水に流す
『今宵。気があれば俺の部屋へ来い。良いな?』
成都城内でのデッドヒートを繰り広げた後、捕獲されたの耳に吹き込まれた言葉。
月英が誰かに言って用意してくれたのだろうお湯で体を流しながら、それを思い返す。
「『俺の部屋に来い』とか何だそれ…!」
借りたタオルで体をこすっていた手を止めて、我慢しきれず声に出した。
ついでにその言葉の持つ意味を考えて、やっぱり我慢しきれず悶絶する。
『部屋に来い』とは…つまりそういう事だろう。
初対面、しかも直前まで怪しさ全開で、逃走劇までしてみせた相手に対していきなり誘いをかけるとは思わなかった。
湯気に煙る天井を見上げて、湯気をスクリーンに思い出すのは、デッドヒートを繰り広げた相手、馬超の顔。
余所様のサイトを経巡って、そこに置いてある馬超関連の作品を見たり読んだりしてにやにやした経験もある。
好きか嫌いかで問われたら好きな方だと答えるキャラクターの一人だ。
だから、にやにやしていた身としては嬉しい展開と言えない事もないけれど。
何だか反応に困った。
『気があれば』と、敢えてこちらに考える余地を残しているのも曲者だ。
実質初対面の相手からいきなり誘われたら、お断りしたいのがの本音なのだが。
言葉を交わしたのはさっきのが初めてでも、こちらとしてはゲーム画面越しによく見知っている立場。
そんな奇妙な親しみと、一歩退いてこちらの意思を尊重してくれているような態度が、きっぱりお断りするのを躊躇わせる。
「あーああどうしよう…って何て贅沢な悩み!!」
見目悪くない、武将として腕っ節も強い。
世が世なら、世が世じゃなくても女性陣が放っておかないような人の誘いを、断るか否か頭を悩ませている。
羨ましいぞ自分!!
誰もツッコミ役がいないので、自分でそう突っ込んでおく。
状況的に余裕綽々という訳でもないので、お気楽に笑い飛ばす事は出来ないが。
「……とりあえず今はお風呂だお風呂!!」
今こうして考えてみても答えは出ず、頭の中がぐるぐるごちゃごちゃするばかり。
折角お風呂に入っている気持ちよさがすっかり打ち消されてしまうのは、やっぱり惜しい。
は一旦馬超の言葉を頭から追い出して、体を流すのに専念する事にした。
頭からお湯をかぶって、タオルを持つ手を再び動かし始める。
手が首筋に至って、馬超の唇が触れた事を思い出し、一瞬手が止まったけれど。
構わずごしごしと洗ってやった。
そのの背中へ、天井から落ちてきた水滴がぽたりと落ちる。
「冷てぇっ!!」
1800年と隔たった時代故か、それとも生まれ育った国の違い故か。
が着ていた服は、自分達の物とは随分と仕様が違う物だと、月英は思った。
扉の向こうでは、が体を流している。
その彼女が脱ぎ落とした衣服を興味深げに観察しながらの感想がそれだ。
仕立て方など、少しは似通った部分もある気がするが、殆どは斬新さばかりが目に付く。
「詳しく調べてみたいものだわ…」
頼んだら調べさせてくれないかしら?
自分では見る事の叶わない時代の衣服の作りはどうなっているのだろう。
発明家としての血も騒ぐのだろうか、縫い目をばらして服の構造を見てみたいという欲求がむくむくと湧き上がってくる。
こんな申し出を受けたら、思ってもみなかった事には相当驚くだろう。
僅かな時間の関わりではあるが、何となくその姿が想像できて、ついくすりと笑ってしまう。
月英は、が脱いだ服を手早くまとめ持った。
彼女を浴場へ案内する際、手近にいた女官へ替えの服を持ってくるよう頼んでおいた。
そろそろ持ってくる頃ではないだろうか。
の身の丈に合う服があるかしら。
そんな事に思いを巡らせながら、月英は脱衣場から出る。
「あ…月英殿。」
出た所で、何者かに声をかけられ、そちらへ顔を向ける。
書簡の山に足が生えたような物体が、こちらへ向かって歩いて来ていた。
勿論それは化け物などではなく、山のような書簡を抱えた誰か、である。
山の脇から前方を確認する為、少しだけ覗かせた顔が窺える。
ちゃんと顔は確認出来なくとも、月英は声の質でそれが誰であるかすぐに分かった。
見えているか分からないが、にこりと笑いかけ、月英は労いの言葉をかけた。
「ご苦労様、姜維殿」
山が小さく揺れる。
両手と上半身が書簡を支えていて体の自由が利かない中で、こちらの労いに答えてくれたようだ。
諸葛亮に師事しているその若者の事は、月英もよく見知っていた。
毎日少しでも多くのものを学び取ろうと、諸葛亮の傍で日々熱心に働く姿に、月英は好感を覚えている。
残念ながら今は、書簡の山のせいでその姿を見る事は出来ないが。
「その書簡、孔明様へ?」
「はい。丞相がお戻りになったと聞き、確認を頂こうかと」
「そう。今孔明様は少し出ておられるから、執務室に運んでおけばいいと思うわ」
「ありがとうございます」
「月英様。」
姜維との会話中、背後から声をかけられた。
振り向くと、畳まれた衣服を捧げるように持った女官が、こちらを窺っている。
すぐにぴんと来て、月英は小さく頷く。
「ありがとう。後は大丈夫ですから、あなたはこの服を洗濯しておいて下さい」
「畏まりました」
替えの服を持ってきた女官から服を受け取って、代わりにの服を渡し。
それを洗っておくように指示を出して下がらせる。
「月英殿?何事ですか?」
その間のやり取りを見られなかった姜維が、首を傾げたそうな声で問いかける。
