さないもの。ああ、どうしよう!どう疑いを晴らせばいいの……?」

何故自分は抵抗しなかったのか。
逃げている間にも繰り返していた自問が頭を過る。

ドゥイリオの位置からでは見えていなかったかも知れないが、ポルナレフに掴まれていた手の中には拳銃もあった。
指に少し力を加えれば、裏切りを疑われるというややこしい事態を招くこともなく、全て丸く収まったのに。

それが出来なかったのは、直前に発した彼の一言が原因だ。

乗り上げた体の下で動く気配がする。
顔を覆った手の甲に、ポルナレフの指先が触れる感覚。

「……いきなりどうしたんだ?少し落ち着けよ、

宥めるように低めた声に、はぴくりと身を震わせる。

「……貴方のせいよ」
「え?」

指の隙間からこぼした呟きは、ポルナレフにきちんと届かなかったらしい。
訊き返されてからは顔を上げ、正面に青い瞳を見る。

彫りの深い顔。
大きく開かれた目の奥に収まる青い瞳。
厚みのある唇に鼻筋の通った面立ち。
何度思い返してみても、の中に過去その顔と会った記憶はない。
だというのに、彼は確信を持って呼びかけた。

にとっては苦く、仄かな郷愁を誘う、名前を。

は……私が、五年前に捨てた名前よ」

自分で口にするのは久し振りで、僅かに喉が震えた。
ポルナレフが呼ばなければ、今後一生口にすることも、口にされることもなかったものだ。
自身の声で紡がれた名前を自分の耳が捉えるや、当時の記憶がフラッシュバックする。
あまり気持ちのいいものではない。

過去に囚われ細部まで思い出す前に頭からそれを追い出し、今は目の前のポルナレフに意識を向ける。

「何故、会ったこともない貴方が知ってるの?」

初対面の人間が知り得るはずのない、のかつての名前。
それをいきなり突き付けられたせいで思うように動けなくなり、結果今に至っている。

ポルナレフがどこで『』のことを聞きつけたのか、何の為に知ったのか。
はっきりとさせたくて投げた問いは、

「……会ったこともない?」

怪訝な表情と声音で返された。

「本気で言ってるのか?」

重ねて問われ、は動揺する。

「本気で、って……?どういうこと?」
「そりゃあこっちが訊きたい。五年前に捨てた?何を言ってるんだ?それじゃあ計算が合わないじゃあないか」
「計算……?」
「おれは……」

ふと、何かに思い至ったように、青の瞳が揺れる。

「まさか、また記憶を失くしてるのか?」

一瞬の沈黙の後、覗き込みながら真剣な顔で問うので、は輪をかけて訳が分からなくなった。
物心ついてから今日まで、酒を飲んですら記憶を失くした経験などないはずだが、「また」とは。

ポルナレフの中で『』は、記憶を失くしたことになっているのか。
向けられる眼差しには、あくまで真剣な色が浮かんでいる。
冗談で言っているのではないようで、だからこそ尚更、は混乱する。

気が付けば、一度は奪った会話の主導権が再びポルナレフに戻っており、

「貴方は……私の何を知っているの……?」

すっかり呑まれてしまったは、若干途方にくれつつ、うわ言のように呟く。
ポルナレフもまた、口にする言葉を探しあぐねているように見えた。

何度目か視線が交錯し、互いに言葉を探して落ちる沈黙。
それを破ったのは、にわかに聞こえてきた人の足音だった。

石畳を靴の踵が叩く音はとても小さいものだったのかも知れないが、沈黙の最中にあったには実際よりも大きなものとして耳に届いた。

混乱に緩んでいた意識を引き締め、体を捻り素早く玄関の方を振り返る。
一定の調子で聞こえ続ける音は、段々と近付いてきているようだ。

そっと息を詰め様子を窺う。
その腰に、おもむろにポルナレフの手がかかり、ぐいと引き寄せられた。

「わっ」

元々不安定な体勢で乗り上げていた為、軽く引かれるだけでポルナレフの腕の中に収まってしまう。
望まない密着状態に、そうさせた本人に抗議するべく、は近くなった顔を睨み付けた。
「ちょっと」
「シッ、静かに。鍵がかかってないんだ、見つかったら面倒だぞ」

押し殺した声で嗜められ、しぶしぶ口を噤む。
不本意ながらその通りだ。
鍵のかかっていない留守宅に、家人ではない者がいる。
この状態を怪しまれることなく釈明するのは難題に過ぎる。

人目を気にしなくてはいけない今、気付かれずにやり過ごすことこそが最善なのだ。
どうかこのまま通り過ぎてくれますように。
ポルナレフに体重を預けつつは祈ったが、起きて欲しくないことほど期待を裏切ってくるもので。

家の玄関の前まで来て、足音が止まる。
一気に緊張が走り、無意識にポルナレフの肩口に添えていた手に力がこもると、更に強く、腰に回った腕に引き寄せられた。

「入ってきたら窓から逃げる」

言いざま、ポルナレフの背に人影が現れた。
突如湧き立つように現れたのは、銀の甲冑に身を包んだ人の姿をした何か。
路地裏で対峙した時にも目にした、はこの現象の名前を知っている。

その人の精神を具現化した力……『スタンド』。

銀色のスタンドを現しながら玄関を見据える、ポルナレフの真剣な眼差しに思わず息を呑む。
次いでは、言い指された窓へ、緩慢な動作で目を向けた。

先程よりも明るさの衰えた、カーテン越しの夕日。
街はこれから夜へと向かう。
夜は姿を見えにくくしてくれるが、一方で物音を際立たせもする。
その中を再び走り回ることになったら、ドゥイリオや『組織』の目から裏切りのレッテルが取り除かれるまで逃げ続けなければならない。
そうなったら、ポルナレフからもたらされたこの混乱を解決する機会はそうそう得られなくなるだろう。

落ち着いて話を聞くなら、今をやり過ごす以外に方法はない。

は決意した。
ポルナレフの腕の中で身を捩ると、動くなというように力が強くなったので、心配しないで、という思いを込めてその腕を軽く叩く。
すると腕が緩んだので、乗り上げた体を転じ、玄関へ向き直った。

「私に任せて、ちゃんと掴まっていて」

ゆっくりとドアノブが回るのが目に入った。
最早時間はない。
は一つ深呼吸して、自身の力……スタンドを発現させる。

「This Silence Is Mine.」

腰に回されたポルナレフの腕が、現れたスタンドの姿を目にした瞬間、びくりと震えるのを感じた。





 開いた分だけオレンジ色の光が差し込む。
ドアを細く開けて中の様子を窺っていた男は、呆れたように息を吐いた。

「なんだ、アイツ鍵もかけずに里帰りしたのか。不用心だな」

空き巣に狙われでもしたらどうするんだ。
ぼやきながら、もう少し広く開けたドアに顔だけ突っ込み、中に異常がないかを確かめる。

締め切られた空間に僅か気流が起こり、舞い上がる埃が夕日を受けてきらと光る。
薄暗い室内は、無人の静けさに満ち、物音ひとつしなかった。













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