情報開示
聴覚が何かを捉え、はゆっくりと目を覚ました。
「…今何時だろ……って、あぁそうか……」
薄暗い視界を不思議に思い、時間を知ろうと頭の横にある筈の携帯に手を伸ばし、しかし馴染みのない感覚が指先に生じる。
布団とは違う、冷たく硬い面に触れ、はようやくここが自宅でない事を思い出した。
赤壁にいるんだっけ、と納得して、小さく息を吐く。
「ぅ…あだだ……背中がビキビキ言う………」
身を起こすと、硬い石畳の床に寝たせいで体中が凝り固まり、少し体を捩るだけで関節が鳴った。
横たわっていたのは、牢の床に敷いた薄い布一枚の上。
敷布と称するにはあまりに薄すぎる代物では、床に直に寝ているのと殆ど同義だ。
一日の疲労回復の為の睡眠である筈なのに、逆に疲れたと思うのはきっと気のせいではない。
一晩の凝りをほぐすように肩や首などを動かしつつ、牢の中をぐるりと見渡す。
「……どこ行ったんだろ」
昨日、食事の時に会話した同室……というか同じ牢にぶちこまれた仲間というか……の男がいない。
火が消え、もう寝ようという話になったその時まで確かにいたというのに。
という事は、が寝入った後にここを出て行ったのだろう。
何故出て行けたのだろうとふと考えた丁度その時、外の廊下を慌ただしく走る音が右から左へ過ぎていく。
その音に気を留め、外の気配に耳をそばだてた。
聴いている傍から、右から左へ、左から右へ。
昨日初めてここを訪れたばかりのにもそうと分かる程、異様に人の往来が激しい。
慌ただしく、遠くで張り上げられている声も届く。
今日の目覚ましはこの音だったのかと、は納得した。
その途端、頭の中にある等式が浮かんだ。
起きてからの短い時間で得た情報で立てられる、式。
目覚ましになる程の騒音+同じ牢にいた筈の男が起きたらいなくなっていた事実。
イコール。
脱走 ?
「…………っ!!」
辿り着いた等式の答えの深刻さに気付き、ドアに体当たりする勢いで格子にしがみつく。
落ち着きなく右へ左へ視線を動かしている内、廊下をやはり忙しそうな兵士が通りかかった。
夢中で声をかける。
「あのっ!!何かあったんですか!?」
「……うん?何だ、お前なんぞに関係ない!」
「…………ですよねー…………」
一瞬立ち止まってはくれたものの、問いは一蹴され、兵は去っていった。
格子にしがみついたまま、は落胆の溜息を吐いて肩を落とす。
内心ではちょっとした焦りがぐるぐると渦を巻いていた。
同室の男が脱走したにも関わらず、それに気付かずあまつさえのうのうと寝こけていたのだから。
逃走の手助けでもしたのでは、仲間だったのではと疑われてしまうやも。
いや、劉備には自分の身許を明かしてあるから大丈夫だ……とは思っていても、やはり不安である。
どうしようどうしようと悶々と考えていると。
「……おや、そんな所に張り付いてどうしました?」
何故か折良く、諸葛亮が牢の前を通りかかる。
声に反応してガバッと顔を上げ、見知った相手に噛みつくように問いかけた。
「諸葛亮さん!何があったんですか!?」
「?何とは……今朝から出陣の準備が始まったのですが」
の慌てた様子を訝しげに目を細めて見つめながら、諸葛亮は答える。
「そう…ですか、良かった」
「それが何か」
「い、いえっそれなら良いんです!騒々しいからちょっと気になっただけなのでっ」
知らずに小さく漏れた溜息を耳聡く聞きつけた諸葛亮に、その真意を知られまいと敢えてにこやかな顔を返した。
まだ一緒の牢にいた男の脱走はばれていないようだ。
良かった、と素直に安心したところで、諸葛亮の「出陣」という言葉に気がつく。
「……あの、今日戦が始まるんですか?」
「ええ、向こうも攻めてくる頃合いでしょうから」
「へぇ……」
すごいな、という言葉が自然と溢れ出た。
歴史でしか知らない戦の一つが、自分のいる所で始まろうとしているのだから、感慨を覚えない訳がない。
出来る事ならこの目でその一戦を拝みたいと思うが、残念ながらここは牢の中。
且つ窓もない部屋だから、ここから感じられる「戦」と言えば鬨の声ぐらいであろう。
残念だ、と思った。
こんな近くで無双キャラ達がゲーム内さながらに戦うのに。
正直、見られないのが非っ常に残念だった。
ちらり、と諸葛亮を伺う。
こちらをじっと見つめてくる目。
「外に出て、戦を見学しますか?」
視線がかち合うとほぼ同時に、そんな一言。
「…………へ?」
「この時代に起きた出来事の知識がおありなら、実物も見たいのではと思い呼びに来たのですが……興味はありませんか」
「いっ!?いえいえめっちゃ興味ありますとも!!すっごく見学させてもらいたいです!!」
呆けている間に話が流れそうになって、慌てて首肯する。
テレパシーでも伝わっているかのような絶妙のタイミングで切り出された提案。
これも臥龍と称された諸葛亮だからこそなせる業なのかと、半ば本気で信じ驚いた。