女官が去る背を少しの間見送って、月英は姜維へと向き直った。
「どこかで耳にしてないかしら?孔明様が赤壁で見出した人の事」
「あぁ…聞いています。軍師の才を丞相に見込まれたとか…その方がここに?」
「そう。あなたと同じく孔明様に師事する事になる子よ」
へぇ…と呟く声が聞こえる。
書簡の向こうでは、口に上るその人物がいるであろう浴場の方を見ているのだろう。
「その子とあなたとは歳も近いから、仲良くしてあげて欲しいのだけど…」
「それは勿論!歳が近いなら、変に緊張しなくてすみそうですね」
照れたように笑う声に、つられるように頬が緩む。
と姜維は、恐らく同じ年頃だろう。
歳の近い者が傍にいるだけで、慣れない土地に来てしまったも少しは安心できるのではないか。
月英は姜維にそういった役割を期待して話題を振った。
回答は良好。
新しい土地でちゃんと暮らしていけるかしら。
そんな親心にも似た思いを抱いて、姜維の回答にほっとしたのは、誤魔化しようのない事実だった。
「それでは、私はこれで。足止めさせてごめんなさいね」
「いえ、こちらこそお時間を取らせて申し訳ありません、月英殿」
兄弟弟子殿によろしくお伝え下さいますよう。
そう言いながら姜維が、折り目正しく礼…をしようとした所で、ぐらりと揺れた山に慌てて体勢を立て直す。
礼が出来ないので、仕方なく「では、」という言葉で挨拶代わりにした。
その姜維が、書簡の向こうで照れたような気配がする。
可愛らしい反応だと思ってしまうのは少し可哀相だろうか?
思いつつも否定出来なかったので、くすりと笑うだけで、後は何も言わない事にした。
月英はそのまま姜維と別れ、先程出て来た脱衣場へと再び戻っていった。
「うわぉ可愛いっ!!」
月英に着付けて貰い、装いも新たになったは、ついはしゃいだ声を上げた。
上げた所で、くすくすと笑う月英の顔に行き当たり、はっとして浮かれ気分を慌ててしまい込んだ。
でも上がったテンションはそうそう下がらないでしょうよ。
テンション上がった要因がそこにあり続けるんだから。
裾をつまんだその指先からの感触にさえ、にやにやが止まらない。
「気に入ってくれたようね。すぐに用意できるのが女官の衣だったのが申し訳ない所だけれど」
「いやいやそんなん気にならないですよ!十分可愛い!!」
「そう?」
なら良かったわ、と月英の笑顔一つ。
その笑顔にこちらからもうふふーと笑い返して、視線を下に移動する。
ここの文化に詳しくないから言われてもぴんと来ないが、この服は女官の物らしい。
メイドさん、みたいな認識で合っているだろうか。
そういう人達が着る服だから、月英は申し訳ないと言ったんだろうけど。
こちらからしてみたら、女官服であろうと何であろうと大きく言ってしまえば「民族衣装」だ。
現代にいたら滅多に着る機会なんて無い物をこうして着せて貰えているんだから、文句なんてなかった。
可愛いし。
が心の底から喜んでいる様を見て、月英もようやく安心したようだ。
最初は言葉通り申し訳なさそうな顔をしていたものの、今はその色も失せて、とてもいい笑顔をしている。
「では、外に出られるようになった所で、貴女の部屋へ案内しましょうか」
「わ、部屋!?至れり尽くせり!ありがとうございます!!」
「ふふ、礼を言うなら殿にでしょう?準備はよろしいかしら?」
「はいもうバッチリです!」
「ばっちり?」
「準備万端って事です!」
面白い表現ね、と笑いながら、月英が先に立って脱衣場を抜けた。
もその後に続く。
文官武官は大抵城外に邸があって、城内で使っている部屋は仮眠出来る設備も備えた執務室、らしい。
それと同じ様なものだが、ちゃんと生活用品を揃えた部屋を用意すると、劉備が言ってくれた。
邸を持たないはそこで寝起きする事になる。
城内に住めるという事で、劉備にその話をされた時はすごく舞い上がってしまった。
今、月英はその用意して貰った部屋へ案内してくれるという。
服の嬉しさも相まって、先を行く月英の後を足取りも軽やかについていく。
その、数歩後。
ぐんっ、
足下が、引っ張られた。
「おぶっはっっ!!?」
手でバランスを取る間もなく、何が起きたかを理解する間もなく。
べしゃ、と無様に崩れ落ちた。
ああ、何だか初めて劉備達と顔合わせした時の事が走馬燈のように。
鼻は打たなかった。
けれどヘッドスライディングの滑らない版のように転んだを、月英が少し離れた所から注視している。
とっても、ばつが悪い。
「殿…大丈夫ですか?」
「あはは、裾踏みました…」
む、無念……!!
敵討ちを果たせず返り討ちにされた武士、ではないけれど、そんな思いを胸に。
は取り繕うように、愛想笑いを浮かべた。
お風呂です。セクシーショット?何それ。
お風呂場っつーよりは沐浴?そんな事するような場所を借りてお湯湧かして貰って体洗ってるような、そんな感じです。
バスタイム最後の奴は「いーい湯ーだーなっ アハハン♪」から。
あれっ、知ってる人少なかったりするんだろうかこれ
ヒロイン、姜維とニアピンですれ違いの巻。
彼にはヒロインという弟子がそこにいるって事を何となく認識してもらうぐらいにしときたかったんです今回は。
彼との会話はちょっとの間お預け。
次はお部屋へご案内。
戯
2008.10.20
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