先人達が意図した命名理由からはまず外れているだろうが、改めて彼の凄さを知る。
「では、食事の後、人を寄越しましょう」
どうやらここまで彼が足を運んだのは、そのことを訊くためだったらしい。
まだ自分が未来から来た事は昨日の二人にしか話していないし、彼らもまだ誰にも話していないのだろう。
雑兵ではなく、戦の要、軍の頭脳である諸葛亮がわざわざ足を運んだ事からもそうと知れる。
先のことを知っている娘となれば、この時代の人々なら喉から手が出る程欲しい存在だろう。
手に入れる為に、その人間が身を置いている蜀に、相手がどんな手を打ってくるか。
それを未然に防ぐと同時に、先の知識を他国に漏らさぬよう。
諸葛亮達は黙秘を選んだ。
事情を知らない兵士が見たら、軍師自らこんなどこにでもいそうな娘を訪ねるなど、さぞ不可思議な光景だろう。
自分でも今の身の上が不思議で仕方ないのだから。
そして去っていくかの軍師の背を見つめていて、はっと気付く。
「あの人がいない事、言っておけば良かった……!!」
諸葛亮の態度からして、自分が未来から来たという話は一応信じてはもらえているようだ。
それはあくまでやましい所がなさそうだという判断であって、完全に信じてもらえているかは定かでない。
だからこそ、男がいないことが露見すれば共謀したとの嫌疑をかけられるかも知れない。
たとえ本当に身に覚えがなくても、ここは戦場。
どんなに信用できる事でも、必ずどこかで疑っていなければならない場所。
朝起きたらあの人がいなかったと言っておけば。
何かが変わったとは言わないが、黙っているよりは信用されただろうに。
嗚呼。
と後悔している内に届いた食事。
そこには一人分の配膳しかされていなかった。
「魏軍の船とこっちを繋ぐ真ん中の二本の橋に、将が一人ずつ配置されてます。進む際は気をつけてください」
「黄蓋さんが向こうで苦戦するかも知れません。一応呉の誰かが援軍に向かった方が良いかもです」
「状況によっては諸葛亮さんの祭壇に張遼さんが向かってくる事があります。警護は厚くしておいた方が良いです」
三度足を運んだ、が落ちた例の部屋。
食事が終わったは諸葛亮によりこの部屋に呼び出された。
この戦について知っている情報を提供し、それぞれの対処法を検討する為に、である。
正史では連合軍の完勝だった。
は劉備の唱える仁の世が顕現する事を願っている。
ここは一つお互いの利害の為に、魏軍勝利の結末を避けようではないか。
魏軍寄りのストーリー展開にはさせない!と妙な闘志が沸々とわき上がってくる。
勝敗の行方については口を閉ざすが、連合軍の勝利に貢献するのに多少のネタバレは気にしない。
それがが独断で引いた、未来の情報の開示非開示のボーダーラインだった。
「いや、何とも心強い軍師が来たものだな、諸葛亮」
陣立ての図を見据えて指を差しながらの口から出てくる言葉に、劉備は素直に感嘆の声を上げた。
彼がここにいるのは、がここにいるから。
先の世から来た娘というものに、彼は少なからず好奇心をくすぐられたようだ。
本来なら軍師と策の要となる者とでまず話し合われるだろう場に彼がいるのは、そんな理由からだった。
劉備の何気なくも素直な賞賛に、は少し照れくさくなる。
「本当に。これ程確かで信用できる情報は他にありませんね」
「そ、そんな大げさな……!!戦場全部把握してる訳じゃないし、諸葛亮さんのがもっとずっとすごいです!!」
が今口にしている情報は全て彼らが考え選び取り、歩んだ道だ。
自身がすごいのではない。
「私の知ってる歴史通りに動くとは限らないし……」
「それでも、心強い事に変わりありません。少なくとも、貴女の仰ったとおりの状況には完全に対策を立てられるのですからね」
少し翳った思考も、畏敬の念すら抱いている諸葛亮に言われてしまえば、くすぐったいような嬉しさに満たされる。
面映ゆくて赤くなる頬を押さえれば、劉備の手が頭に置かれた。
彼に触れられている事実のすごさに、ついつい頬が緩む。
は満面の笑みを二人に向けた。
戯は結構床とかでそのまま寝ても平気な方なんですが、それでもその後は背骨がバキバキ言います。
もういっそ気持ちが良いくらいに。
配膳が一人分しかなかった。
という事は、諸葛亮は既に男の脱走(?)を知っていたという事で。
ヒロインも自分の分しかないご飯を見て、その事に何となく気付きました。
ので、この後は彼についてヒロインがうだうだ考える事はありません。
「まぁ良いか。」それで終わりです。一期一会。
名前も知らない彼(徐庶)よりも、目の前にいる劉備と諸葛亮のが大事ですから!!
幸せ絶頂期のヒロイン。
次は赤壁の戦い真っ最中です。
戯
2006.8.29
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